怪イとの邂逅
瞼を下ろしたような暗闇の山道に、いくつかの街灯が並ぶ。
木々の隙間から射し込む光だけを道しるべにして、中肉中背の中年男性──結城が歩いていた。
結城の足取りは重い。
今夜は結城が自主退職にまで追い込んだ部下に呼ばれていて、ここに足を運んだ。
彼女が職場にいたときに結城がやっていたことを思うと、会うことは面倒以外の何ものでもなく、もう何度目か分からない溜め息を吐く。
だが、裁判を仄めかされれば行かない訳にもいかない。
道のりはあとどのくらいだろうか、と首を傾げた。
彼女には歩いて来るように言われていたが、こんなに長いならタクシーで来るなりすればよかったかもしれない。
一時間ほど酷使し続けている革靴は、不満を訴えて足首に痛みを与えた。
疲労からか、それとも痛みからか、結城の額には汗が滲んでいる。
「まだか……まだ着かないのか……」
それは独り言だった。
結城は一人で歩いているのだから、当然と言えば当然だ。
そこには自分しかいないのに、他の誰かに話しかけるはずもない。
だから、返事なんてものは想定外だった。
「そろそろ終わりにしてやろうか?」
結城の全身が粟立ち、背中を濡らしていた汗が肌を凍らせた錯覚に陥る。
羽音のような気味の悪い不快な音で、しかし、言葉の意味だけがすっと頭に入ってきた。
そして一瞬遅れて、「ひっ」と短い悲鳴をあげて振り返る。
今までに体験したことのない恐怖を前にして、結城の体は成人してから最も俊敏な反応を見せた。
そこにはただ静寂と暗闇がある。
想像したような、人を喰らう化け物の姿はなかった。
結城の心臓が激しく脈動し、無理矢理血液を通した血管が微かに痛む。
ふと、後ろから声が掛けられた。
「あら、結城さんじゃないですか。どうしたんですか、そんなに怯えて」
また肩を跳ねさせて振り返ると、そこにはいつの間にか黒髪の女が立っていた。
女はやけに楽しそうに口角を持ち上げていて、異様に目が蒼く輝いているように見える。
「だだだ、誰だね、君は」
結城が絞り出せたのはそれだけだった。
強ばった頬が邪魔をして、必死に出した声は裏返っている。
しかし、そんなことを気にしている余裕は、もはや結城にはなかった。
若干パニックに陥ってしまっている結城の顔を楽しそうに眺めていた女は、くすくすと笑う。
いい歳をしたオヤジを怖がらせて何がしたいのか、結城には思いつかなかった。
自分がどうしてここにいるのかすら、既に頭から抜け落ちている。
結城の頭には、目の前の女と先ほどの羽音しかなかった。
女は口角の上がった唇に手を当てて隠し、煽るようにわざとらしく泣き真似をする。
「あらあら、もう私の顔を忘れたんですか……? 悲しいわ……」
「忘れただと? き、君は私と、会ったことがあるのか? ……いやまて、その声……」
女に問い詰めようとして、ふと、結城がここまで来た理由を思い出した。
よく見てみると、髪が黒くなっていて腰まで伸びているが、それ以外は退職した部下そのものだった。
彼女はこんなに明るい性格だっただろうかという疑問は思考の隅に置いて、掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄る。
「今日はいったい何の用なんだ。それに、さっき聞こえた羽音みたいな声はなんなんだ。いつの間にそこにいた? 君の目的はなんだ?」
「落ち着いてくださいな。質問はひとつずつ、ですよ」
そう言われてから、自分がパニックに陥っていたことを自覚した。
大きく深呼吸をして気持ちを鎮める。
大丈夫だ、もう落ち着いて話すことが出来る、と判断してから彼女にもう一度向き合った。
上手く声が出せるように、咳払いをする。
「ん、んん。そ、それで、今日は何の用だね?」
「ふふ……用というか、結城さんにお礼でもしようかと思ったんですよ」
「……お礼……?」
