第29話 短大での過酷な保育実習と涙
第29話 短大での過酷な保育実習と涙
一九八九年(平成元年)、十二月上旬。
日本経済が、永遠に続くと思われた狂乱の頂点に向かって、最後の猛烈な熱を放っていた時期。
「おい高橋、年末の夜勤シフト、もっと入れるか? 特別手当がついて、時給三千円出せるぞ」
都内の巨大な物流倉庫。吐く息が真っ白に染まる冷え切ったプラットホームで、バイト先の社員がシフト表を片手に声をかけてきた。
「入ります。稼げる時に稼いでおきたいんで」
俺が即答すると、社員は「お前、本当に大学生かよ? 遊びにも行かねえで金ばっか貯めて、何が楽しいんだか」と呆れたように笑い、去っていった。
深夜の倉庫作業は過酷を極めた。お歳暮やクリスマス用の高級食材、ブランド品の詰まった段ボールが無限にベルトコンベアから流れてくる。それをひたすら仕分け、トラックに積み込む単純かつ重労働。
周りのフリーターや学生たちは「このバイト代でハワイに行く」「六本木でパーッと使う」と息巻いていたが、俺は稼いだ現金を一円の無駄遣いもせず、すべて定額貯金の口座に叩き込んでいた。
夜が明け、始発の電車に乗って俺の住むアパートへ帰る道すがら。
俺は駅のキヨスクで朝刊を買い、経済面の活字を冷ややかな目で見つめていた。
日経平均株価は、連日のように最高値を更新し続け、三万八千円台という信じられない領域に突入している。
(……もうすぐだ。今月末には三万八千九百十五円という大天井を打ち、そこからすべてが崩壊する)
五十代の記憶を持つ俺にとって、キャンパスで浮かれる連中やテレビの狂騒は、まさに死へのカウントダウンにしか見えなかった。
だからこそ、この肉体労働で稼いだ「タネ銭」が、数年後に底値で優良株を買い漁るための、そして陽子を守り抜くための最強の武器になるのだ。
冷え切った六畳一間のアパートに帰り、シャワーを浴びて泥のように眠ろうとしたその時だった。
枕元の黒電話が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。
時計を見ると、土曜日の午前七時半。
俺は跳ね起き、慌てて受話器を取った。
「もしもし、陽子か?」
『……っ、健一、くん……』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、絞り出すような、ひどく掠れた声だった。
そして、それに続く小さな嗚咽の音。
「陽子!? どうした、何かあったのか?」
俺の頭から、眠気と疲労が一瞬で吹き飛んだ。五十代のオヤジの保護欲求と焦燥感が、警報のように全身を駆け巡る。
『ごめんなさい……こんな朝早くに……。私、もう、ダメかもしれない……』
「落ち着け。何があった。ゆっくりでいいから話してごらん」
俺が努めて低く、穏やかな声で促すと、陽子はしゃくりあげながら、途切れ途切れに事情を話し始めた。
現在、短大二年生の陽子は、カリキュラムの中でも最も過酷とされる「秋から冬にかけての責任実習」の真っ只中にいた。
ただ見学するだけでなく、実習生が自ら一日のスケジュールを立て、実際に数十人の子供たちの前に立って保育を取り仕切るという、プレッシャーの塊のような期間だ。彼女は毎朝、都内の実家から満員電車に揺られ、指定された実習先の保育園へと通っていた。
『昨日……お外遊びの時間に、私、園庭で子供たちと一緒に鬼ごっこをしてたんだけど……』
陽子の声が震える。
『寒さのせいか、昔ケガした足の古傷が急にすごく痛み出しちゃって……。うまく走れなくて、立ち止まっちゃったの。そしたら、その隙に男の子同士がぶつかって、一人が転んで膝をすりむいちゃって……』
陽子には、小学生の頃に負った足の靭帯の古傷があった。普段の生活には全く支障はないが、極度の寒さや疲労が重なると、鈍い痛みが走ることがあるのだ。
一周目の俺もそのことは知っていたが、「大したことないだろ」と軽視してしまっていた。
『主任の先生に、すっごく怒られたの……。ケガ自体はかすり傷だったけど、「足を引きずって子供の安全を守れると思ってるの? あなたのその甘さが、いつか取り返しのつかない事故を起こすのよ。そんな覚悟なら、今すぐ保母なんて辞めなさい」って……』
