過コの記憶
「またミスしてるぞ! 時間がないんだ、今すぐやり直せ!」
「は、はいっ、すみません!」
オフィスに怒号と、女性社員の謝罪が響いた。
カタカタとキーボードを叩く音、紙をめくる音、固定電話が時々鳴り、打ち合わせの声が聞こえる。
そんなごく普通の中小企業のオフィスには、似つかわしくない叫びだった。
怒鳴ったのは、このオフィスの長である結城だ。
中肉中背で、やや人並みよりも広い額を持った普通の中年男性だった。
女性社員を怒鳴り、手に持っていた資料を投げつけた結城は、憤慨した様子で荒々しく椅子に座る。
一方、怒鳴られた女性社員のほうは深々と頭を下げ、逃げるようにして自分の席へ戻っていった。
女性社員は叶多空という。
結城から毎日のように怒鳴られ、仕事を押し付けられ、疲労困憊していることはオフィスの誰もが知っていることだった。
「大変だったね」
結城のほうを様子見しながら、気付かれないように同僚の男が言う。
当の本人である叶多は疲れた顔を無理に笑みに変えて答えた。
「……仕方ないです。私が……仕事出来ないのが、悪いんですから」
可哀想だ、と多くの同僚が彼女を憐れんでいる。
叶多は人よりも少しだけ物覚えが悪いが、仕事が出来ないわけではない。
むしろ丁寧な仕事をしていて、ちゃんと余裕のあるスケジュールを立てていれば優秀な部類に入るだろう。
彼女が怒鳴られるのは、結城が彼女を怒鳴るために余裕のない仕事ばかりを回しているからだった。
それでも、彼女を庇えば次は我が身だ。
結城のパワハラのせいで、何人も会社を辞めていることが、その意識に拍車をかけていた。
「あ、そうだ。叶多さん、これどうぞ」
「……え、あ、ありがとう……ございます……」
同僚は先ほど叶多が呼び出された頃に買っておいた缶コーヒーを渡した。
叶多は戸惑いつつも、礼を言って受け取る。
これはただ罪悪感を誤魔化すための優しさに過ぎず、自己満足以上の意味は持っていなかった。
───
それからしばらくして、叶多は退職届けを出した。
その際にも結城は怒鳴り散らしたが、彼女と一緒に来ていた弁護士に窘められては何も言えない。
叶多のことを低く見ているから嫌がらせ出来るのであって、社会での自身の無力さは理解しているのだ。
弁護士は結城に「退職を認めないことは出来ませんよ。今までの行いを振り返ってみてはいかがですか?」と言った。
結城は何も言い返さなかったが、赤く染まった顔がその怒りを表していた。
他の社員からすると、怒るべきなのは叶多だ。
結城が怒りを感じることはおかしいことだと分かっていた。
しかし、いま下手に口を出してしまっては、明日から自分を標的にしてくれと言っているようなものだ。
理不尽なことだろうと、自ら面倒なことに首を突っ込むことはしない。
そんなことを言えないほどに、社員は衰弱していた。
「じゃ、じゃあ……私はこれで……」
いつも通りの小さな声で彼女は言った。
その姿は、今までのように内気な仕草で、か弱い小動物のようだった。
弁護士と共に退職届けを提出したとは思えない。
カッカッ、とヒールの音を響かせる叶多の目は、仄かに赤く染まっていた。




