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53歳の初恋リフレイン  作者: げりっぱ
大学生編

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第30話 二十歳の誕生日と、輝きを増すゴールドのリング

第30話 二十歳の誕生日と、輝きを増すゴールドのリング


一九九〇年(平成二年)、九月。

日本経済という名の巨大な砂上の楼閣は、誰の目にも明らかな形で、音を立てて崩れ始めていた。


年初の大暴落から始まった株式市場の崩壊は止まらず、三月に大蔵省が発動した「不動産融資総量規制」によって、狂乱の地価高騰にも容赦ない冷や水が浴びせられた。さらに八月にはイラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機のショックが世界中を駆け巡る。前年末に三万八千円台をつけていた日経平均株価は、この秋の時点でついに二万円台前半まで転げ落ちていた。


「いやあ、今の株価の下落は一時的な調整ですよ。日本経済のファンダメンタルズは盤石ですから、すぐに四万円を目指して反発しますって」

テレビの経済番組では、立派な肩書きを持ったアナリストたちが、顔を引きつらせながらそんな虚勢を張っていた。

街にはまだバブルの余韻が残り、原色のボディコン服を着た女性たちが闊歩し、ディスコは若者たちで溢れている。多くの日本人が「ただの一時的な不景気だ」と信じて疑わなかった。


だが、五十代の記憶を持つ俺には、これが『終わりの始まり』に過ぎないことが痛いほど分かっている。

これから数年かけて、日本中の企業が連鎖倒産し、銀行が不良債権に押し潰され、新卒採用の枠が完全に消滅する地獄の『就職氷河期』がやってくるのだ。

俺は大学二年の秋を迎え、時給がまだ高いうちに肉体労働のアルバイトを限界まで詰め込み、稼いだ現金を安全資産としてひたすらプールし続けていた。暴落の大底はまだ先だ。俺が動くのは、世間が完全に絶望し、真の優良株が紙くずのように市場に投げ売りされる数年後。その時に備えて、今はただ息を潜め、力を蓄える時期だった。


そんな薄暗い時代の足音とは裏腹に、俺のプライベートにおける最も大切な日は、眩しい秋晴れと共にやってきた。


九月中旬の週末。

俺は、待ち合わせ場所である桜木町駅の改札前に立っていた。

今日は、陽子の二十歳の誕生日だ。

十代という子供の時間を卒業し、法的に飲酒も認められる完全な『大人』になる、特別な節目。その記念すべき日を祝うため、少し足を延ばして横浜でのデートを計画していたのだ。


「健一くん!」

東横線の改札を抜け、人の波を掻き分けるようにして、小柄な彼女が小走りでやってきた。

陽子は秋らしいキャメル色のセットアップスーツに身を包み、少しだけヒールの高いパンプスを履いていた。髪はきれいにブローされ、ほんのりと色づいたリップが、彼女の顔立ちをぐっと大人びて見せている。

十代のあどけなさが抜け、一人の美しい女性へと開花していくその姿に、俺は一瞬、息が止まりそうになった。


「陽子。待ったか?」

「ううん、今着いたところ! ……あの、服、変じゃないかな? 二十歳だから、ちょっと大人っぽくしてみたんだけど」

陽子は照れくさそうに、スーツの裾を少しだけ引っ張って見せた。

その首元には、去年の十九歳の誕生日に俺が贈った、純銀のティアドロップのネックレスが秋の陽射しを反射して上品に輝いている。


「変なわけないだろ。すごく似合ってるよ。綺麗だ」

俺が真っ直ぐに褒めると、陽子は顔を真っ赤にして、「もう、健一くんってば最初からそういうこと言うんだから」と、照れ隠しのように俺の腕にギュッと抱きついてきた。


その日は、横浜の港町を二人でのんびりと歩き回った。

山下公園を海風に吹かれながら散歩し、元町のレトロな商店街を巡り、赤レンガ倉庫の周りを歩く。

平日には短大の授業と目前に迫った就職試験の準備に追われ、週末は実習の課題に忙殺されている陽子にとって、都会の喧騒から少し離れた港町の景色は、何よりの息抜きになったようだった。


