第38話 新しい命と、氷河期を乗り越える投資
第38話 新しい命と、氷河期を乗り越える投資
一九九七年(平成九年)、十一月。
テレビのブラウン管に映し出された、大手証券会社の社長が号泣しながら「社員は悪くありません!」と叫ぶその映像は、日本中を底知れぬ恐怖と絶望に陥れた。
北海道〇〇銀行の破綻、そして山〇證券の自主廃業。
バブル崩壊から数年、なんとか持ちこたえていた日本経済の心臓部である金融機関が、ついに音を立てて崩れ落ちたのだ。世間は「金融恐慌」の文字にパニックを起こし、日経平均株価は一万五千円台まで暴落。街にはリストラで職を失った中高年が溢れ、新卒の就職氷河期はまさに凍てつくような「超氷河期」へと突入していた。
だが、休日の昼下がり、リビングのソファでそのニュース映像を眺めていた俺の心は、氷のように冷静だった。
(……ついに、大底が来たか)
俺は傍らに置いてあった分厚いファイルを引き寄せ、中に入っている書類を確認した。
それは、大学時代に血反吐を吐くような夜勤や肉体労働で稼ぎ出し、当時の超高金利(年利六パーセント超)の郵便局の定額貯金に全額ぶち込んでいた、俺の『サバイバル資金』の満期証書だった。
複利で膨れ上がったその資金は、二十代後半の一般的なサラリーマンの貯蓄額を遥かに凌駕する額になっていた。
「健一くん、コーヒー淹れたよ。……あ、またそのニュースやってるね。なんだか、世の中どうなっちゃうんだろうって、すごく怖いね」
キッチンからマグカップを二つ持ってやってきた陽子が、テレビの画面を見て不安そうに眉を下げる。
俺たちが四畳半のアパートから引っ越し、今の2LDKのマンションに移り住んでから一年が経っていた。陽子も二十七歳になり、今では保育園の中核を担うベテランとして、新人の指導から行事の統括までを任される立派な「主任クラス」に成長している。
俺は陽子からマグカップを受け取り、彼女の頭をポンと撫でた。
「世間はパニックになってるけど、俺たちには関係ない。俺の会社も、陽子の保育園も、絶対に潰れないから安心しろ」
一九九五年以降、パソコン向けOS『〇〇95』の発売を皮切りに、世界は爆発的なインターネット普及期へと突入していた。
企業の業務システム構築を担う俺のIT企業は、金融不況の煽りを受けるどころか、空前の特需に沸いていた。五十代の知識でこのIT革命を完全に先読みしていた俺は、社内でも最年少でプロジェクトリーダーに抜擢され、給料も右肩上がりで増え続けている。
「それに、今日これから、俺たちの将来のための『防壁』を完成させてくるよ」
「防壁?」
不思議そうに首を傾げる陽子に笑いかけ、俺はコートを羽織ってマンションを出た。
向かった先は、駅前にある証券会社の窓口だ。
世間が「株なんか持っていたら紙くずになる」「現金が一番だ」とパニックになって株を投げ売りしている今こそが、歴史的な『買い場』なのだ。
俺は満期を迎えた定額貯金の資金を惜しげもなく投入し、現在市場で不当なまでに売り叩かれている「世界的なシェアを持つ日本のインフラ系企業」や「盤石な財務体質を持つ優良メーカー」の株を、文字通り底値で買い漁った。
これらの優良株は、数年後のITバブル、そして二〇〇〇年代以降のグローバル化の中で、何倍、何十倍にも大化けし、莫大な配当金を俺たちにもたらし続けることになる。
これで、経済的な不安は完全に消え去った。
五十代の知識と、大学時代の泥臭い努力。そのすべてが結実し、俺はついに愛する家族を守り抜くための『最強の城壁』を築き上げたのだ。
夕方。
心地よい達成感と共にマンションに帰ると、キッチンからハンバーグを焼く香ばしい匂いが漂ってきた。
「ただいま、陽子。いい匂いがするな」
「あっ、おかえりなさい! ちょうど焼けたところだよ。手洗ってきて」
エプロン姿の陽子が、嬉しそうに振り返る。
