第37話 手作りの結婚式と、書き換わった未来
第37話 手作りの結婚式と、書き換わった未来
一九九四年(平成六年)、五月。
新緑が眩しい季節。世間では、長引く不況といよいよ本格化した「就職氷河期」の暗いニュースが連日メディアを賑わせていた。
だが、俺にとってこの一九九四年という年は、世間の動向以上に、極めて重く、特別な意味を持つ年だった。
(……一周目の人生では、俺たちが最低な別れ方をした年だ)
当時、社会人二年目だった俺と、四年目だった陽子。
互いの仕事の激務とストレスがピークに達し、すれ違いが限界を迎え、些細な喧嘩から修復不可能な溝が生まれた。そして、どちらからともなく連絡が途絶え、自然消滅という最も卑怯で残酷な形で、俺たちは別れた。
その後の俺の人生が、どれほど空虚で、消えない後悔に苛まれるものになったか。五十代のオヤジになった俺の魂には、その痛みがどす黒い染みのようにこびりついている。
だが、二度目の今日。
俺たちは別れるどころか、四畳半の小さなアパートで、これ以上ないほど強固な絆で結ばれた『家族』になっていた。
「健一くん、見て見て! ウェルカムボード、完成したよ!」
休日の午後。ちゃぶ台の上に広げられた画用紙や色鉛筆、造花の手芸パーツの山の中から、陽子が満面の笑みで手作りのボードを掲げた。
そこには、保育士である彼女の特技を活かした、温かみのあるパステルカラーの似顔絵と、可愛らしい花飾りが立体的にあしらわれていた。
「すごいな……! 売り物みたいじゃないか。陽子、本当にこういうの得意だよな」
「えへへ。保育園での壁面製作に比べたら、これくらいお手の物だよ。席札も、一つ一つ手書きでメッセージを添えようと思ってるの」
絵の具で少しだけ指先を汚しながら笑う陽子を見て、俺は胸の奥が熱くなるのを覚えた。
俺たちが選んだのは、豪華なホテルウェディングでも、派手なゴンドラから登場するようなバブルの遺物のような式でもなかった。
都内のこぢんまりとしたレストランを貸し切り、親族と、高校時代からの本当に親しい友人だけを招く、ささやかな手作りのレストランウェディングだ。
装花やペーパーアイテムはすべて陽子の手作り。予算の管理や式場との細かな交渉、段取りは、五十代の元・中間管理職である俺が完璧に取り仕切った。
二人で知恵を絞り、汗をかいて作り上げる結婚式。それは、四畳半からスタートした俺たちに一番ふさわしい、等身大の晴れ舞台だった。
そして、運命の五月某日。
雲一つない、抜けるような青空の下。
レストランに併設された小さなチャペルの扉の前で、俺は黒のタキシードに身を包み、極度の緊張で喉を鳴らしていた。
これまで幾多の修羅場を潜り抜け、大企業の役員相手のプレゼンでも動じなかった俺の心臓が、まるで思春期の少年のように早鐘を打っている。
「新郎様、準備はよろしいですか?」
スタッフの声に促され、俺は深く息を吐いて頷いた。
ゆっくりと、重厚な木製の扉が開かれる。
チャペルの中に差し込む、柔らかな春の陽射し。
その光の中心に、彼女は立っていた。
純白の、シンプルなAラインのウェディングドレス。
いつもは無造作に結ばれている髪は美しく編み込まれ、小さなティアラが乗せられている。薄く施されたメイクが、彼女の本来の美しさと、大人の女性としての気品を極限まで引き出していた。
胸元には、あの日俺が贈った純銀のティアドロップが、ドレスの白さに溶け込むように静かな光を放っている。
(……綺麗だ。本当に……)
言葉が出なかった。ただ、視界が急速に滲み、熱いものが込み上げてくるのを止めることができなかった。
陽子の父親にエスコートされ、一歩、また一歩とバージンロードを歩いてくる彼女の姿が、一周目の人生で失ってしまった数え切れないほどの後悔と重なる。
『もしもあの時、素直に謝っていれば』
『もしもあの時、彼女の手を強く握っていれば』
何十年もの間、夜の暗闇の中で何度も何度も繰り返してきた、叶わぬはずの「もしも」。
それが今、奇跡のような現実となって、俺の目の前を歩いてくる。
やがて、陽子の父親が、その震える手で陽子の手を俺に託した。
「……陽子を、頼む」
「はい。命に代えても」
俺が力強く頷き、陽子の手を取ると、彼女はベールの下で、涙ぐみながらも世界一美しい笑顔を見せてくれた。
牧師の前に立ち、誓いの言葉を交わす。
そして、リングの交換。
俺は、陽子の左手の薬指に、すでに嵌まっているプラチナの婚約指輪に重ねるように、シンプルなプラチナのマリッジリングをゆっくりと通した。
シルバー、ゴールド、そして二つのプラチナ。
俺たちが積み上げてきた時間のすべてが、彼女の小さな手の中で永遠の輝きを放っている。
「誓いのキスを」
牧師の言葉に、俺はそっとベールを上げ、彼女の柔らかい唇に触れた。
チャペルを包み込む、温かい拍手。
高校時代の友人たちの「高橋、お前本当にやったな!」「陽子ちゃん、おめでとう!」という歓声が聞こえる。
その瞬間、俺の魂の奥底で、重く、分厚い扉がガシャンと音を立てて開くような感覚があった。
(……超えた。俺はついに、あの『絶望の運命』を超えたんだ)
もう、最低な別れ方はしない。
一人きりの冷たい部屋で、彼女の幻影を探すような夜は二度と来ない。
俺は、俺の持てる大人の力のすべてを懸けて、ついにこの未来を勝ち取ったのだ。
「健一くん」
歓声の中、陽子が俺の腕にそっと自分の腕を絡め、幸せに満ちた声で囁いた。
「私、今、世界で一番幸せなお嫁さんだよ」
「……俺もだ。世界で一番、幸せな男だ」
俺は彼女の手を強く握り返し、集まってくれた大切な人たちに向かって、誇らしく胸を張った。
一九九四年、五月。
世間を覆う分厚い氷河期の氷さえも溶かしてしまうほどの、圧倒的な熱と幸福感。
『初恋のやり直し』という俺に与えられた奇跡は、今日この日をもって、完全に新しい未来へと軌道を移した。
ここから先は、誰も知らない、俺たち二人だけで作り上げていく本当の人生だ。
不況だろうが、時代の激変だろうが、もう何も怖くない。この手にある温もりさえ守り抜ければ、俺はどんな過酷な時代でも生き抜いてみせる。
チャペルの外に出ると、抜けるような五月の青空から、祝福のフラワーシャワーが降り注いでいた。
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