第31話 卒業式と、社会人一年目の試練
第31話 卒業式と、社会人一年目の試練
一九九一年(平成三年)、三月。
春の足音が近づくこの時期、日本経済は誰の目にも明らかなほど冷え込み始めていた。
連日ニュースで報じられる、株価の暴落と企業の倒産。街からタクシーを札束で止めるような酔客の姿は消え、人々の顔には将来への漠然とした不安が影を落としていた。
しかし、そんな不穏な時代の空気とは裏腹に、俺たちにとっては、大きな喜びと別れが交差する季節だった。
陽子が通う地元の保育短大の卒業式。
俺は、大学の講義を休んで都内から駆けつけ、彼女の晴れ姿を見届けるために式場となる市民ホールの前に立っていた。
「健一くん!」
声のする方に振り向くと、えんじ色の袴に身を包んだ陽子が、小走りでこちらに向かってきた。
いつもは実習のために短く切り揃えられていた髪は、今日のために少しだけ伸ばされ、ハーフアップに結い上げられている。胸元には、俺が贈った純銀のネックレスと、右手の薬指にはゴールドのリングが静かに輝いていた。
その姿は、高校生の頃のあどけない少女から、一人の立派な大人の女性へと成長したことを雄弁に物語っていた。
「陽子。卒業、おめでとう」
俺が少しだけ照れくさそうに言うと、陽子は満面の笑みで頷いた。
「ありがとう! 健一くんのおかげだよ。実習で辛かった時も、ピアノで挫けそうになった時も、健一くんがずっと支えてくれたから……今日、こうして卒業証書をもらうことができたの」
「馬鹿言え。陽子が自分で歯を食いしばって頑張った結果だろ」
俺は彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
五十代のオヤジの目から見ても、この二年間、彼女がどれほど過酷なカリキュラムと実習に耐え抜いてきたかを知っている。それは、バブルに浮かれて遊んでいた同世代の学生たちとは比べ物にならないほど、尊く、そして泥臭い努力の結晶だった。
「春から、いよいよ本物の保母さんだな」
「うんっ。実家から通える『ひまわり保育園』。私、絶対に立派な保母さんになってみせるから」
陽子の瞳には、希望と決意が満ち溢れていた。
だが、その希望に満ちた社会人一年目の春が、どれほど過酷な現実を突きつけてくるか、この時の彼女はまだ知る由もなかった。
四月。
陽子が社会人として働き始め、俺が大学三年生へと進級した春。
二人の生活リズムは、劇的に変化した。
「……ごめんね、健一くん。今日も、もう寝なきゃ……」
夜の十時過ぎ。電話口から聞こえる陽子の声は、泥のように疲れ切っていた。
保育園の仕事は、想像を絶する激務だった。朝は七時前に出勤し、子供たちの受け入れ準備から始まり、日中は休む間もなく動き回る。そして子供たちが帰った後も、膨大な日誌の記入、行事の準備、保護者への連絡帳書きが深夜まで続く。
さらに、新人の彼女には「先輩保育士からの厳しい指導(という名のしごき)」が容赦なく降り注いでいた。
「いいよ、無理するな。早く寝て、明日に備えろ」
「うん……ごめんね。週末のデートも、行けそうにないの。来週の遠足のしおり作りが終わらなくて……」
「気にするな。俺もゼミの課題があるし、バイトも入ってるから。仕事に慣れるまで、無理して会おうとしなくていいからな」
「……ありがとう。健一くん、本当に優しいね。おやすみなさい……」
電話が切れ、ツー、ツーという無機質な音が部屋に響く。
俺は受話器を置き、小さく息を吐いた。
(……始まったな)
一周目の人生で、俺たちが最初にぶつかった大きな壁。
それは「学生と社会人のすれ違い」だった。
当時、俺はまだ大学でモラトリアムを貪っており、社会の厳しさを知らなかった。だから、疲れ切っている彼女に「なんで休みの日に会えないんだよ」「もっと要領よくやれよ」と心無い言葉をぶつけ、彼女の心を深く傷つけてしまったのだ。
だが、五十代の記憶を持つ今の俺は違う。
社会人一年目の、特に命を預かる現場で働く人間のストレスと疲労がどれほどのものか、痛いほど理解している。
俺が今すべきことは、彼女に無理をして会うことを強要することではなく、彼女が安心して仕事に打ち込めるように、徹底的に「待つ」こと、そして「逃げ場」になってやることだ。
五月の大型連休。
世間はゴールデンウィークで浮かれていたが、陽子は連休の半分を行事の準備と持ち帰り仕事に潰されていた。
連休の最終日、俺は都内から彼女の実家の近くまで足を運び、近所の喫茶店でようやく短い時間だけ会うことができた。
「ごめんね、健一くん。せっかくのお休みなのに、遠くまで来てもらっちゃって……」
待ち合わせの喫茶店に現れた陽子は、目の下にうっすらと隈を作り、少しだけ痩せたように見えた。
「いいんだよ。コーヒーくらい奢らせろ」
俺は彼女の好物であるモンブランと紅茶を注文し、向かいの席に座った。
「……仕事、どうだ。少しは慣れたか?」
俺が静かに尋ねると、陽子はティーカップを見つめたまま、小さく首を振った。
「……全然。毎日、怒られてばっかり。先輩の先生たち、すっごくテキパキ動くのに、私はいつもワンテンポ遅れちゃって。この前も、お散歩の時に子供が転んでケガしちゃって……園長先生に『周りが全然見えてない』ってすごく怒られたの」
陽子の声が、少しだけ震えていた。