結城が怪訝に思って眉を顰めると、僅かに濡れた彼女の唇がより一層艶やかに歪んだ。
妙に蠱惑的なしぐさに、蛇に睨まれた蛙にも似た寒気を感じる。
正直なところ、結城は彼女に礼などされる立場ではなく、むしろ復讐されてもおかしくないことをしてきた。
それこそ結城の横暴な態度で彼女は疲弊し、適当に押し付けた仕事で徹夜が続き、いつしか限界を迎えて退職したのだ。
だから彼女の言葉に違和感を覚えた。
「ええ、お礼ですよ」
彼女は口角をこれでもかと持ち上げ、唇で三日月を描く。
結城はそれを気味悪く思いはしたものの、先ほどの恐怖がじわじわと胸に込み上げてきて、それ以上言うことは出来なかった。
「ならさっきの羽音みたいな声はなんなんだっ。明らかに人間の声ではなかっただろう!」
「羽音みたいな声、ですか……私には何の事だかさっぱり……」
とぼけるな、と声を荒らげるが、その先は呑み込んだ。
怒りは恐怖と同じくらいには思考の妨げとなるものであり、いまはどちらも抑えるべきだと判断したのか。
いや、決してそうではなかった。
結城の声を奪ったのは、たった今まで話していたはずの元同僚であり、気味の悪い蠅が、蛆が、服の下から湧き出てきたナニカだった。
ひゅっ、と肺が痙攣したように空気が吸い込まれたことを、音が立ってから気付く。
それは完全に無意識で、結城にはナニカ以外のことを考える余裕すらない。
思わず後ずさると、力の入らなくなった腰が折れて後ろに倒れ込んだ。
砂利の中に尖った石が混じっていたのか、地面に着いた手に鋭い痛みが走り、舌打ちが漏れた。
「あらあら、そう逃げないでくださいよ。これでも減らした方なんですよ?」
彼女が何を言っているのか、理解出来なかった。
結城に分かったのは、目の前のナニカは、もはや自身の知っている女性ではないということだけだ。
そしてそれは、今の結城にとっては何ら意味のないものであった。
ナニカの手が伸びてくる。
不快感を煽る羽音は、手と共に近付いてきた。
ナニカからは視線を外さないように、地面を這いずって後ろのほうへ、先ほど自分が歩いてきたほうへ逃げる。
酷く緩慢な動きで近付いてくるナニカの手は、強烈な悪臭を放ってきて、何の臭いなのかすら分からない臭いに吐き気を催す。
食道を焼き尽くすように、胃液が込み上げてくるのが分かった。
「恐怖に歪んだそのカヲが見たかったんです。ただ殺すだけじゃ、モノタリナイですし──……?」
ふと、ナニカは言葉を切った。
続く言葉はなく、視線を後ろに向ける。
釣られるようにそちらを見ると、そこにはふたりの男女がいた。
ひとりは黒髪黒目の青年で、Tシャツにジーンズという簡素な格好で立っている。
手袋を着けている以外は、そこらにいる若者と何ら変わりない、ごく普通の青年だった。
もうひとりの女は金髪だった。
それが地毛なのか、それとも染めているのかは定かではない。
整った顔立ちで、やや日本人離れしているから、もしかするとハーフなのかもしれなかった。
「ほら、言ったでしょう」金髪の女は呆れたように男に言った。「あの女はどう見ても怪しい。……あんたが気付いてないわけもないでしょう? ただ、目を逸らしていただけのはずよ」
「……彼女の力が露見することは、僕にとって不都合なんだ」
男の返答に、女は怪訝そうに片眉を持ち上げる。
だが考えることを諦めたのか視線をナニカへと移すと、男は右手の手袋を取り去った。
「彼女の力は、僕の力と同類なんだ。組織に危険視されないために……僕は、力を隠す必要がある」
だけど。
「ここで見逃せば、それこそ僕の責任問題になってしまうだろうね」
だから……と続いたはずの言葉は、風に攫われて結城の耳に届くことはなかった。
それでも、彼の眼が赫く染まったことは、しっかりと見えた。
結城の背中に悪寒が走ったのは、いったいどうしてだったのだろうか。
自分に背中を向けたナニカが、獰猛な笑みを浮かべたような気がした。




