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ハエ退治

 私は、怪異対策組織の中では異端な存在だった。



 笹井家は代々退魔の力を持つ巫女の家系で、私の母も、祖母も、曾祖母も、魔を祓う巫女として組織に在籍していた。

 退魔の力とは言っても、その力は多岐にわたる。

 ある種の結界、聖域を作る能力を持った母。

 式神を操り、悪霊や怪異を探知することに長けていた祖母。

 自らの身に神通力を込めることで直接怪異と戦う力を持っていた曾祖母。

 どれもが怪異対策組織でも強力な能力とされ、大きな作戦を決行するときには必ずといって呼ばれる家柄だった。



 そして私に宿った能力は──自身に限定された神域。

 要するに、どんな怪異の力も私には通用せず、私は怪異への対抗手段は持っていないということだ。



 怪異対策組織への加入の条件は、非常にシンプルだ。

 最低限、最下級とされる浮遊霊の除霊が出来れば、組織への加入は出来る。

 ただ、浮遊霊を追い払う程度の能力しかない私では、単独での仕事は与えられなかった。



 そこで私の相方として選ばれたのが、いま私の隣にいる成神だった。



 腐蠅は、私が見てきた怪異──精々が凶悪な部類の地縛霊程度だが──とは一線を画す強大な気を放っている。

 それでも成神は一切気にしたふうもなく、堂々と腐蠅……黒髪の女を見ていた。

 彼はいつも身に付けている手袋をジーンズのポケットに捩じ込み、こちらを一瞥もせずに口を開く。



「笹井は離れていて。腐蠅はいとも容易く君の命を刈りとるよ」



「大丈夫よ、私には怪異の力は通じない」



 それだけが取り柄の力だから、と続くことはなかった。

 私が言葉を呑み込んだのではない。

 成神が、真紅に染まった瞳で私を睨みつけたからだった。



「なら言い方を変えよう。……邪魔だ」



 冷たい眼だった。

 燃えるような真紅の視線は、私の身体を貫いて地面に縫い止める。

 必死に走り出そうとしても、彼に怯える両膝は小さな震えを繰り返すばかりで、そこから退くことも出来なかった。



 そんな私の様子を汲み取ったのか、成神が聞こえるギリギリの舌打ちをした。

 瞬間、私は全身の力が抜ける。

 一体何が起きたのか、そうやって戸惑っていたのはほんの一瞬のことだ。



「あ、くま……」



 伝承にあるように、大きな山羊の頭なんて持っていない。

 その出で立ちこそ漆黒のローブと、現代ではほぼ見られないものではあるが、体格は成神と似ていてほっそりとした青年のようだ。

 異様と言えるのは、顔の上半分だけを覆うように着けられた紅い複眼の仮面だけだった。



 それでも、いや、だからこそ、私は仮面の存在を、成神の横に並ぶようにして佇むその存在を、悪魔だと断じる。

 怪異には触れることすら出来ないはずの私の神域を無意味とさえ思わせる、禍々しい邪気。

 その存在を形容する名前を、私は悪魔以外に知らなかった。



「なんだ、相棒。久々に呼んだと思えば、また怪異かい?」



「ベル。僕が君を呼ぶのは怪異と対峙するときだけだと、何度言えば分かる」



「何度言っても分かんね。オレっちの力さえあればこんな小さな島国くらい、あっという間に支配できるのによぉ」



 まるで目の前の腐蠅が見えていないかのような、日常を思わせる口調。

 ベルと呼ばれた悪魔はべったりと成神に擦り寄り、軽薄な笑みに唇を歪めた。



「アナタ、だれ? そこノ彼のオ友だちカしら?」



 悍ましい羽音が鳴り、腐蠅の言葉が私の耳に届けられる。

 言語として成り立っていないはずの蝿の羽音が人間の言葉のように聞こえるという感覚は、足下から大量の蟲が這い上がってくるような嫌悪感を与えた。

 背中が一気に粟立つ。



「こいつが今回の怪異かい? こりゃオレっちを呼んで正解だったぜ。相棒だけじゃあ、そこの娘っこを護りながら倒すなんて無謀だろうからな」



「彼女は護らなくていい。怪異の力を拒絶する能力らしい」



「へえ、珍しい」



 持ち上がった口角を隠そうともせず、興味に満ちた視線をこちらへ向ける。

 その視線が舐め回すように全身を這い回り、熱い胃液がすんでのところまで込み上げてきた。

 駄目だ、吐く……そう確信したのと同時、悪魔の目は腐蠅のほうへ向けられる。