電話口から聞こえる嗚咽が激しくなる。
『悔しくて、情けなくて……。昨日の夜も、足が痛くて眠れなくて……指導案も涙で滲んじゃって……。私、本当に保母さんに向いてないのかな。健一くんが応援してくれてるのに、私、こんなに弱くて……ごめんなさい……っ』
その泣き声を聞いた瞬間、俺は受話器を握りしめる手にギリッと力を込めた。
主任の保育士が言っていることは、プロとして当然の厳しい指摘だ。命を預かる現場で、言い訳は通用しない。
だが、痛みを堪えて子供たちのために誰よりも必死に笑顔を作ろうとしてきた陽子の努力を、俺だけは痛いほど知っている。
「……陽子」
俺は静かに、しかし絶対の安心感を与えるように低く呼びかけた。
「今日は土曜保育で、実習は半日(午前中)で終わるはずだ。園を出る時間は何時だ?」
『え……。一時、には……終わると思うけど』
「わかった。実習先の保育園の近くにある、あの大きなイチョウの木の公園。あそこで待ってる」
『えっ? 健一くん、疲れてるんじゃ……』
「今すぐ電車に乗る。一時間もかからない。絶対に行くから、あと半日だけ、何とか歯を食いしばって頑張れ。俺が迎えに行ってやるから」
『……うんっ……! 待ってる、私、待ってるから……っ』
電話を切ると、俺はジーンズとコートを引っ張り出し、財布だけをポケットに突っ込んで部屋を飛び出した。
私鉄を乗り継ぎ、彼女の実習先がある都内の住宅街へと向かう。
車窓から見える冬の青空を眺めながら、俺の心の中には、一周目の人生で彼女を一人ぼっちで泣かせていたことへの激しい後悔と、今度こそ絶対にその小さな背中を支え抜くという強い決意が渦巻いていた。
午後一時半。
ビル風と冷たいからっ風が吹き荒れる中、俺は保育園の近くにある公園の入り口に立っていた。
やがて、保育園の門から、分厚いコートを着て、重そうなトートバッグを肩にかけた陽子が歩いてくるのが見えた。
その足取りは、明らかに右足を庇うように少しだけ引きずっていた。うつむき加減で歩くその小さな姿が、五十代のオヤジの胸を容赦なく締め付ける。
「陽子」
俺が少しだけ大きな声で呼ぶと、ビクッと肩を震わせた陽子が顔を上げた。
「健一、くん……っ」
俺の姿を認めた瞬間、彼女の大きな瞳から、せき止めていたものが一気に決壊したようにボロボロと涙があふれ出した。
陽子は重いバッグを放り出すようにして、引きずる足で駆け寄り、俺の胸にドンッと飛び込んできた。
「うわああぁんっ……! 健一くん、健一くぅんっ……!」
子供のように声を上げて泣きじゃくる彼女の背中を、俺はコート越しに両腕でしっかりと抱きしめた。
彼女の髪からは、保育園の石鹸の匂いと、クレヨンや給食の匂いが微かに漂ってくる。
その細く華奢な体で、命を預かるという途方もないプレッシャーと、身体の痛み、そして自分の不甲斐なさに対する絶望と必死に戦ってきたのだ。
「よく頑張ったな。偉いぞ、陽子」
俺が背中を優しくさすりながら耳元で囁くと、陽子は俺のコートの胸元をギュッと握りしめ、何度も何度も頷きながら泣き続けた。
やがて泣き止んだ陽子を公園のベンチに座らせ、俺は近くの自動販売機で温かいココアの缶を二つ買ってきた。
「ほら、温まれ」
「……うん、ありがとう。ごめんなさい、私、子供みたいに泣いちゃって……」
鼻の頭を真っ赤にした陽子が、両手でココアの缶を包み込みながら恥ずかしそうにうつむく。
その胸元には、服の下に隠すようにして、あの日贈った銀のネックレスのチェーンが見えていた。実習中も、お守りのように身につけてくれていたのだ。
俺は自分の缶をベンチに置くと、陽子の前に片膝をついてしゃがみ込んだ。
「えっ……健、一くん? 何してるの?」
「右足だろ。少し伸ばしてごらん」
俺は戸惑う陽子の右足のふくらはぎに両手を当て、分厚いタイツとコートの上から、ゆっくりと、優しく揉みほぐし始めた。
「ひゃっ……だ、ダメだよ、外だし、そんなことさせられない……!」
陽子が慌てて足を引っ込めようとしたが、俺は「いいから」と制した。五十代のオヤジにとって、愛する女の痛みを和らげることに照れや躊躇いなど一切ない。
