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53歳の初恋リフレイン  作者: げりっぱ
社会人編

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第34話 すれ違いの危機と、大人としての決断

第34話 すれ違いの危機と、大人としての決断


一九九三年(平成五年)、四月。

バブル崩壊の余波が「未曾有の就職難」という冷たい現実となって本格的に世間に牙を剥き始めたこの春、俺は無事に大学を卒業し、都内の中堅IT企業に新入社員として足を踏み入れた。


配属されたシステム開発の現場は、九〇年代特有の「モーレツ社員」の空気が色濃く残る、文字通りの戦場だった。

デスクには分厚いブラウン管のパソコンが鎮座し、隣の先輩社員はキーボードを叩きながら煙草をふかしている。システム障害が起きれば徹夜は当たり前。終電で帰れれば「今日は早いな」と笑われるような、現代のコンプライアンスなど欠片も存在しない労働環境だ。

俺は五十代の経験とマネジメントスキルを持っているとはいえ、入社したてのペーペーの身分である以上、任されるのは膨大な下働きのコーディングやテスト作業ばかりだった。


一方の陽子も、社会人三年目を迎え、保育園で中堅としての責任を背負い始めていた。

後輩の指導を任され、保護者対応の最前線に立たされる日々。彼女の勤める保育園は人手不足が深刻化しており、持ち帰りの仕事は新人時代よりもさらに増えていた。


社会人一年目の男と、社会人三年目の女。

互いに責任と疲労がピークに達するこの時期は、一周目の人生において、俺たちの関係が音を立てて崩れ去った「運命の分岐点」でもあった。


『……ごめんね、健一くん。今週末も、ちょっと会えそうにないや。来週の保護者会の準備がどうしても終わらなくて……』

五月のある金曜日の深夜。アパートの電話口から聞こえる陽子の声は、ひどく掠れていて、今にも消え入ってしまいそうだった。


「気にするな。俺も今週は土曜出勤になりそうだから、ちょうどよかったよ。無理しないで、しっかり寝ろよ」

俺が努めて明るい声で返すと、陽子は『……うん。ありがとう。おやすみなさい』と力なく呟き、電話は切れた。


これで、三週間連続でデートがキャンセルになったことになる。

受話器を置いた俺は、暗い部屋の中で一人、頭を抱えた。


(……このパターンだ。一周目も、ちょうどこんな風にすれ違いが始まったんだ)


当時の俺は、自分の仕事の忙しさとストレスにかまけ、会えないことで不安を募らせる陽子に対して「こっちだって疲れてるんだよ」「少しは俺の状況も察してくれ」と冷たく突き放した。そして、休日は彼女との時間よりも、会社の先輩との飲み会や、自分の休息を優先するようになった。

その結果、彼女の心は次第にすり減り、やがて取り返しのつかない決定的な破局へと向かっていったのだ。


(同じ轍は、絶対に踏まない)

五十代の魂が、強烈な警鐘を鳴らしていた。

恋愛において「忙しい」は免罪符にはならない。どれほど仕事が過酷であろうと、大切な女を不安にさせている時点で、男としては三流以下の失格なのだ。


翌週の金曜日。

夕方、課長が「おう高橋、今日もこの後、新人の歓迎会も兼ねて一杯行くぞ」と声をかけてきた。九〇年代の日本企業において、上司からの飲みの誘いは絶対的な業務命令に等しい。

だが、俺はきっぱりと頭を下げた。


「申し訳ありません、課長。今日はどうしても外せない私用がありますので、失礼させていただきます。その代わり、月曜の朝までに仕上げる予定だったテスト仕様書は、すでに完璧に書き上げてデスクに置いてあります」


課長は一瞬目を丸くしたが、俺が新人の分際で三人分のスピードで仕事をこなし、一切のミスを出していないことを知っていたため、「お、おう……そうか。まあ、たまには早く帰れ」と渋々引き下がった。


