第41話 高校の同窓会(エピローグ前編)
第41話 高校の同窓会(エピローグ前編)
二〇二三年、冬。
都内の大きめな居酒屋を貸し切って行われた、高校時代の同窓会。
入り口に立てかけられた『東京都立〇〇高等学校 卒業三十五周年 同窓会』という立て札を見た瞬間、俺の足は無意識のうちにピタリと止まっていた。
扉の向こうから漏れ聞こえてくる、五十代の男女のざわめき。
足元から、じわりと冷たいものが這い上がってくる感覚があった。
ここは、三十五年の時を超えてやり直してきた俺の、すべての『絶望の起点』となった場所だ。
一周目の人生で、俺はこの居酒屋の部屋の隅に一人で座り、すっかりぬるくなった不味いビールを胃に流し込んでいた。
バブル崩壊で会社を追われ、見栄で結婚した妻にも捨てられ、非正規雇用の泥沼を這いずり回っていた、惨めで空っぽな五十三歳。
そんな俺に、「……久しぶりだね、健一くん」と声をかけてきたのが、少しだけ白髪の混じった陽子だった。
あの時、彼女と目が合った瞬間の胸の動悸を、今でもはっきりと覚えている。
だが、その後に駅前の喫茶店で彼女が見せた、長く冷たい現実にすり減らされた「寂しげな笑顔」が、俺を狂おしいほどの自己嫌悪と後悔の底へと突き落としたのだ。
「健一くん? どうしたの、急に立ち止まったりして」
ふいに、隣から温かい声が降ってきた。
ハッとして視線を向けると、少し心配そうな顔をした陽子が、俺の右腕にそっと自分の腕を絡ませてこちらを見上げていた。
今日の陽子は、落ち着いたネイビーのワンピースに、淡いグレーのノーカラーコートを上品に着こなし、首元にはパールのネックレスを身につけている。五十三歳という年齢にふさわしい、大人の女性の深い魅力と、満ち足りた穏やかな空気を纏っていた。
そしてその左手の薬指には、俺が贈ったプラチナのリングが、確かな重みを持って光っている。
その温かい感触と眩しい姿が、俺の脳裏にへばりついていた一周目の冷たく苦い記憶を、一瞬にして打ち砕いてくれた。
「……いや、なんでもないよ。ただ、今日のお前があまりにも綺麗だから、見惚れてただけだ」
俺が素直に笑って言うと、陽子はパッと顔を赤らめ、小さく俺の腕をつねった。
「も、もうっ。同級生がたくさんいる前で、そんなこと言わないでよ。恥ずかしいじゃない……」
「本当のことだろ。よし、行こうか」
俺は陽子のエスコートをするように少しだけ胸を張り、同窓会の受付となっている座敷の入り口へと歩を進めた。
「おっ、次の方、お名前は――って、おおっ!? 高橋じゃないか!」
受付係をしていたのは、高校時代によくつるんでいたクラスメイトの一人だった。すっかり頭頂部が寂しくなり、立派な太鼓腹を揺らしているが、声の張りは昔のままだ。
「久しぶりだな。お前、すっかり貫禄がついたな」
「うるせえよ、お互い様だろ! ……って、あれ? お前の隣にいるのって、もしかして……」
男が目を丸くして陽子を見る。
「ご無沙汰してます。覚えてるかな、陽子です」
陽子が上品に微笑んで会釈をすると、男は「うおおおっ!」と受付の机を叩いて立ち上がった。
「陽子ちゃん!? うわ、全然変わってないな! ……ってか、なんでお前ら二人、一緒に来てんの!?」
「なんでって。俺たち、大学の時に結婚したんだよ」
俺が平然と答えると、周囲で歓談していた他の同級生たちも一斉にこちらを振り向き、どよめきが起きた。
「ええええっ!? お前ら、高校の時から付き合ってたのは知ってたけど、そのまま結婚してたのかよ!」
「マジか! うわー、高橋の野郎、羨ましすぎるぞ!」
