第33話 凍りつく社会と、オヤジ魂のサバイバル就活
第33話 凍りつく社会と、オヤジ魂のサバイバル就活
一九九二年(平成四年)、年明け。
世間を覆う不況の影は、もはや誰の目にも誤魔化しようがないほどに色濃く、そして冷たくなっていた。
大学のキャンパスからは、わずか一、二年前まで溢れ返っていた原色のDCブランド服や、高級外車の姿が嘘のように消え失せた。代わりに増えたのは、サイズの合わない安いリクルートスーツに身を包み、青ざめた顔で就職課の掲示板に群がる学生たちの姿だ。
彼らが直面しているのは、企業が手のひらを返したように新卒採用の枠を絞り込む、前代未聞の『買い手市場』への急激な転換だった。
「嘘だろ……。俺の第一志望の証券会社、今年の文系の採用枠を昨年の三分の一にするってよ……」
ゼミの同級生である鈴木が、掲示板の前で頭を抱えていた。かつて親の株の儲けでBMWを買ってもらい、バブルを謳歌していた彼の顔に、かつての余裕はない。
「お前、証券会社一本に絞ってたのか?」
俺が声をかけると、鈴木はすがるような目でこちらを振り向いた。
「ああ。だって先輩たちはみんな、金融か不動産に行けば一生安泰だって言ってたじゃないか! なのに、OB訪問の電話をかけても『今年はちょっと厳しい』って露骨に避けられるんだぞ。どうなってるんだよ、この国は……!」
彼の悲痛な叫びは、当時の多くの大学生たちの本音だっただろう。
だが、五十代の記憶を持つ俺からすれば、今、金融や不動産に飛び込むのは、沈みかけの泥船に自ら火を放って乗り込むようなものだ。数年後には大手証券会社が自主廃業し、都市銀行でさえ統廃合の嵐に飲み込まれる。
「鈴木、悪いことは言わない。見栄を張るのはやめて、堅実なメーカーかインフラ系にもエントリーシートを出しておけ。時代はもう変わったんだ」
俺が静かに忠告すると、鈴木は「メーカーなんて地味でダサいじゃんかよ……」と唇を噛み締めながらも、力なく頷いた。
俺自身の就職活動の戦略は、明確だった。
狙うのは、学生に人気の華やかなマスコミやメガバンクではない。バブル期にも浮かれず、堅実な財務体質を保ち続けた『独立系のBtoB(企業間取引)IT企業』、あるいは『生活に密着したインフラ系企業』だ。
この先、企業が生き残るために最も必要とされるのは「コスト削減」と「業務効率化」である。それをシステムで支援するIT業界は、氷河期の中でも確実に生き残り、やがて来るインターネット社会の到来とともに爆発的な成長を遂げる。俺の五十代の知識が、明確にその未来を指し示していた。
二月。いよいよ企業の面接が本格的に始まった。
都内のオフィス街にある、中堅だが独自の技術力を持つ優良IT企業の会議室。
集団面接の席には、俺を含めて五人の学生が並んでいた。面接官は、四十代半ばと思われる人事部長と、現場の部門長らしき男たち。
「では、高橋君。あなたが我が社を志望した理由と、入社後にどういった貢献ができると考えているか、教えてください」
人事部長の鋭い視線が俺に向けられる。
隣の席の学生たちは、皆一様に暗記してきたような「御社の将来性に惹かれ〜」というテンプレ回答を繰り返して撃沈していた。だが、俺は違う。五十代のオヤジとして、自分自身が何十人もの新卒や中途を採用する面接官の立場を経験してきたのだ。彼らが学生のどこを見て、何を求めているかなど、手に取るように分かる。
俺は背筋を伸ばし、面接官たちの目をしっかりと見据えて、低く落ち着いた声で口を開いた。
「私が御社を志望したのは、御社がバブルの好景気に踊らされず、本業である『業務システムの効率化』という地に足の着いた事業に投資を集中させてきた堅実な経営体質に惹かれたからです」
その言葉に、部門長らしき男の眉がピクリと動いた。
「現在、日本経済は明確な後退局面にあります。これから多くの企業が、過剰な投資を悔い、徹底的なコストカットと業務の合理化を迫られるでしょう。その時、御社が提供するシステムは、ただの『便利なツール』ではなく、企業が生き残るための『生命線』になります」