定時ダッシュで会社を飛び出した俺は、駅前のケーキ屋で陽子の一番好きなモンブランを買い込み、電車に飛び乗った。向かう先は、陽子が住む都内の実家の最寄り駅だ。


夜の八時半。

冷たい春の雨が降りしきる中、俺は陽子の家の近くにあるバス停の屋根の下で、彼女の帰りを待っていた。

やがて、傘を深く差し、重そうな荷物を抱えてトボトボと歩いてくる小さなシルエットが見えた。


「陽子」

俺が声をかけると、そのシルエットはビクッと立ち止まり、弾かれたように顔を上げた。


「……け、健一くん!? どうして……今日、残業だって……」

驚きで目を丸くする陽子に歩み寄り、俺は持っていた傘で彼女を雨から庇った。


「仕事、片付けてきた。どうしても陽子の顔が見たくなったんだよ。ほら、これ。お前の好きなモンブラン」

俺がケーキの箱を差し出すと、陽子はそれを見つめたまま、急にポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。


「えっ、ちょ、陽子? どうした、何かあったのか?」

俺が慌てて尋ねると、陽子は首を横に振り、俺のスーツの胸元に顔を押し当ててしゃくり上げた。


「ううんっ……なんでもないの……。ただ、最近ずっと健一くんに会えなくて……私、仕事でいっぱいいっぱいで、健一くんに嫌われちゃったらどうしようって……ずっと、怖くて……っ」


その言葉に、俺は胸を鋭く抉られるような痛みを感じた。

(……俺は、またお前をこんなに不安にさせていたのか)


五十代の包容力で見守っているつもりだった。だが、彼女から見れば、社会人になって急に忙しくなり、会う時間が激減した彼氏の姿は、言い知れぬ恐怖だったのだ。

俺は持っていた傘を道端に放り出し、濡れるのも構わずに彼女を両腕で強く抱きしめた。


「ごめん……本当にごめん、陽子。嫌いになるわけないだろ。俺は、お前以外の女なんてこの先の人生で絶対にあり得ない。それは、左手のプラチナリングに誓ったはずだ」

俺が耳元でそう囁くと、陽子は俺の背中に腕を回し、雨音に消されるような小さな声で泣き続けた。


「……陽子。少し、聞いてほしいことがあるんだ」

俺は彼女の肩をそっと離し、雨に濡れたその真っ直ぐな瞳を見つめ返した。


「互いに社会人になって、これからもっと忙しくなる。休みが合わないことだって、すれ違うことだって絶対にある。……だから、会えない時間をなくそう」

「え……?」

「一緒に暮らそう、陽子。俺と同じ家に帰ってきてほしい。……結婚しよう。今すぐにだ」


雨の降るバス停。

ロマンチックな夜景も、気の利いたレストランもない。だが、五十代のオヤジの魂が導き出した、これ以上ないほど現実的で、絶対的な愛の決断だった。


「……結婚……。でも、健一くんはまだ新入社員で……」

「関係ない。俺の稼ぎが少なくたって、絶対に陽子にひもじい思いはさせないし、家事だって半分以上俺がやる。ただ、一日の終わりに、同じ部屋で『お疲れ様』って言い合える場所が欲しいんだ」


陽子は大きく目を見開き、やがてその瞳から、悲しみとは全く違う、温かい涙があふれ出した。

彼女は左手のプラチナリングが光る手で口元を覆い、何度も、何度も強く頷いた。


「うんっ……。私、健一くんのお嫁さんになる。どんなに忙しくても、狭い部屋でもいい。健一くんが帰ってくる場所、私が作る……っ」


雨の冷たさなど、もう全く感じなかった。

俺たちは傘もささずに、互いの体温を確かめ合うように深く抱きしめ合った。


一周目の人生で、すれ違いと意地によって無残に引き裂かれた二人の運命。

それを今、自らの足で踏み越え、完全に新しい未来の軌道へと乗せた瞬間だった。


「よし。そうと決まったら、このままご両親に挨拶に行くぞ」

「えっ!? い、今から!? 健一くん、スーツびしょ濡れだよ!?」

「雨降って地固まる、って言うだろ。覚悟は決まってるんだ、早い方がいい」

「もう、健一くんってば無茶苦茶なんだから……ふふっ、あはは!」


陽子の心からの笑い声が、夜の雨空に響いた。

バブルが弾け、日本中が冷たい冬の時代へと向かっていく。

だが、俺たちの間にある絆だけは、どんな時代が来ようとも決して冷めることのない、無敵の熱を放っていた。

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