「わあ……海がキラキラしてる! 潮の匂い、すっごく気持ちいいね」

山下公園のベンチに座り、海を行き交う船を眺めながら、陽子は本当に嬉しそうに目を細めていた。

「都内のビル群とはまた違うだろ。たまにはこうやって、思い切り羽を伸ばさないとな」

「うんっ。健一くんと一緒だから、景色が何倍も綺麗に見えるのかも」


彼女の屈託のない笑顔を見ていると、俺の心の中に溜まっていた、来るべき不況へのプレッシャーや日々の肉体労働の疲労が、嘘のように浄化されていくのを感じた。


夕暮れ時。

港の空が鮮やかなオレンジ色から深い紫へと染まり、街にポツポツとガス灯のようなオレンジの灯りが点り始める頃。

俺たちは、横浜の港を一望できる、歴史あるクラシックホテルのフレンチレストランへと足を踏み入れた。


重厚なマホガニーの扉、毛足の長い絨毯、そして各テーブルをほのかに照らすキャンドルの光。

「すごい……お城の中みたい」

陽子は少し緊張した面持ちで、ウェイターに引かれた椅子にそっと腰を下ろした。


「二十歳の誕生日だ。今日は特別だからな」

俺が微笑みかけると、陽子も少しだけ緊張を解き、嬉しそうに頷いた。


やがて、ソムリエが銀色のクーラーから冷えたシャンパンのボトルを取り出し、二つのフルートグラスに黄金色の液体を注いでいく。シュワシュワと立ち昇るきめ細やかな泡が、キャンドルの光を反射して宝石のように煌めいていた。


「二十歳のお誕生日、おめでとう。陽子」

「ありがとう、健一くん」


チン、と薄いグラスが触れ合う高く澄んだ音が、静かなレストランに響く。

陽子は恐る恐るグラスに口をつけ、シャンパンを少しだけ喉に流し込んだ。


「……んっ、なんだか、すっごく不思議な味。果物みたいに甘いのに、喉の奥がちょっとだけ熱くなる」

「一気に飲むと酔っ払うぞ。美味しいからって無理するなよ」

「ふふっ、大丈夫だよ。私、今日から大人だもん」


少しだけ頬を桜色に染めながら笑う陽子は、五十代のオヤジの目から見ても、信じられないほど魅力的だった。

一周目の人生での俺は、陽子の二十歳の誕生日をどう祝ったんだったか。たしか、仲間との飲み会を優先して遅刻し、適当な居酒屋で安い酒を飲ませて、「お前もこれで酒が飲めるな」と雑に笑っただけだった気がする。

あの頃の俺をタイムマシンに乗って殴りに行きたい衝動を抑えながら、俺は目の前で微笑む彼女に、ありったけの愛情を注ぎ込もうと心に誓った。


素晴らしい料理の数々を堪能し、デザートのプレート――『Happy 20th Birthday, Yoko』とチョコレートで美しく描かれたケーキ――が運ばれてきたタイミングで、俺はジャケットの内ポケットに手を入れた。


