第35話 両家への挨拶と、四畳半の城
第35話 両家への挨拶と、四畳半の城
一九九三年(平成五年)、五月。
冷たい雨のバス停でのプロポーズから、わずか一週間後の日曜日。
俺は、都内にある陽子の実家の居間で、彼女の両親と向かい合って正座していた。
座卓の上には、俺が買ってきた老舗和菓子屋の最中の詰め合わせが置かれている。
部屋を包み込むのは、針の落ちる音さえ聞こえそうなほどの重く張り詰めた沈黙。陽子は俺の斜め後ろで、不安そうに両手を強く握りしめていた。
「……高橋君、と言ったね」
重い口を開いたのは、腕を組んで眉間にシワを寄せた陽子の父親だった。
「陽子から話は聞いた。……結婚を前提に、一緒に暮らしたいと。だがね、君は今年の春に大学を卒業して、会社に入ったばかりの新入社員じゃないか。対して陽子は、もう社会人三年目だ。お互いの生活のリズムも違う。それに、君のその若い稼ぎだけで、うちの娘に苦労をかけずに養っていけるのかね?」
父親の言葉は、親として痛いほど真っ当なものだった。
世間はバブル崩壊後の不況に突入し、企業の倒産やリストラのニュースが連日報じられている。そんな時代に、海のものとも山のものともつかない新入社員の若造に、手塩にかけて育てた娘をホイホイとくれてやる親などいない。
一周目の人生の、ただの生意気な二十二歳の俺だったなら、この正論に対して「愛情があれば乗り越えられます」だの「俺の将来性を信じてください」だのと、中身のない薄っぺらな反論をして玉砕していただろう。
だが、今の俺の魂は五十代だ。社会の厳しさも、親が娘を案じる気持ちも、誰よりも深く理解している。
俺は姿勢を正し、相手の目を真っ直ぐに見据えながら、深く、静かな声で口を開いた。
「お義父さんの仰る通りです。私はまだ社会に出たばかりの未熟者ですし、現在の給料も、胸を張って陽子さんを養えると言えるほどの額ではありません」
俺の正直すぎる言葉に、父親は少しだけ虚を突かれたような顔をした。
「しかし、だからといって、仕事が軌道に乗るまで何年も彼女を待たせ、不安にさせるような真似は絶対に嫌だったんです」
俺は言葉を区切り、一つ一つの言葉に確かな重みを乗せて続けた。
「私はこの数年間、大学に通いながら、来るべき不況に備えて必死で働き、生活防衛のための資金を蓄えてきました。決して裕福な暮らしはさせられませんが、少なくとも、明日食べるものに困らせるような真似は絶対にしません。
それに、家事はすべて陽子さんに任せるつもりはありません。彼女の仕事がどれほど激務か、私はこの三年間、ずっとそばで見てきました。掃除も洗濯も食事の支度も、早く帰った方がやる。二人で支え合って、生活の基盤を作っていきます」
そして俺は、陽子の左手を取った。
彼女の薬指には、俺がすべてを懸けて贈ったプラチナのリングが静かに輝いている。
「このリングは、私が彼女を一生守り抜くと決めた覚悟の証です。……どうか、陽子さんを私に託していただけないでしょうか」
俺は両手をつき、畳に額が擦れるほど深く頭を下げた。
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、「……頭を上げてくれ」という父親の低い声が降ってきた。
顔を上げると、父親は少しだけ目元を赤くしながら、呆れたように、しかしどこか安堵したような表情で俺を見ていた。
「……驚いたよ。今年会社に入ったばかりの二十二歳だと聞いていたが、まるで何十年も社会の荒波を揉まれてきた男のような、腹の据わった顔をしている。……お前さんのその言葉が嘘か本当か、私には見抜けないがね。娘のその左手の指輪と、嬉しそうな顔を見れば、親が口出しする余地なんてないことは分かるよ」
「お父さん……っ」
陽子が、こらえきれずに嗚咽を漏らした。
「……陽子を、よろしく頼む。あの子を泣かせたら、絶対に承知しないからな」
「はい。命に代えても、絶対に幸せにします」
こうして、五十代のオヤジの交渉術と誠意のすべてを注ぎ込んだ俺の挨拶は、無事に彼女の両親からの承諾を勝ち取ることとなった。
(ちなみに俺の実家への報告は、「そうかい、お前が決めた相手ならいいよ。頑張りな」という電話一本で終わった。放任主義の親で本当に助かった)
それから一ヶ月後の、六月。
梅雨の晴れ間の週末、俺たちはついに自分たちの『城』を手に入れた。
「わあ……! 古いけど、すごく日当たりがいいね!」
都内の私鉄沿線、駅から徒歩十五分の場所にある、築三十年の木造アパート。