「保護者の人たちも、私が若いから『新人さんに預けるのは不安』って思ってるみたいで……。毎日、私がヘマしないように先輩たちがフォローしてくれてるのが分かって、それが申し訳なくて……」
ポタポタと、ティーカップの縁に涙が落ちる。
「私……本当に保母さんに向いてないのかな。子供たちは可愛いのに、毎日『明日が来るのが怖い』って思っちゃう自分がいて……こんなの、私が夢見てた保母さんじゃないよ……っ」
ついにこらえきれなくなったのか、陽子は両手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。
社会の理不尽さ、自分の無力さ、そして理想と現実のギャップ。
それは、誰もが社会人一年目に経験する、通過儀礼のような試練だ。
だが、その真只中にいる本人にとっては、世界が真っ暗闇に包まれたような絶望感に他ならない。
俺は席を立ち、彼女の隣に座って、その震える肩をそっと抱き寄せた。
「陽子」
「……うぅっ……ごめんなさい、私、健一くんの前で泣いてばっかりで……」
「いいんだよ。ここで泣かなくて、どこで泣くんだ」
俺は彼女の背中を優しくさすりながら、五十代の、かつて多くの新入社員を育ててきた「上司」としての言葉を紡ぎ出した。
「先輩たちがテキパキ動けるのは、陽子より何倍も経験を積んで、失敗してきたからだ。最初から完璧にできる人間なんていない。陽子が今、自分の不甲斐なさに悩んで、申し訳ないって思えてるなら、それは陽子がちゃんと『プロになろうとしてる証拠』だ」
「……プロに?」
「そうだ。本当に向いてない奴は、自分ができないことを周りの環境や他人のせいにする。でも陽子は、全部自分の責任だって受け止めて、どうにかしようと苦しんでるだろ? それは、絶対に立派な保母さんになれる素質があるってことだ」
俺の言葉に、陽子は顔を覆っていた手を少しだけずらし、潤んだ瞳で俺を見た。
「本当に……? 私、いつか先輩たちみたいに、笑って仕事できるようになるのかな……」
「なれるさ。俺が保証する」
俺は彼女の頬を伝う涙を、親指でそっと拭った。
「だから、焦らなくていい。毎日少しずつ、目の前の子供たちに全力で向き合えばいいんだ。辛くなったら、いつでも俺のところに逃げてこい。愚痴なら一晩中だって聞いてやるし、泣きたい時はこうして肩を貸してやる」
「健一くん……っ」
陽子は俺の胸に顔を埋め、もう一度だけ小さく泣いた。だが、その涙は先ほどの絶望の涙ではなく、安堵と決意が混ざった温かい涙だった。
夏が過ぎ、秋風が吹き始める頃。
陽子の顔から、少しずつ新人の頃の悲壮感が消え、代わりに保育士としてのプロの顔つきが芽生え始めていた。
「ねえ健一くん! 今日ね、ずっと私に懐かなかった男の子が、初めて『陽子先生』って呼んで抱きついてきてくれたの!」
電話口から聞こえる彼女の弾むような声に、俺は自分のことのように嬉しくなった。
彼女は確実に、社会の荒波を乗り越え、自分の足で立ち上がりつつある。
そして、季節は巡り――一九九一年、九月。
陽子が社会人として初めて迎える、二十一歳の誕生日がやってこようとしていた。
俺の大学生活も三年生の秋を迎え、いよいよ世間では『就職氷河期』の兆候が色濃く現れ始めていた。企業の新卒採用枠は激減し、先輩たちは悲鳴を上げながらリクルートスーツで街を駆け回っている。
だが、俺にはそんなことよりも、ずっと前から決めていた『最大の使命』があった。
(来月……陽子が二十一歳になる誕生日には)
俺は、郵便局の定額貯金の通帳を見つめながら、固く拳を握りしめた。
この数年間、血反吐を吐くような肉体労働で貯め込み、一円たりとも無駄にしなかったサバイバル資金。その中から、一部を解約してでも、絶対に叶えなければならない約束がある。
『永遠』を意味する、プラチナのリング。
高校二年の冬からずっと、俺の心の中で温め続けてきた決意。
一周目の人生で失ってしまった彼女を、今度こそ俺の人生のすべてを懸けて迎えに行くための、最高の一手。
その日の午後、俺は都内の老舗百貨店にある、高級ジュエリーブランドのブティックに足を運んだ。
ショーケースの中に並ぶ、眩いばかりのリングたち。
店員に用途を告げ、いくつものリングを見せてもらう。
「こちらなど、いかがでしょうか。シンプルですが、プラチナの輝きが際立つデザインでございます」
店員が恭しく差し出したのは、一切の装飾を削ぎ落とした、純粋なプラチナの甲丸リングだった。
(……これだ)
一目見た瞬間、直感的にそう思った。
派手な装飾はいらない。ただ、確かな質量と永遠に変わらない純度だけがあればいい。それは、不器用で泥臭く生きる俺の決意そのものだった。
「これにします。サイズは……」
あらかじめ陽子の右手の薬指のサイズから推測し、少しだけ余裕を持たせたサイズを告げる。
「かしこまりました。刻印はいかがなさいますか?」
「『K to Y』。それに、今年の日付を入れてください」
店を出た時、俺の財布はこれまでにないほど軽くなっていたが、心は不思議なほど満たされていた。
(待ってろよ、陽子。お前がどんなに辛い時も、俺がその手を引いてやる)
来るべき『就職氷河期』という見えない恐怖が日本中を覆い始める中、俺は自分の人生を懸けたプロポーズの準備を整え、来るべきその日を静かに待っていた。
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