第28話 それぞれのキャンパスライフと、忍び寄るインフレ
第28話 それぞれのキャンパスライフと、忍び寄るインフレ
一九八九年(平成元年)、秋深まる十一月。
正式に「恋人」という関係になった俺と陽子は、それぞれの場所で忙しくも充実した日々を送っていた。
「健一くん、明日のデートだけど、夕方からでもいいかな? 保育実習の指導案を出し直さなきゃいけなくなっちゃって……」
金曜日の夜。俺が都内のアパートの近くにある公衆電話から、陽子の『実家』に電話をかけると、受話器の向こうから申し訳なさそうな声が響いた。
当時は携帯電話などなく、恋人同士の連絡といえば、親が出ないことを祈りながら実家の固定電話を鳴らすか、十円玉の山を積んで公衆電話からかけるしかなかった。
恋人同士になってから、彼女は俺を「健一くん」と呼び、俺も「陽子」と呼ぶようになった。まだ少し照れくさいが、五十代のオヤジの心臓にはこの甘い響きが一番効く。
「構わないよ。実習の準備が最優先だろ。夕方、陽子の実家の近くまで行くから、どっか落ち着いて飯が食える店に行こう」
「本当!? ありがとう、健一くん……すっごく助かる。私、実習先の園長先生が厳しくて、ちょっと心が折れそうになってたから……」
「馬鹿だな、俺は陽子の味方だって言ってるだろ。温かいもん食わせてやるから、それまで頑張れよ」
「うんっ! がんばる!」
受話器を置き、俺は小さく息を吐いた。
陽子の通う地元の保育短大は、一年生の秋から早くも本格的な実習が始まっていた。
実際に幼稚園や保育園へ赴き、現役の保育士たちの厳しい指導の下で、ピアノ、絵本の読み聞かせ、そして分厚い「指導案」や「実習日誌」の作成に追われるのだ。寝る間も削って日誌を書き、睡眠不足のフラフラな状態で、翌朝には子供たちの前で満面の笑顔を作らなければならない。陽子の声には、明らかな疲労の色が濃く滲んでいた。
一方、俺が通う都内の私立大学はといえば、まさに『バブルの頂点』の狂騒に包まれていた。
「おい高橋! お前、また今日もバイトか? 株価、ついに三万八千円突破したぞ! うちの親父が持ってたNTT株が爆上がりしてさ、その儲けでポンと『新車のBMW』を買ってもらったんだよ!」
ゼミの講義終わり、ブランド物のジャケットを着崩した同級生の鈴木が、肩をバンバンと叩いてきた。
キャンパスを見渡せば、どこもかしこも浮かれた空気で満ちている。
企業は学生を青田買いするために、「拘束」と称して高級ホテルでのディナーや海外旅行まで用意して接待を行っていた。学生の分際で株や不動産投資の話を誇らしげに語る連中や、親の金で買った外車を乗り回す連中が我が物顔で歩いている。
誰もが「今日より明日、明日より明後日の方が必ず豊かになる」という、根拠のない、だが強烈な集団催眠にかかっていた。
「新車のBMWか、すごいな。事故らないように安全運転しろよ」
俺は愛想笑いを浮かべながら、内心で冷ややかな視線を送っていた。
(……笑えるよな。今お前らが浮かれてるその株価も、地価も、あとたった一ヶ月で頂点を打ち、来年からは地獄の底へと転げ落ちていくんだからな)
一九八九年末の日経平均株価三万八千九百十五円。
それが、日本経済が経験したことのない異常なバブルのピークだ。翌一九九〇年の年明けから株価は大暴落を始め、さらに大蔵省による「不動産融資総量規制」が決定打となり、日本経済の心臓は完全に停止する。
五十代の記憶を持つ俺にとって、キャンパスで浮かれる連中は、沈みゆくタイタニック号の甲板でシャンパンを開けて踊っているようにしか見えなかった。
「悪いな、俺は今日もバイトなんだ。稼げる時に稼いでおかないとな」
俺は鈴木の呆れたような視線を適当に躱し、大学の正門を出て足早に駅へと向かった。
俺のキャンパスライフは、ひたすら「現金(タネ銭)」を稼ぎ、貯め込むことの連続だった。
時給が異常に高騰している引越しの肉体労働、家庭教師、そして夜間の仕分け作業。稼いだ金は一円たりとも遊びには使わず、郵便局の定額貯金(当時の金利は年六パーセント近くという、現代から見れば信じられないほどの超高金利だった)に全額ぶち込んでいた。
俺の目的はただ一つ。数年後、バブル崩壊で地獄と化す市場で、紙くずのように叩き売られる「インフラ系や堅実なメーカーの優良株」を底値で買い集めるための軍資金を作ることだ。
それが、就職氷河期を乗り切り、将来、陽子と家庭を持った時の強固な『防壁』となる。
土曜日の夕方。
俺は都内から電車を乗り継いで地元に戻り、陽子の実家から少し歩いたところにある、昔ながらの静かな洋食屋の前で彼女を待っていた。