俺は言葉を区切り、さらに力強く続けた。
「私は、ただ言われたシステムを売るだけの営業になるつもりはありません。顧客の経営課題を泥臭くヒアリングし、コスト削減という最大のメリットを論理的に提示できる『課題解決型の営業』として、御社の利益に直接貢献したいと考えています」
会議室に、水を打ったような静寂が落ちた。
二十一歳の学生の口から出たとは思えない、あまりにも冷徹で現実的な市場分析。そして、自分たちのビジネスの根幹を正確に突いたプレゼンテーション。
人事部長は手元の履歴書と俺の顔を交互に見比べ、やがて深く、満足げに頷いた。
「……高橋君。君は本当に大学三年生かね? まるで、修羅場をくぐり抜けてきたベテランの営業マンと話しているようだ」
「恐縮です。ただ、社会に出る以上、会社の利益にどう貢献できるかを考えるのは当然の義務だと認識しております」
勝負は、その瞬間に決まっていた。
面接という名の「大人の対話」において、五十代の魂を持つ俺が負けるはずなどなかったのだ。
それから一ヶ月後。
まだ春の冷たい風が吹く三月の夕暮れ時。俺は、陽子の勤める保育園の最寄り駅で彼女を待っていた。
「健一くん!」
改札から、小走りで陽子がやってくる。
彼女はベージュのスプリングコートを羽織り、左手の薬指には、俺が贈ったあのプラチナのリングがしっかりと輝いていた。社会人二年目を迎えようとしている彼女の顔つきは、すっかりプロの保育士としての頼もしさを帯びている。
「お疲れ、陽子。今日も忙しかったか?」
「うん、卒園式の準備でバタバタだったよ。でもね、子供たちが私の作ったコサージュを見て『陽子先生すごい!』って喜んでくれて……すごく嬉しかった」
陽子は目を細め、幸せそうに笑った。その笑顔を見ているだけで、就職活動の疲労など吹き飛んでしまう。
俺たちは駅近くの小さな定食屋に入り、温かい肉豆腐定食を注文した。
「……健一くん、就職活動の方はどう?」
陽子が少しだけ心配そうな顔で、お茶をすすりながら尋ねてきた。連日ニュースで「大学生の就職難」が報じられている今、彼女も気が気ではなかったのだろう。
俺は箸を置き、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「今日、内定の連絡をもらったよ」
「えっ……!」
「バブルの煽りを受けてない、無借金経営の堅実なIT企業だ。給料はメガバンクなんかには負けるかもしれないけど、絶対に潰れないし、十年後には必ず社会のインフラになる会社だ」
陽子は両手で口元を覆い、パァッと顔を輝かせた。
「本当!? すごい……っ! 健一くん、おめでとうっ!!」
定食屋の店内に響くほどの大きな声を出してしまい、陽子は慌てて口を塞いだが、その瞳からはすでに嬉し涙がこぼれ落ちていた。
「よかったぁ……。テレビ見てて、健一くんがもし苦労してたらどうしようって、ずっと心配で……。でも、やっぱり健一くんはすごいね。私、本当に嬉しい……!」
泣きながら笑う彼女の左手には、永遠を誓ったプラチナのリングが光っている。
「陽子のおかげだよ。お前が毎日保育園で必死に頑張ってる姿を見てたから、俺も絶対に負けられないって思えたんだ」
俺はテーブル越しに手を伸ばし、彼女の涙を親指でそっと拭った。
「これで、胸を張って来年の春から社会人になれる。俺がしっかり稼いで、陽子を安心させるからな」
「ううん、私も働くもん。二人で一緒に頑張るんだよ」
陽子は俺の手に自分の手を重ね、力強く頷いた。
凍りつくような就職氷河期の入り口で、俺は最速で確かな切符を手に入れた。
世間が絶望と後悔に沈んでいく中、俺たち二人の未来への道筋は、はっきりと、そして温かく照らし出されていた。
激動の時代を乗り越え、いよいよ社会人としてのスタートラインに立つ準備が、完全に整った夜だった。
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