第40話 五十三歳の現在、再び東京タワーの下で
第40話 五十三歳の現在、再び東京タワーの下で
週末の土曜日。
明日に控えた高校の同窓会を前に、俺は陽子を久しぶりのデートに誘い出していた。
子供たちが巣立ってからというもの、夫婦二人で出かける機会は格段に増えたが、今日の行き先は俺にとって、そして俺たち夫婦にとって、特別な意味を持つ場所だった。
「わあ……やっぱり、下から見上げるとすごく大きくて綺麗だね」
冬の澄んだ夜空に向かってそびえ立つ、オレンジ色にライトアップされた東京タワー。
芝公園の静かな遊歩道を歩きながら、陽子がタワーを見上げて感嘆の声を漏らす。その横顔は、三十二年前のあの夜と見事に重なり合った。
一九九一年、秋。
日本中が就職氷河期という底知れぬ暗闇に沈んでいこうとしていたあの時。
まだ大学生だった俺は、この東京タワーの足元で、社会人一年目だった陽子にプラチナのリングを贈り、プロポーズをしたのだ。
「陽子、寒くないか?」
俺が尋ねると、陽子は薄手のストールを少しだけ引き寄せながら、「ううん、平気。健一くんが隣にいてくれるから」とふんわり笑った。
五十三歳になった彼女は、落ち着いたベージュのコートを上品に着こなし、その手にはあの日贈ったプラチナのリングが今も変わらずに光っている。
俺たちは、三十二年前と同じように、タワーの光が届く人影の少ないベンチを探して腰を下ろした。
近くの自動販売機で買ってきた、温かい缶のミルクティーを二つ。それも、あの夜と全く同じだ。
「……なんだか、本当にあの頃に戻ったみたいだね」
陽子が両手でミルクティーの缶を包み込みながら、懐かしそうに目を細めた。
「あの夜、健一くんが突然青いベルベットの箱を取り出して……私、びっくりしすぎて心臓が止まるかと思ったんだよ」
「ははっ、俺だって心臓バクバクだったよ。もし断られたら、そのまま東京タワーから飛び降りなきゃならないくらい、人生懸けてたからな」
俺が冗談めかして言うと、陽子は「もう、そんなこと言うわけないじゃない」と笑い、そして少しだけ真面目な顔になって、タワーのオレンジ色の光を見つめた。
「……あの頃は、世の中がどんどん不景気になっていって、テレビをつければ暗いニュースばっかりで。これから私たちの生活はどうなっちゃうんだろうって、本当はすごく不安だったの」
陽子の静かな声が、夜風に溶けていく。
「でもね、この場所で健一くんが『俺が絶対に幸せにする』って言ってくれた時……私の中の不安が、全部スッと消えちゃったんだ。健一くんがいれば、絶対に大丈夫だって。……そして健一くんは、本当にその約束を、今日までずっと守り続けてくれた」
陽子はベンチの上で、俺の右手に自分の左手をそっと重ねてきた。
「バブルが弾けても、就職氷河期でも、大変な時はいっぱいあったはずなのに。健一くんはいつだって私の前を歩いて、私と子供たちを大きな壁みたいに守ってくれた。……健一くんのお嫁さんになれて、私、本当に幸せな人生だったよ」
その真っ直ぐな感謝の言葉に、俺は胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
(……違うんだよ、陽子)
守ってきたのは、俺だけじゃない。
一周目の人生で、自分の弱さと身勝手さからお前とのすれ違いから逃げ出し、別の女と結婚した俺。バブル崩壊と共に会社の看板も収入も失い、見栄と打算でくっついた妻にもあっさりと見捨てられ、空っぽで惨めな五十代を迎えていた。
そんな俺が、二度目の人生で必死に這い上がり、幾多の激務の夜を乗り越えられたのは、いつだって陽子が俺を信じ、温かい飯を作り、隣で笑っていてくれたからだ。
「俺の方こそ……陽子に、救われてばっかりだった」
俺は重ねられた彼女の手を、両手でしっかりと包み込んだ。
「陽子がいてくれなかったら、俺の人生はきっと、中身のない、空っぽで寂しいものになってた。俺を本当の意味で『大人』にしてくれたのは、陽子なんだよ」
一周目の人生の記憶がない彼女には、俺のこの言葉の『本当の重み』は伝わらないかもしれない。
だが、陽子は何かを察したように優しく微笑み、俺の肩にコツンと頭を預けてきた。
「……ふふっ。私たち、お互いに救われて、お互いに守り合ってきたんだね。それって、すごく素敵な夫婦じゃない?」
「ああ。最高の夫婦だ」
冷たい夜風が、二人の間を優しく吹き抜けていく。
三十二年前のあの夜、未来への不安と、それを打ち破るための若き覚悟に満ちていたこの場所で。
今、俺たちは五十三歳になり、すべてを乗り越えた確かな安堵と、決して揺らぐことのない絶対的な絆と共に座っている。
「……明日は、いよいよ同窓会だな」
俺がポツリとこぼすと、陽子は「うん」と頷いた。
「高校の同窓会なんて、卒業して以来だもんね。みんな、私のこと覚えててくれるかなぁ。おばさんになったねって笑われないか、ちょっと心配かも」
「馬鹿言え。明日の同窓会で、お前が一番綺麗に決まってる。俺が保証するよ」
「もうっ。健一くんはいつもそうやって大袈裟に褒めるんだから」
陽子は照れ隠しのように俺の腕を軽く叩き、楽しそうに笑い声を上げた。
一周目の人生において、明日に控えた五十三歳の同窓会こそが、俺のすべての後悔の行き着く先であり、時間が巻き戻った『運命の起点』だった。
都内の居酒屋での一次会を終え、駅前の静かな喫茶店で陽子と向かい合ったあの時。
俺の最低な裏切りのせいで、かつての底抜けに明るかった輝きを失い、長く冷たい現実にすり減らされた彼女の寂しげな笑顔。
それを見た瞬間、三十年以上も蓋をしてきた自分の醜い過去への強烈な自己嫌悪と、狂おしいほどの後悔が溢れ出し――気づけば俺は、高校二年生のあの日へとタイムリープしていたのだ。
だが、明日は違う。
俺の隣には、プラチナのリングを光らせた、世界で一番愛する妻がいるのだ。
過去の幻影に怯える必要など、もう微塵もない。
「そろそろ、帰ろうか。明日も早いしな」
俺が立ち上がって手を差し出すと、陽子は「うん」と頷き、その手をしっかりと握り返してきた。
ライトアップされた東京タワーを背に、俺たちはゆっくりと歩き出す。
手と手を繋ぎ、同じ歩幅で、同じ家に帰る。
あの日の喫茶店での絶望を完全に上書きするための『答え合わせ』に向けて、俺は静かに、そして力強く胸を張った。
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