第32話 二十一歳の誕生日と、永遠のプラチナリング
第32話 二十一歳の誕生日と、永遠のプラチナリング
一九九一年(平成三年)、九月。
空が高く澄み渡り、吹き抜ける風に秋の涼しさが混じり始めた頃。
世間の空気は、ゆっくりと、しかし確実に冷え込んでいた。
前年の株価暴落に続き、この年はついに狂乱を極めた不動産価格も下落に転じ始めた。テレビのニュースでは連日、バブル期に無謀な融資を行っていた金融機関の不正や、証券会社の損失補填問題、そして企業の倒産が報じられるようになっている。
街を行き交うサラリーマンたちの顔からは、数年前までの「明日も必ず豊かになる」という底抜けの楽観主義が消え失せ、代わりに「これから日本はどうなってしまうのか」という薄暗い不安が張り付いていた。
大学三年生の秋を迎えた俺の周囲でも、その変化は顕著だった。
「おい高橋、聞いたかよ。〇〇商事、今年の採用枠をいきなり半分に減らすらしいぜ……」
ゼミの同級生たちが、青ざめた顔で真新しいリクルートスーツに身を包み、大学の就職課の掲示板に群がっている。先輩たちがバブルの余韻で苦労せずに内定をいくつも獲得していくのを見てきた彼らにとって、突然閉ざされ始めた企業の門は、理不尽な絶望でしかなかった。
(……いよいよ、来るぞ。ここから先はただの不景気じゃない。日本中を凍りつかせる『就職氷河期』の始まりだ)
五十代の記憶を持つ俺は、心の奥底でその恐ろしい言葉を反芻していた。
これから世の中がどうなるか、どの企業が生き残り、どの企業が沈むか。そして、どう動けばこの暗黒時代を生き抜けるか。そのすべてを、俺は誰よりも知っている。この数年間、血を吐くような思いで肉体労働をこなし、ひたすら資本を蓄え、知識を磨き上げてきたのは、すべてこの嵐を乗り越えるためなのだ。
そして何より、俺には今、就職活動よりも遥かに優先すべき『人生最大の決戦』が控えていた。
九月中旬。陽子の、二十一歳の誕生日。
俺たちは、銀座の落ち着いたレストランで、彼女の誕生日を祝うディナーの席についていた。
「すっごく美味しい……。健一くん、こんな素敵なお店、どうやって見つけたの?」
陽子が、真鯛のカルパッチョを口に運びながら、目を輝かせている。今日の彼女は、落ち着いたネイビーの秋物ワンピースに、薄手のトレンチコートを羽織っていた。首元には十九歳の時に贈った純銀のティアドロップが、そして右手薬指には二十歳の時に贈ったゴールドのリングが、レストランの柔らかな照明を反射して光っている。
社会人として半年間、怒涛のような保育現場で揉まれてきたその横顔は、学生時代のあどけなさがすっかり抜け落ち、見惚れるほどに大人の女性の気品を湛えていた。
「バイト先の社員さんに、美味くて落ち着ける店を聞き込み調査したんだよ。陽子の二十一歳の誕生日だからな、絶対に失敗したくなかったんだ」
俺がグラスのワインを傾けながら言うと、陽子は嬉しそうにはにかんだ。
コース料理を味わいながら聞いた彼女の話は、春先の「泣いてばかりの新人」からの確かな成長を感じさせるものだった。先輩保育士の厳しい指導を自分なりに消化し、子供たちとの距離の縮め方を覚え、今ではクラスの子供たちから「陽子先生!」と一番に駆け寄られる存在になりつつあるという。
「毎日クタクタだけど……でも、子供たちの笑顔を見ると、全部吹っ飛んじゃうの。私、やっぱり保母さんになれてよかったって、最近心から思えるようになったんだ」
「そっか。陽子が笑って仕事できてるなら、それが一番だ。よく頑張ったな」
俺が素直に褒めると、陽子は「えへへ」と照れた後、ふと真面目な顔になり、俺の顔をじっと見つめてきた。
「……でもね、私、自分のことばっかりで。健一くん、これから就職活動が本格的に始まるんでしょ?」
陽子の声のトーンが少しだけ下がる。
「先輩の保母さんたちも、テレビのニュースを見て言ってたの。『今年は急に企業の採用枠が減り始めてるみたい』って。『これから大学生の就職、どんどん厳しくなる時代が来るんじゃないか』って……。健一くん、大丈夫なの……?」
彼女の瞳には、自分のこと以上に俺を案じる、深い愛情と不安が揺れていた。
世間でもようやく、事態の深刻さに気づき始めたのだ。だが、俺は彼女の頭にポンと手を置き、自信に満ちた声で答えた。
「心配するな。俺は絶対に負けないし、路頭に迷うような真似はしない。必ず、陽子を安心させられるような結果を出してみせるよ」
「健一くん……」
「それに、俺には最強の味方がいるからな」
ディナーを終えた俺たちは、夜風に吹かれながら少し歩き、ライトアップされた東京タワーの足元、芝公園へとやってきた。
「わあ……夜の東京タワーって、下から見上げると本当に大きいね。オレンジ色ですっごく綺麗……」