「陽子。去年、約束したよな」

俺の静かな声に、陽子はケーキに向けられていた視線を上げ、不思議そうに小首を傾げた。


「十九歳の誕生日にはシルバーを。そして、二十歳の誕生日には、大人の証として――」

俺は、上品な濃紺のベルベットの小さな箱を取り出し、テーブルの上でパカッと開けた。


箱の中央で、ホテルの暖かな照明を吸い込み、決して色褪せることのない絶対的な輝きを放っているもの。

それは、華奢で美しい、本物の『ゴールド(純金)のリング』だった。


「わぁ……っ……!」

陽子は両手で口元を覆い、言葉を失った。その大きな瞳から、瞬く間に涙があふれ出し、キャンドルの光を反射してキラキラとこぼれ落ちた。


「あの時約束した、ゴールドのリングだ。本当は左手の薬指に嵌めてやりたいところだけど……それは、来年、陽子が短大を卒業して社会に出る時まで、取っておきたい」

俺は席を立ち、陽子の横に移動すると、彼女の震える右手をそっと取った。


「二十歳、本当におめでとう。これからもずっと、俺の隣で笑っていてくれ」


俺は、陽子の右手の薬指に、冷たくも温かいゴールドのリングを静かに滑り込ませた。

華奢な彼女の指に、そのリングは誂えたようにぴったりと収まり、胸元のシルバーネックレスと呼応するように美しい輝きを放った。


「健一、くん……っ。ありがとう、ありがとう……っ」

陽子は俺の腕にすがりつき、顔を埋めるようにしてポロポロと涙を流した。

「私……こんなに幸せでいいのかな。健一くんが、いつも私のために頑張ってくれてること、知ってるから……。私、絶対に健一くんに相応しい、立派な女の人になるからね……っ」


「もう十分立派だよ。俺にとっては、陽子が世界で一番いい女だ」

俺が髪を撫でながら優しく囁くと、陽子は泣き笑いのような顔で俺を見上げ、そして自分から少しだけ背伸びをして、俺の頬にチュッと、小鳥のような柔らかいキスをした。


シャンパンの甘い香りと、彼女のシャンプーの匂いが混ざり合う。

一瞬の静寂の後、陽子は自分がしたことの恥ずかしさに気づいたのか、耳の先まで真っ赤にして俯いてしまった。

俺は心臓が爆発しそうになるのを必死で堪えながら、彼女の小さな手を、テーブルの下でギュッと握りしめた。


ディナーを終え、夜の山下公園を再び歩きながら、俺たちは少し先の未来の話をした。


「……あのね、健一くん」

海風に吹かれながら、陽子が少しだけ不安そうな顔で口を開いた。

「私、もうすぐ都内の保育園の採用試験なの。それに受かれば、来年の四月からは、いよいよ社会人として働き始めることになる」


「ああ、そうだな。実習もよく乗り切ったし、陽子なら絶対に受かるよ」

俺が太鼓判を押すと、陽子は右手の薬指で光るゴールドのリングを愛おしそうに撫でながら、ぽつりとこぼした。


「でもね……来年の春から私が社会人になっても、健一くんはまだ大学三年生でしょ? 学生と社会人じゃ、生活のリズムも全然違ってきちゃうし……。それに、健一くんはこれからゼミとか就活でどんどん忙しくなる。私が働いてる間に、すれ違っちゃうんじゃないかなって。それが、少しだけ怖くて……」


それは、まさに二年制の短大生と四年制の大学生のカップルが直面する、最も残酷でリアルな壁だった。

先に社会に出て理不尽な揉まれ方をする彼女と、まだキャンパスでモラトリアムを生きている彼氏。その精神的・時間的なズレが、かつて一周目の俺たちの関係に致命的な亀裂を入れたのだ。


だが、今の俺は違う。五十代の魂と、失敗から学んだ確かな覚悟がある。


「寂しい思いも、不安な思いもさせない」

俺は立ち止まり、彼女の両肩をしっかりと掴んで真っ直ぐに見つめた。

「生活のリズムが違っても、絶対に時間を作る。陽子が社会に出て辛いことがあったら、俺が全部聞いてやる。俺はまだ学生の身分だけど、気持ちの面で陽子を一人にすることだけは、絶対にないって誓うよ」


「健一くん……」

「だから、安心して社会に出てくれ。陽子が子供たちに囲まれて笑ってる姿を見るのが、今の俺の一番の夢なんだから」


俺の言葉に、陽子はパッと顔を上げ、涙の跡が残る顔で、今日一番のひまわりのような笑顔を咲かせた。


「うんっ! 私、頑張るね。健一くんに恥ずかしくない、立派な保母さんになる!」


一九九〇年、九月。

日本という国が深い泥沼へと沈みゆくその入り口で、俺たちの絆はシルバーからゴールドへと、決して腐食することのない確かな輝きへと進化を遂げた。

残す約束はあと一つ。

来年、彼女が社会に出る二十一歳の秋。

『永遠』を意味するプラチナのリングと共に、俺のすべてを懸けて彼女を迎えに行く。その未来に向かって、俺たちはしっかりと手を繋ぎ、夜の港町を歩き出した。

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