「冷えと緊張で筋肉がカチカチになってる。これじゃあ痛むはずだ。……痛かったな、一人でよく耐えたよ」
俺の手のひらから伝わる熱と、その言葉の響きに、陽子はまた少しだけ瞳を潤ませ、おとなしく俺のマッサージに身を任せた。
「……主任の先生に言われたこと、正論だなって思う。私みたいな足手まとい、保母さんになる資格ないのかなって……」
ぽつりと漏らした陽子の弱音に、俺は手を止め、彼女を真っ直ぐに見上げた。
「それは違うぞ、陽子」
「え……?」
ここからは、何十人もの部下をマネジメントし、幾多のクレームやトラブルを乗り越えてきた『五十代の元・中間管理職』としての出番だ。
「主任の先生が言ったのは『足を引きずるなら辞めろ』っていう表面的なことじゃない。『自分の身体のリスクを管理できないならプロ失格だ』ってことだ」
「リスクの……管理?」
「そうだ。プロフェッショナルっていうのは、決してケガをしない人間のことじゃない。自分の弱点や限界を正しく把握して、事前に周りと連携を取れる人間のことだ。陽子には足の古傷がある。なら、どうして実習が始まる前に『寒い日は足が痛むことがあるので、その日は室内での製作活動や、園庭の隅での見守りを重点的に担当させてください』って、自分から主任の先生に相談しなかったんだ?」
陽子はハッとしたように目を見開いた。
「……そんなこと、自分から言っていいの? 評価が下がるんじゃ……」
「逆だ。隠して現場で失敗する方が、何百倍も子供を危険に晒すし、評価も下がる。事前に自分のリスクを開示して『だからこう立ち回ります』と提案できる人間は、組織の中で一番信頼されるんだよ。保母さんだって立派なチームプレーの仕事だろ? 陽子一人で全部を完璧に抱え込む必要なんてないんだ」
社会の真理を突いた俺の言葉に、陽子の目からスッと迷いの霧が晴れていくのがわかった。
「そっか……。私、怒られたくない、完璧にやらなきゃって、そればっかり考えて……一番大事な『子供の安全のために先生たちと連携する』ってことを忘れてた」
「そうだ。だから月曜日、実習に行ったら一番に主任の先生のところに行って、今の言葉をそのまま伝えなさい。怒られたことをちゃんと咀嚼して、次にどう動くか提案できれば、先生は絶対に陽子を認めてくれる」
俺が力強く頷くと、陽子の顔に、久しぶりに本来の明るい光が戻った。
彼女は両手でココアの缶を握りしめ、俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「……健一くんって、本当に同い年だよね? なんだか時々、すっごく立派な会社の上司というか……大きな器を持った大人の男の人に見える。私が気づけないこと、いつも全部教えてくれる」
「ば、馬鹿言え。ただの生意気な大学生だよ」
五十代の魂を見透かされたようで、俺は慌てて立ち上がり、コートの埃を払って誤魔化した。
「ほら、足の具合はどうだ。少しはマシになったか?」
「うんっ! すごくぽかぽかして、痛みが引いたみたい。ありがとう、健一くん……私、もう迷わない。月曜日から、もう一度しっかり先生と向き合ってみるね」
立ち上がった陽子は、さっきまでの弱々しい姿が嘘のように、しっかりと両足で大地を踏み締めていた。
その笑顔を守れたことの安堵感に、俺は密かに息を吐いた。
「よし、じゃあ何か温かい美味いものでも食ってから帰ろう。飛んできて腹ペコなんだよ」
「ふふっ、あはは! じゃあ、今日は私がご馳走するね! 実習のご褒美にって、お母さんからお小遣いもらってたんだ」
「おっ、そいつは助かるな」
冷たい冬の風が吹く並木道を、俺たちは自然に手を繋いで歩き出した。
繋いだ手から伝わってくる陽子の温もりは、どんな株価の暴騰よりも、どんな高金利の貯金よりも、俺にとって価値のある確かな『資産』だった。
一九八九年が終わり、狂乱のバブルが弾ける一九九〇年が、すぐそこまで迫っていた。
時代の足元が崩れ去ろうとも、俺が陽子を支えるこの手だけは、絶対に離しはしない
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