レンガ造りの外観に、食品サンプルが並んだショーケース。デミグラスソースの香ばしい匂いが、換気扇から冬の冷たい空気の中へと漂い出している。
「お待たせ、健一くん!」
声のする方を振り返ると、分厚い実習日誌やスケッチブックがパンパンに詰まった重そうなトートバッグを抱え、陽子が小走りでやってきた。
グレーのダッフルコートに、俺が贈ったワインレッドのマフラー。そして胸元には、あの純銀のティアドロップのネックレスが静かに光っている。
「走らなくていいよ。それ、すごく重そうだな」
俺が彼女の手からトートバッグを受け取ると、ズシリとした重みが腕に伝わってきた。
「うん、日誌と指導案と、あと明日使うパネルシアターの材料が入ってるの。健一くん、持たせちゃってごめんね」
「このくらい平気だ。ほら、中に入ろう。外は冷える」
カランコロン、とドアベルを鳴らして店に入ると、暖房の効いた店内は柔らかなオレンジ色の照明に包まれていた。
奥のボックス席に向かい合って座り、俺たちは熱々のハンバーグセットを二つ注文した。
「はあ……なんか、健一くんの顔見たら、急にホッとしちゃった」
陽子は温かいおしぼりで手を拭きながら、小さく息を吐いた。その目の下には、うっすらと寝不足の隈ができている。
「実習、かなりしんどそうだな」
「うん……。子供たちはすっごく可愛くて天使みたいなんだけど、先生たちがね……。私の書いた指導案、真っ赤になるまでダメ出しされちゃって。ピアノも緊張して途中で止まっちゃうし、『中村さん、保母の自覚が足りないんじゃないの?』って怒られちゃった」
陽子は少しだけ涙声になりながら、テーブルの上に置かれた自分のお冷のグラスを見つめた。
過酷な現場で揉まれ、自分の不甲斐なさに直面する日々。十八歳や十九歳の少女にとって、それはあまりにも重圧だっただろう。
一周目の俺は、そんな彼女の愚痴を「社会に出たらもっと厳しいんだから、そのくらい我慢しろよ」と突き放してしまった。本当に最低な男だったと思う。
俺はテーブルの上に置かれた陽子の小さな手に、自分の手をそっと重ねた。
「あのな、陽子。最初から完璧にできる奴なんて、この世に一人もいないよ。先生たちが厳しいのは、それだけ子供の命を預かる責任が重い仕事だってことを教えるためだ。陽子をいじめたくて言ってるわけじゃない」
「……うん」
「指導案が真っ赤になったなら、それは次に直すためのヒントだろ? ピアノが止まっちゃうなら、俺が何度でも客になって聴いてやる。怒られて落ち込むのは、陽子が本気でいい保母さんになろうとしてる証拠だ。俺は、そんな陽子をすげえ立派だと思うよ」
俺の言葉に、陽子はパッと顔を上げ、大きな瞳を潤ませた。
やがて、彼女は重ねられた俺の手をギュッと握り返し、胸元で光る銀色のネックレスにそっと触れた。
「……うん。うんっ……! 私、負けない。辛い時も、このネックレスに触ってると、健一くんがそばにいてくれてる気がして、すごく力が出るんだ」
その純粋すぎる笑顔と真っ直ぐな言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
(……俺の五十代の荒みきった魂には、お前のその無防備な信頼は眩しすぎる)
「……そうか。なら、明日の実習も大丈夫だな」
俺が照れ隠しにそう言うと、ちょうどタイミング良く、湯気を立てるハンバーグとライスのセットが運ばれてきた。
鉄板の上でジュージューと跳ねるデミグラスソースの香りが、二人の間の空気をさらに温かくしていく。
「わあ……美味しそう! いただきまーす!」
陽子はさっきまでの涙顔が嘘のように目を輝かせ、ハンバーグを小さく切って口に運んだ。
「ん〜っ! 美味しい! 健一くん、ここのハンバーグ最高だよ!」
「俺もだよ。陽子が実習で頑張ってる話を聞きながら食うと、街の洋食屋のハンバーグも三ツ星レストランの味だ」
俺が笑って答えると、陽子は「もう、またそんなこと言って!」と頬を赤くしながらも、とても幸せそうに微笑んだ。
互いに別の道を進み、激動の時代に揉まれながらも、こうして過ごす時間は何物にも代えがたい。
俺は陽子の笑顔を見つめながら、心の中で静かに誓った。
これから日本経済が未曾有の崩壊を迎え、周囲の人間たちが絶望の淵に突き落とされようとも。
俺が死に物狂いで築き上げる「知識と資本の壁」で、このささやかで温かい二人の幸せを、絶対に守り抜いてみせる、と。
一九八九年末。歴史的な株価のピークまで、あと一ヶ月。
忍び寄る崩壊の足音を、俺だけが静かに、そして冷徹に待ち構えていた。
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