コウ渉
「さて、お嬢ちゃんは負けたわけだが……蝿以外に、奥の手はあるのかい?」
悪魔──ベルゼブブの言葉はあくまで気安く、気軽で、友人のように優しげなものだったが、だからこそ、仮面越しに冷徹な紅の眼が酷く鋭く女を刺す。
表情も、口調も、何もかもが笑顔であるにも関わらず、その視線だけはどこまでも冷たかった。
ただ呆然と座り込んだ叶多の眼は信じられないものを見たように見開かれ、うわ言のように「嘘……嘘だ……」と繰り返している。
どこか遠くを見ているような彼女に、自身を見下ろす仮面の悪魔の声が届いているかは疑わしかった。
それを見たベルゼブブは、僕のほうを振り返って肩を竦める。
「茫然自失、ってやつかねぇ。ま、他に怪異の匂いはしねぇが……」
「……分かってるよ。使役の力がある以上、これから怪異を使役する可能性は残されている」
怪異を使役する能力を知られたくない僕にとって、叶多は非常に厄介な存在だった。
何人もの人間を殺した彼女を組織に連れて行かなければ、僕が彼女のことを隠していることは組織に知られてしまう。
怪異に操られていたから解放した、と言ったところで、組織には『嘘を見抜く』能力者もいるから、結局は知られるだろう。
それに、これから怪異を使役しないとも限らないのに、解放するわけにもいかなかった。
どう考えても、叶多を組織に連れていかない選択肢はない。
正確には、彼女を『殺す』という選択がないわけではないけれど、その手段は怪異を使役する僕が人間であるために、極力選ぶわけにはいかなかった。
僕はちらりと、叶多とは反対のほうで同じように座り込んだ笹井に目をやる。
彼女は恐怖から腰が抜けたようではあったが、別段、意識がないとか、そういうわけではないようだった。
ベルゼブブを手招きし、彼女を連れてくるように耳打ちした。
「な、なに? 勝手に触れないでよ」
「気にしないでくれ。別にオレっちも触りたくて触ってるわけじゃないからなぁ」
「……それはそれで失礼じゃない?」
笹井が少々ごねたが、結局はベルゼブブが首根っこを掴んで持ち上げる。
悪魔の膂力で運ばれる笹井は、その金色の髪や大きな碧眼のせいか、大きな猫のようにも見えた。
ベルゼブブにとってはこのくらい朝飯前で、たった数秒で笹井は僕の目の前に下ろされる。
「それで、叶多のことなんだけど」
僕が切り出すと、笹井は目を細めて真剣な表情になる。
彼女は決して賢くはないが、それでも僕の事情を察することが出来ないほど無能でもない。
叶多という存在が僕にとって邪魔なのだと言うことは、なんとなく察しているだろう。
「報告書は僕が書く。君はその通りに報告してくれればいい。叶多のことについて、腐蠅のことについて、何も話さないでくれ。ただ淡々と報告書を読めばいい」
「…………わかったわ」
彼女の返答は、意外と言うほかなかった。
笹井が説得に応じない可能性を考えていたが、それは杞憂だったかもしれない。
「やけに素直だな」
「貴方と、取引をしたいと思って」
「取引……?」
嫌な予感、というよりも、確信があって、眉を顰める。
笹井から話を持ち掛けてきてろくなことになった試しがない。
だから僕は身構え、笹井の発言を待った。
「報告書はあんたが書く通りに報告するから、代わりにあんたの──」




