第36話 IT業界の激務と、陽子の手作り弁当
第36話 IT業界の激務と、陽子の手作り弁当
一九九三年(平成五年)から九四年にかけて。
俺が飛び込んだ九〇年代前半のIT業界(当時はまだ『情報通信産業』などと堅苦しく呼ばれていた)は、まさに不夜城と呼ぶにふさわしい戦場だった。
都内のオフィスビルの一角。デスクの上には奥行きの深い巨大なブラウン管モニターが鎮座し、フロアには常にタバコの紫煙が立ち込めている。カタカタと響くキーボードの打鍵音と、ドットインパクトプリンターのけたたましい駆動音が絶え間なく鳴り響く中、社員たちは充血した目で画面と睨み合っていた。
まだインターネットが一般に普及する前夜。企業がこぞって業務の電子化や独自システムの構築に乗り出していたこの時期、現場のエンジニアや営業にのしかかる業務量は狂気じみていた。
「おい高橋! このテスト仕様書、明日の朝イチでクライアントに提出だ! 今日は帰れないと思えよ!」
怒声と共に、分厚いファイルの山が俺のデスクにドンッと積まれる。
「了解しました、課長。終電までには完璧に仕上げて机に置いておきます」
俺が平然と答えると、目の下に深いクマを作った先輩社員たちが「お前、またそんなハッタリかまして……」と呆れた顔を向けた。
だが、これはハッタリでもなんでもない。
五十代の記憶を持つ俺にとって、この時代の非効率な手作業や、無駄だらけのコーディングルールなど、改善の余地しかない宝の山だった。
俺は未来の洗練されたプログラミングの概念と、五十代で培ったマネジメントの『段取り力』をフル稼働させ、マクロを組んでテスト作業を徹底的に自動化し、先輩たちが三日徹夜する作業を数時間で終わらせていた。
「……お前、本当に新入社員か? なんで入社半年の奴が、十年選手の俺らよりバグの出ないコード書けるんだよ……」
深夜、俺が提出した仕様書とプログラムを見た課長が、タバコをポロリと口から落として絶句した。
「学生時代から、趣味で少し組んでたもので。お疲れ様でした、お先に失礼します」
俺は涼しい顔でタイムカードを切り、会社を後にした。
とはいえ、どれだけ効率化を図っても、絶対的な仕事の総量が減るわけではない。
バブル崩壊後の生き残りを懸けたシステム開発の波は激しく、俺もまた、連日のように終電帰りの日々を送っていた。肉体的な疲労は、確実に二十二歳の体を蝕んでいた。
そんな俺の過酷な日々を支え、折れそうな心を何度も繋ぎ止めてくれたのは、他でもない『陽子の存在』だった。
翌日の昼休み。
フロアの同僚たちが、会社の経費で落ちるのをいいことに高い出前を取ったり、あるいは寝不足で机に突っ伏したりしている中、俺は給湯室の隅のテーブルで、風呂敷に包まれた弁当箱を開いていた。
プラスチックの保存容器に詰められたその弁当は、白いご飯の上に、たっぷりの肉野菜炒めと、鮮やかな黄色の炒り卵が乗った、ごくごくシンプルなものだ。
キャラ弁のような手の込んだ装飾もなければ、豪華なエビフライが入っているわけでもない。
だが、この肉野菜炒めと炒り卵の弁当こそが、俺にとって世界で一番美味い、最高の活力源だった。
「いただきます」
炒り卵の甘みと、少し濃いめに味付けされた肉野菜炒めの塩気が、白いご飯と絶妙に絡み合い、疲労した脳と体に染み渡っていく。
(……美味い。本当に、美味いな)
社会人三年目の陽子の仕事も、相変わらず激務だった。
保育園での後輩指導、終わらない日誌、週末の行事準備。彼女自身もクタクタに疲れているはずなのに、俺が「朝は少しでも長く寝ててくれ」と言っても、彼女は毎朝必ず俺より早く起き、狭いキッチンのコンロでこの弁当を作って持たせてくれるのだ。
『健一くん、毎日遅くまでお仕事頑張ってくれてるから。お昼くらい、ちゃんと私の作ったもの食べて、元気出してほしいの』
そう言ってエプロン姿で笑う彼女の顔を思い出すだけで、どんな理不尽なクレームも、終わりの見えないバグ取りも、すべて乗り越えられる気がした。
この小さなプラスチック容器には、彼女の俺に対する無償の愛情と、一緒に生きていくという強い覚悟が、ご飯と一緒にぎっしりと詰め込まれているのだ。
その日の夜。
システム障害のトラブル対応に追われ、俺が四畳半のアパートに帰り着いたのは、深夜の一時を回った頃だった。