次々と集まってくる同級生たちからの容赦ない冷やかしと歓声に、陽子は「もう、みんな声が大きいよ……」と耳まで真っ赤にして俺の背中に隠れるように縮こまった。
俺は五十代の余裕たっぷりの笑みを浮かべながら、「まあな。俺には勿体ないくらい、最高の自慢の嫁だよ」と返し、さらに会場を沸かせた。
貸し切られた座敷の中には、懐かしい顔ぶれが揃っていた。
髪が白くなった奴、すっかりおばちゃん体型になった奴。外見はすっかり五十代のオヤジとおばさんになっているが、ひとたび口を開けば、あっという間に三十五年前の高校の教室の空気に戻っていく。
「陽子! 久しぶりー! 会いたかったあ!」
「みっちゃん! うわあ、全然変わってないね!」
陽子は高校時代の仲の良かった女子グループにあっという間に囲まれ、楽しそうに笑い声を上げ始めた。
俺もまた、かつての悪友たちに捕まり、ジョッキを片手に近況報告や昔話に花を咲かせた。
「しかし高橋、お前本当にすげえよな。IT企業の役員まで上り詰めて、おまけに高校時代からずっと一緒にいた陽子ちゃんと結婚して、子供も二人独立してるんだろ? 完璧な人生じゃねえか」
悪友の一人が、しみじみとビールを呷りながら言った。
俺は自分のジョッキを見つめ、小さく笑った。
一周目の人生では、ここで飲んだビールは、気が抜けてひどく苦く、ぬるかった。
だが、今の俺が口に含んだビールは、キンキンに冷えていて、五臓六腑に染み渡るほどに美味かった。
ふと、顔を上げる。
少し離れた席で、友人たちと談笑している陽子の姿があった。
誰かの冗談に肩を揺らして笑い、おしぼりで口元を隠すその横顔。
一周目の人生での彼女は、あんな風に笑うことさえ忘れてしまっていた。
俺の最低な逃げ方のせいで、彼女の人生から『底抜けに明るい輝き』を奪い取ってしまっていたのだ。
だが、今の彼女はどうだ。
俺の視線に気づいた陽子が、ふと会話を止めて、こちらを振り返った。
賑やかな居酒屋の喧騒越しに、俺と陽子の視線が真っ直ぐに交差する。
陽子は、俺の顔を見ると、花が咲いたようにパッと明るく、心からの幸せに満ちた笑顔を見せた。
そして、周りの友人に気づかれないように、胸元のあたりで小さく手を振り――その左手の薬指で光るプラチナのリングを、俺に見せるようにそっと撫でたのだ。
『私は、ここにいるよ。健一くんのお嫁さんとして、世界で一番幸せな女として、ここにいるよ』
言葉はなくても、その小さな仕草だけで、彼女の温かい声が直接俺の心に響いてくるようだった。
俺は小さく息を吐き、ジョッキを持ったまま、彼女に向かって静かに頷き返した。
(……勝ったな)
誰に対してでもない。
自分の弱さに負けて彼女を手放してしまった、あの『一周目の自分自身』に対する、完全なる勝利。
俺の魂の奥底にずっとへばりついていた、重く冷たい罪悪感が、陽子のその笑顔一つで音を立てて崩れ去り、光の中へと溶けて消えていくのを感じた。
やがて、二時間ほどの一次会がお開きとなり、同窓生たちは二次会のカラオケへと流れていく準備を始めた。
「健一くん、私たちも二次会行く?」
コートを着ながら、陽子が俺を見上げて尋ねてきた。
俺は首を横に振り、彼女のコートの襟元を優しく直してやった。
「いや、俺たちはここで抜けよう。……行きたい場所があるんだ」
「行きたい場所?」
「ああ。駅前の、静かな喫茶店だ」
不思議そうに首を傾げる陽子の手を取り、俺は居酒屋の扉を開けた。
三十五年前、俺が地獄のような後悔に苛まれたあの喫茶店。
そこで彼女と向かい合い、最後の『答え合わせ』を終わらせるために。
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