間取りは、四畳半のダイニングキッチンと、六畳の和室。お風呂は今時珍しいバランス釜で、トイレは和式。家賃は五万五千円。
バブル期に建てられたデザイナーズマンションなどとは程遠い、まさに昭和の香りが色濃く残るオンボロアパートだ。
だが、俺が必死に貯めたサバイバル資金は、あくまで将来の暴落相場で優良株を買うための「タネ銭」であり、生活費として浪費するわけにはいかない。身の丈に合ったこの小さな部屋こそが、俺たち二人の新しい出発点だった。
「ごめんな、陽子。こんなオンボロで狭い部屋からのスタートになっちまって。もう少し稼ぎが良くなったら、絶対に広いマンションに引っ越すから」
段ボールの山の中で、俺が申し訳なさそうに言うと、陽子は首を勢いよく横に振った。
「ううん、私、この部屋すごく好き! 狭い方が掃除も楽だし、なにより……いつでも健一くんがすぐ近くにいるって分かるから」
彼女はエプロン姿のまま俺に駆け寄り、ギュッと抱きついてきた。
「それにね、『四畳半の城』って感じがして、秘密基地みたいでワクワクしない? ここから二人で、少しずついろんなものを大きくしていけばいいんだよ」
その前向きで健気な言葉に、俺は思わず目頭が熱くなった。
(……ああ、やっぱり俺は、この女を選んで正解だった)
その日の夜。
引っ越しの片付けをある程度終えた俺たちは、部屋の真ん中に小さな折りたたみ式のちゃぶ台を広げた。
コンロが一つしかない狭いキッチンで、陽子が作ってくれたのは、特売の豚肉とキャベツを炒めただけの簡単な野菜炒めと、お湯を注ぐだけのインスタントの味噌汁だった。
「ごめんね、今日は疲れちゃって、こんな簡単なものしか作れなくて……」
「馬鹿。陽子が作ってくれた飯なら、なんだって最高のご馳走だよ」
缶ビールと、陽子用の缶チューハイで乾杯の音を鳴らす。
「じゃあ……同棲初日と、これからの二人に。乾杯!」
「乾杯!」
冷えたビールを喉に流し込み、野菜炒めを口に運ぶ。
特別な調味料など使っていない、ごく普通の家庭の味。だが、一日中引っ越し作業で汗を流した身体に、その塩気と旨味が染み渡っていく。
「……美味い。すげえ美味いよ、陽子」
「ふふっ、よかったぁ。健一くん、すっごく美味しそうに食べるんだもん」
ちゃぶ台を挟んで向かい合い、くだらないテレビ番組を見ながら笑い合う。
窓の外からは、梅雨時の生暖かい風と、遠くを走る電車の音が微かに聞こえてくる。
部屋にはクーラーなどなく、扇風機が首を振りながら生ぬるい風を送っているだけだったが、俺の心の中は、これまでの人生で感じたことがないほどの深い安堵と多幸感で満たされていた。
一周目の人生では、俺は自分のキャリアや見栄ばかりを気にして、こんなささやかで確かな幸せを自らの手で壊してしまった。
学生と社会人という立場の違いから生じた、ほんの小さなすれ違い。それを話し合いで埋めようとせず、「疲れているから」「忙しいから」と逃げ続けた結果が、あの最悪の結末だったのだ。
だが、今は違う。
俺の目の前には、スッピンにジャージ姿で、缶チューハイを片手に無防備に笑っている陽子がいる。
彼女の左手の薬指にはプラチナのリングが光り、俺の左手にも、お揃いの安物のリングが嵌まっている(さすがに仕事中にプラチナをつけるのは気が引けたため、普段使い用のペアリングを陽子が買ってくれたのだ)。
「……健一くん? どうしたの、そんなに私の顔見つめて。野菜炒め、口の周りについてる?」
陽子が不思議そうに首を傾げる。
「いや……ただ、お前が俺の目の前にいて、こうして一緒に飯を食えてるのが、奇跡みたいに嬉しいなって思ってさ」
俺が素直な思いを口にすると、陽子は少しだけ目を見開き、やがて頬を真っ赤に染めてうつむいた。
「もう……急にそんなこと言われたら、照れちゃうじゃない……」
彼女はちゃぶ台越しに手を伸ばし、俺の左手にそっと自分の手を重ねてきた。
「私もだよ。今日から毎日、健一くんに『おかえり』って言える。それが、何よりも嬉しい」
一九九三年、六月。
世間はバブルの残骸処理に追われ、冷え込む経済と就職氷河期のニュースが暗い影を落としていた。
だが、俺たち二人の『四畳半の城』だけは、どんな高級ホテルよりも温かく、どんな強固な要塞よりも安全で、愛に満ちていた。
この小さな城から、俺たちの本当の『家族』としての人生が始まるのだ。
俺は陽子の小さな手を握り返しながら、これからの激動の時代を、二人で必ず笑って生き抜いてみせると、改めて心に誓った。
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