ガチャリ、と音を立てないように慎重に玄関のドアを開ける。
六畳の和室を覗き込むと、小さな豆電球の光の下で、陽子が布団にくるまってスースーと規則正しい寝息を立てていた。
(よかった、ちゃんと寝てるな)
俺はホッと息を吐き、ネクタイを緩めながらダイニングキッチンへと向かった。
ちゃぶ台の上には、ラップがかけられたおにぎり二つと、急須、そして小さなメモ用紙が置かれていた。
『健一くん、今日もお仕事お疲れ様。お腹空いてると思って、おにぎり握っておきました。温かいお茶と一緒に食べてね。無理しないでね。陽子より』
その丸っこい、見慣れた優しい文字を見た瞬間、俺の目頭がカッと熱くなった。
一周目の人生での俺は、こんな風に手紙を残して寝て待ってくれている彼女の優しさを、「重い」だの「俺のペースに合わせてくれ」だのと冷たく突き放し、見向きもしなかった。
あの時の自分を、タイムマシンに乗って本当に殴り殺してやりたい。
俺はスーツの上着を脱ぎ、ちゃぶ台の前に座ってラップを外そうとした。
その時、和室の襖がスッと開き、目をこすりながらパジャマ姿の陽子が起きてきた。
「……ん……健一、くん? おかえりなさい……」
「あっ、ごめん! 起こしちゃったか。もう少し静かに帰ってくるべきだったな」
俺が慌てて言うと、陽子はトコトコと歩いてきて、俺の隣にちょこんと座った。
「ううん、違うの。健一くんが帰ってくる音が聞こえたから、顔が見たくて起きちゃった」
陽子は寝ぼけ眼でふにゃりと笑い、「お茶、淹れるね」と立ち上がろうとした。
「いい、いい! 俺がやるから、陽子は座っててくれ。明日も早番だろ?」
俺は彼女を座らせ、自分でお湯を沸かして急須にお湯を注いだ。
温かいお茶の香りが、狭い部屋の中に広がる。
「……おにぎり、ありがとうな。いただきます」
俺がおにぎりを一口かじると、中からは俺の好きな鮭のほぐし身が出てきた。ほどよい塩加減と、海苔の香ばしさがたまらなく美味い。
「どう? 美味しい?」
「ああ、最高だ。陽子のご飯食べると、一日の疲れが全部リセットされるよ。昼間の肉野菜炒めの弁当も、すげえ美味かった」
俺が素直に伝えると、陽子は嬉しそうに両手で頬を包み込んだ。
「えへへ、よかったぁ。健一くん、最近すごく忙しそうだから……私、ご飯くらいしか力になれなくて。もっと手の込んだお料理、作れるようになりたいんだけどな」
「今のままで十分すぎるよ。陽子が毎日笑って俺の帰りを待っててくれるだけで、俺は世界一の幸せ者だ」
俺は食べ終わった手を拭き、隣に座る彼女の頭を優しく撫でた。
髪から微かに漂う、石鹸のいい匂い。
陽子は気持ちよさそうに目を細め、やがて俺の肩にコツンと頭を預けてきた。
「……ねえ、健一くん」
「ん?」
「私ね、この四畳半のお部屋での暮らし、すごく好きなの。健一くんと一緒にお布団並べて寝て、朝起きて『いってらっしゃい』って言って、夜はこうやって『おかえり』って言える。……私、今、すっごく幸せだよ」
その言葉に、俺は五十代の魂が震えるのを感じた。
バブル崩壊後の不況。就職氷河期。過酷な労働環境。
社会全体が薄暗い絶望に向かっていく中で、俺たち二人の間にあるこの小さな営みだけは、どんな宝石よりも尊く、輝いていた。
「俺も幸せだ。陽子がいてくれるから、どんな過酷な仕事だって笑って乗り越えられる」
俺は彼女の肩を抱き寄せ、その髪にそっとキスをした。
「……来年、少し仕事が落ち着いたら」
俺は、静かに、しかし絶対の決意を込めて言った。
「式を挙げよう。身内と、本当に親しい友人だけ呼んで、小さな手作りの結婚式を。陽子に、ウェディングドレスを着せたいんだ」
陽子は俺の肩から顔を上げ、大きく目を見開いた。
そして、その瞳からポロポロと嬉し涙をこぼしながら、何度も、何度も強く頷いた。
「うんっ……! 私、絶対に着る。健一くんのお嫁さんになる……っ!」
一九九四年の足音が、すぐそこまで迫っていた。
それは、一周目の人生で俺たちが『別れ』を選んだ、最悪の年。
だが、今の俺たちにとっての一九九四年は、絶望の未来を完全に塗り替え、新しい家族としての絆を永遠のものにする、最高の年になるはずだった。
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