第42話(最終回) 初恋リフレイン
最終回です。
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第42話(最終回) 初恋リフレイン
駅前のロータリーから一本路地に入った場所にある、昔ながらの純喫茶。
カラン、と古びた真鍮のドアベルが鳴る音は、三十五年前の俺の記憶とまったく同じだった。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
マスターに案内され、俺たちは窓際の小さなテーブル席に向かい合って座った。
ブレンドコーヒーを二つ注文し、俺はゆっくりと息を吐いて、店内の少し薄暗い、セピア色の空間を見渡した。
一周目の人生。
同窓会の一次会を抜けた後、俺はこの席で陽子と向かい合った。
テーブルを挟んで座る彼女の顔には、長く厳しい現実を一人きりで耐え抜いてきた疲労と、諦めの色が深く刻み込まれていた。高校時代の底抜けに明るかった笑顔はどこにもなく、ただ寂しそうに、すり減った声でぽつりぽつりと自分の不遇な人生を語っていた。
『俺のせいだ』
見栄と保身のために彼女を捨てた、俺の最低な裏切りが、彼女の人生から光を奪ったのだ。
あの夜、この席で彼女の顔を見た瞬間、俺の胸をどうしようもない自己嫌悪と絶望が貫いた。時間を巻き戻してやり直したいと、魂から血を流すように強く願った。
それが、俺のタイムリープの正体だった。
「……健一くん? どうしたの、急に黙り込んじゃって」
ふいに、目の前から温かい声が降ってきた。
ハッとして顔を上げると、カップから立ち上る湯気の向こうで、陽子が小首を傾げてこちらを見つめていた。
「いや……なんでもない」
俺はコーヒーを一口飲み、目の前の『妻』の顔をじっと見つめた。
今日の陽子は、本当に綺麗だ。
目尻には優しげな笑い皺があり、年齢相応の変化はある。だが、その瞳の奥には、一周目のあの夜に見た諦めや孤独の影など微塵も存在しない。
ただ真っ直ぐな愛情と、自分の人生に対する確かな誇り。そして何より、心からの幸福に満ち足りた、底抜けに明るく穏やかな光が宿っていた。
「同窓会、すごく楽しかったね」
陽子は両手でコーヒーカップを包み込み、嬉しそうに目を細めた。
「みんな、外見はおじさんおばさんになってるのに、話すと高校の時のまんまでさ。なんだか不思議な気分だったな。……でもね」
陽子は少しだけ言葉を切ると、カップから手を離し、テーブルの上で俺の右手にそっと自分の左手を重ねてきた。
薬指で、プラチナのリングが静かな輝きを放っている。
「みんなと昔の話をしてて、はっきり分かったの。私、高校の時から今まで、ずっと健一くんに守られて生きてきたんだなって」
「……俺に?」
「うん。桜木町の駅前で待ち合わせした初めてのデートの時も、就職氷河期で私が不安だった時も、子供が生まれて大変だった時も。いつだって健一くんは、絶対に私の手を離さなかった。……健一くんのお嫁さんになれて、私、本当に世界で一番幸せな人生だよ」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の魂の奥底で、三十五年もの間ずっと燻り続けていた『一周目の罪悪感』が、春の雪解けのように完全に溶けて消え去っていくのを感じた。
俺のタイムリープは、俺自身のエゴだったのかもしれない。
時間を巻き戻し、彼女の運命を勝手に書き換えて、俺の隣に縛り付けてしまったのではないか。本当にこれでよかったのかという恐れが、心のどこかにずっとあった。
だが、今、俺の目の前で、これ以上ないほどの笑顔を見せている彼女の姿が、そのすべての答えだった。
俺が人生のすべてを懸けて戦い、選び取ってきたこの道は、決して間違いではなかった。俺はついに、この手で彼女を完全に守り抜いたのだ。
「……俺の方こそ、だよ」
俺は、重ねられた陽子の手を、強く握り返した。
「陽子が隣で笑ってくれていたから、俺は今日まで生きてこれた。俺の人生の一番の幸運は、お前という女に出会えたことだ」
俺の不器用で真っ直ぐな言葉に、五十三歳の彼女は、まるで高校生のあの頃と全く同じ、花がほころぶような最高の笑顔を見せた。
その笑顔を見た瞬間、俺の二度目の人生に課せられた使命は、すべて終わりを告げたのだと確信した。
それから三十分ほど他愛のない会話を楽しみ、俺たちは喫茶店を出た。
店を一歩出ると、冬の冷たい夜風が頬を刺した。
だが、俺たちの間には、どんな寒さも寄せ付けない確かな熱があった。
「帰ろうか、陽子」
「うん」
俺が右手を差し出すと、陽子は迷うことなくその手を握り返してきた。
五十代のオヤジとおばさんが、街中で手を繋いで歩くなんて、周りから見れば滑稽かもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
俺たちの繋いだ手には、シルバー、ゴールド、そしてプラチナと、三十二年間積み上げてきた何よりも尊い歴史が刻まれているのだから。
冬の澄んだ夜空の下、並木道を二人で歩き出す。
高校二年生の時から始まった、俺たちの長く愛おしい物語は、五十三歳という一つの特異点を越え、さらにその先の未来へと続いていく。
過去への後悔は、もう何一つない。
これからの人生は、ただ目の前にいる愛する妻と共に、ゆっくりと、温かく歳を重ねていくだけだ。
「ねえ、健一くん」
「ん?」
「おじいちゃんとおばあちゃんになっても、こうしてずっと手、繋いで歩こうね」
「ああ。俺が死ぬまで、絶対にお前の手は離さないよ」
冬の澄んだ空気に、二人の白い息が溶けていく。
繋いだ手から伝わる確かな温もりだけが、俺の人生のすべてだった。
最低な別れ方をしたはずの俺たちの初恋は、三十五年の時を超えて、今度こそ、決して終わることのない永遠になったのだ。
完
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