ダイニングテーブルには、俺の好物であるデミグラスソースのハンバーグと、ポテトサラダ、そしてミネストローネが並べられていた。
四畳半の時代、一つのコンロで野菜炒めを作ってくれていた頃から、彼女の料理の腕も格段に上がっている。
「いただきます」
一口食べると、肉汁と濃厚なソースの旨味が口いっぱいに広がった。
「美味い。やっぱり陽子のハンバーグは世界一だな」
「ふふっ、よかった。……あのね、健一くん」
陽子は自分のハンバーグには手をつけず、少しだけモジモジとしながら、上目遣いで俺の顔を見つめてきた。
その様子がどこかいつもと違っていることに気づき、俺は箸を止めた。
「どうした? 仕事で何か嫌なことでもあったか?」
「ううん、違うの。あのね……今日、健一くんがお出かけしてる間に、病院に行ってきたんだ」
「病院? どこか具合でも悪いのか!?」
俺が身を乗り出すと、陽子は慌てて首を横に振り、そして、頬を桜色に染めながら、ゆっくりとその言葉を口にした。
「……あのね。赤ちゃん、できたみたい。三ヶ月だって」
時が、止まった。
テレビの音も、外を走る車の音も、すべてが遠のいていく。
俺は箸を持ったまま、呆然と陽子の顔を見つめた。
赤ちゃん。新しい命。
一周目の人生で、仕事と見栄に明け暮れ、家庭を持つことから逃げ続けた俺が、決して手に入れることのできなかったもの。
五十代の孤独なオヤジの魂が、心の奥底で激しく揺さぶられていた。俺が、親になる? この、世界で一番愛している女との間に、子供ができた?
「……健一、くん? どうしたの、そんなに固まっちゃって……もしかして、まだ早かったかな……」
俺があまりにも無反応だったため、陽子が不安そうに眉を下げた瞬間。
俺は椅子を蹴立てて立ち上がり、テーブルを回り込んで、陽子をその小さな体ごと、きつく、きつく抱きしめた。
「っ……健一くん!?」
「ありがとう……。ありがとう、陽子……っ」
俺の声は、情けないほどに震えていた。
五十代の、酸いも甘いも噛み分けてきたはずのオヤジの目から、ボロボロと止めどなく涙があふれ出していた。
陽子の肩に顔を埋め、子供のように泣きじゃくる俺の背中を、陽子は戸惑いながらも、優しく、トントンと撫でてくれた。
「よかったぁ……。健一くんが喜んでくれなかったらどうしようって、少しだけ不安だったの」
「馬鹿。喜ばないわけないだろ。俺は……俺の人生で、今が一番幸せだ。お前と、お前のお腹の中にいる子供のパパになれるなんて……っ」
「ふふっ、健一くんってば、本当に涙もろいんだから」
陽子もまた、俺の背中に腕を回し、嬉し泣きの声を漏らした。
彼女の左手で光るプラチナのリングが、俺の背中に温かく触れている。
「……絶対に、幸せにする」
俺は彼女の肩を離し、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、陽子の目を見て、そして彼女のまだ平らなお腹にそっと手を当てた。
「世の中がどんなに不景気だろうと、明日世界が終わろうと、俺が絶対にこの子と陽子を守り抜く。だから、安心して、元気な赤ちゃんを産んでくれ」
俺の力強い誓いに、陽子は世界で一番美しい笑顔で頷いた。
「うんっ。私、頑張る。健一くんと私の子だもん、絶対に元気に産んでみせるね」
一九九七年、冬。
日本中が冷たい不況のどん底で震える中。
俺たちの家庭には、どんな暗闇も吹き飛ばすような、圧倒的な希望の光が灯った。
愛する妻と、これから生まれてくる新しい命。
俺の二度目の人生は、もはや「後悔のやり直し」などという次元をとうに超え、一周目では想像すらできなかった、眩しすぎる未来へと力強く歩み始めていた。
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