陽子が、少し冷たくなってきた秋の風に髪を揺らしながら、タワーを見上げて感嘆の声を漏らした。
温かい缶のミルクティーを二つ買い、俺たちは人影の少ないベンチに腰を下ろした。
秋の虫の音が響く、静かな夜の公園。オレンジ色に輝く東京タワーの光が、二人の影を長く伸ばしている。
俺は自分の缶を横に置き、ゆっくりと立ち上がって彼女の正面に立った。
「健一、くん……?」
俺の少し改まった声色と態度に、陽子も何かを感じ取ったのか、姿勢を正して俺を見上げた。
「陽子。十九歳の誕生日には、シルバーのネックレスを贈った。二十歳の誕生日には、大人の証として右手にゴールドのリングを贈った」
俺はコートの内ポケットに手を入れ、一つの小さな箱を取り出した。
深いブルーのベルベットで作られた、重厚なジュエリーボックス。
「そして今日。陽子が社会人になって迎える、二十一歳の誕生日だ。……十九歳のあの夜、約束したよな。『二十一歳になったら、一生の約束になる特別なものを贈る』って」
俺がゆっくりと箱を開けると、中には街灯とタワーのオレンジ色の光を吸い込み、清冽な輝きを放つ『プラチナのリング』が鎮座していた。
一切の無駄な装飾を削ぎ落とした、永遠に変わらない純度を誇るプラチナの輝き。
「あ……っ……」
陽子は息を呑み、持っていたミルクティーの缶をベンチに置くと、両手で口元を覆った。彼女の大きな瞳が一瞬で潤み、涙がポロポロとあふれ出す。
「俺はまだ、大学三年生の学生だ。これから始まる厳しい不況の中で、就職活動だってどうなるか分からない。どんな苦労をお前にかけるか分からない。それでも……俺は、俺のこれからの人生のすべてを懸けて、お前を幸せにしたい」
「お前」という呼び方。付き合い始めてから時折口を突いて出るこの言葉には、五十代の男としての、彼女を一生背負い抜くという強い庇護欲と愛情が込められていた。
一周目の人生で、俺は彼女にプロポーズらしいプロポーズさえしなかった。
「そろそろ落ち着くか」なんていう、自分本位で照れ隠しの言葉だけで済ませ、彼女の人生を背負うという本当の覚悟を持っていなかったのだ。その甘さが、や干て来る過酷な現実の中で俺を打ちのめし、彼女の心を壊し、最低な別れへと繋がってしまった。
だからこそ、二度目の人生では絶対に間違えない。
五十代の魂が持つすべての誠意と、不退転の覚悟を込めて、俺は彼女の目を見据えた。
「俺が大学を卒業して、社会に出たら……俺と、結婚してほしい」
風が止んだ。
東京の喧騒から切り離されたような静寂の中、陽子の嗚咽だけが小さく響く。
彼女は何度も何度も、涙を散らしながら首を縦に振った。
「……うんっ……! 私……私でいいの? まだ半人前で、健一くんに頼ってばっかりで……」
「陽子じゃなきゃ、ダメなんだよ。俺の人生には、陽子が必要なんだ」
俺は箱からプラチナのリングを取り出し、陽子の左手を取った。
保育士という仕事柄、水仕事や手洗いで少しだけ荒れ、爪も短く切り揃えられたその小さな手。
俺にとって、その手は世界中のどんな宝石よりも尊く、愛おしいものだった。
「……嵌めても、いいか?」
「うん……っ」
俺は、震える彼女の左手の薬指に、冷たくも確かな重みを持つプラチナのリングをゆっくりと滑り込ませた。
サイズは、測ったようにぴったりだった。
右手のゴールドのリングと、左手のプラチナのリング。二つの輝きが、俺たちが積み上げてきた時間と絆の深さを証明しているようだった。
「……健一くんっ……!」
陽子はベンチから立ち上がり、俺の胸に強く、強く飛び込んできた。
俺は彼女の細い背中を両腕でしっかりと抱きしめ、その髪に頬を寄せた。
「ありがとう……健一くん。私、すっごく幸せ……。どんなに大変な時代になっても、健一くんと一緒なら、絶対に乗り越えられる。私、健一くんのお嫁さんになる……っ!」
涙声で誓ってくれる彼女の言葉が、五十代のオヤジの胸の奥底にあった、一周目の人生の消えない後悔と罪悪感を、温かく溶かして浄化していくのを感じた。
「ああ。絶対に、幸せにする」
夜空にそびえ立つ東京タワーの下で、俺たちは互いの体温を確かめ合うように、いつまでも抱きしめ合っていた。
一九九一年、秋。
日本中が未曾有の不況という暗闇に沈んでいく直前、俺たちは『永遠の約束』を交わした。
これから始まる、企業の採用が凍りつく地獄の戦場。だが、俺の心には一切の恐れはない。
左手の薬指にプラチナを輝かせるこの愛しい女を守り抜くためなら、俺はどんな泥水でも啜って、必ず勝利を掴み取ってみせる。
決戦の火蓋は、すぐそこまで迫っていた。
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