 すんでのところで嘔吐は免れた。



「ハなしは終っタ?」



「ああ、待たせてごめんね。今すぐに殺してあげるよ」



「まァ、うれしいこと」



 腐蠅と悪魔の視線が交錯する。

 しかしそれも一瞬のことだった。



 悪魔も、成神も、そしてもちろん私も、腐蠅の後ろの影から目が離せなくなった。

 大きな大きな、本当に山でも呑み込んでしまいそうな、巨大な影だった。

 ……それがただの蝿の大群だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。



「ぉ、ぉえええぇぇぇええ」



 気付けば、私は昼食をぶちまけていた。

 胸を掻き毟りたくなる。

 胃の中にはもう何も残ってはいないのに、吐き出す何かを求めて身体が胃液を吐き出した。



 目尻に涙が浮かび、喉が胃液で焼ける。

 痛いとか、苦しいとか、そういう次元の話ではなく……ただ嫌悪感だけが胸を押し潰した。



「あら、汚い」



 腐蠅の窪んだ眼窩から蛆虫が這い出てくる。

 蝿が飛び回る口腔から侮蔑の言葉が零れても、それに対応する余裕は私にはなかった。



「娘っこには刺激が強いかぁ」からからと笑う悪魔。「じゃ、さっさと片付けることにしよう」



 見たことも無い冷たい目で腐蠅を見る成神が、小さく頷いた。

 それに応じるように、悪魔の姿が掻き消える。




 ここから先は、私が見た光景ではなく、後で成神から教えられたものだ。

 身体を鍛えることなどしたこともない巫女の末裔では、悪魔の戦いを視ることなど出来ないのだから、当然と言えば当然だが。


 もちろん、彼が事実とは異なることを話した可能性はある。

 だが少なくとも、私の見た残像とも呼べない軌跡よりはましなはずだ。



「おー……らっ!」



 悪魔はまず腐蠅の後ろに現れ、思い切りこめかみを撃ち抜いたらしい。

 人間を遥かに凌駕する腕力を受けて首の骨がへし折れ、捻じ曲がった首は完全に真横を向いた。



 並大抵の……いや、人間なら即死、よくて数秒の猶予を与えられる程度。

 それでも腐蠅は人間ではない。

 もう到底動けそうもない状態にも関わらず、地面を這うようなところからのアッパーで悪魔を迎撃する。



 悪魔は跳ね上がってきた拳をしっかりと見て躱し……そして頬から血が流れた。

 確実に避けたはず。

 それでも悪魔が血を流したのは、腐蠅の指先から鋭い刃が伸びていたからだった。

 長い爪の隙間から伸びる──蝿の刃が悪魔の頬を切り裂いたのだ。



 蝿というのは、複眼によって超高速で流れる世界を完全に把握することが出来る。

 それはたとえば人間に叩かれるときに発揮され、人間の武器──手であったり、紙であったり──を回避する。



 しかし、動体視力が優れているということは、それだけ高速で動けるということだ。

 ただの蝿でさえ、人間では捉えられないほど速く動く。

 ──それが戦国から蔓延る怪異なら、その速さは言うまでもない。



 頬を切られて驚く悪魔を横目に、腐蠅は大きく後ろへ跳んで距離を取った。

 それと同時に四方から隕石を思わせる弾丸が飛ぶ。

 弾丸とは、すなわち蝿。

 腐蠅は自身の配下たる蝿を操り、捨て駒として、弾丸として悪魔へと攻撃したのだった。



 しかし、それでも。



「足りない、な」



 成神でさえ悪魔の死を覚悟し、そして不敵に笑う悪魔によってその覚悟は無駄となった。

 簡単に言うなら、悪魔は腕を一薙ぎしただけなのだろう。

 だがその一撃は暴風を引き起こし、蝿を散らした。



 そこから先は、言うなれば蹂躙。

 腐蠅が飛ばした弾丸は腕を振る度に消し飛び、悪魔が一歩踏み出せば大地が揺れて腐蠅の動きを妨げる。

 拳が腐蠅自身に当たればヒトだったはずの肉体が撒き散らされ、当たらずとも掠れば身体から湧く蛆が飛んだ。



 結局、私がその戦いを見ることは出来なかった。

 たった十秒ほどの戦闘は終わり、後には茶髪に戻った女と悠然と佇む悪魔が残る。

 悪魔の手には並のものよりはいくらか大きい蝿が、羽をもがれていた。



「私は、負けたの……?」



「そうだよ。お嬢ちゃんは負けたのさ」



 呆然とする女の前で、悪魔は蝿を握り潰した。

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