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蠅のバケ物

 日を跨いですぐの駅のホームのベンチで、女がぐったりと横になっていた。

 明らかに仕事帰りだろうスーツ姿で倒れているのは、彼女を含めて三人。

 そのどれもが、一筋縄では起きてくれそうもない酔っ払いばかりで、駅員は顔を見合わせて嘆息(たんそく)している。



 この駅の終電は深夜0時丁度に出発した。

 つまり始発が出るまで、迷惑な酔っ払いたちは電車で帰ることは出来ないのだ。

 自己責任だとか、自業自得だとか、彼女らを見捨てる言葉はいくつも浮ぶ。

 それでも朝になって死体が並んでいる恐れを思うと、駅員たちに見捨てるという判断は出来なかった。

 駅員のひとりが一番端の中年の男の肩を揺する。



「お客さん、お客さん。もう終電は出ちゃってますよ。お客さーん」



 何度も懸命に呼び掛けるが、男は小さく呻くばかりだった。

 帰ってくれるどころか起きる気配すらない。

 駅員はこの男を起こすことは一旦後回しにして、次の酔っ払いの元に近付いた。



 隣のベンチを見ると、そこにいたのは女だ。

 手を枕代わりにしていて顔はイマイチはっきりとは確認出来ないが、しっかりと手入れされ、腰ほどまでも伸ばされた黒髪はなかなか綺麗だった。

 駅員は先ほどの男と同じように揺する。

 すると、こちらは少し起きそうに感じられ、駅員はここぞとばかりに声を掛けた。



「ほら、お客さん。もう終電は出てますよ、起きてください」



「ぅうん……まだ眠い……」



「風邪引いちゃいますよ、起きてくださいってば」



「ん……」



 駅員の丁寧な声掛けがあってか、女は数回目の声掛けで体を起こした。

 まだ目元を擦っているし、その動作からも彼女がまだ寝惚けていることは確かだが、それでも起きてくれただけマシだ。

 肩に手を添えて彼女の動きをサポートすると、駅員はベンチの傍に座り込んで目を合わせる。



「眠いでしょうけどね、もう終電出ちゃってますよ? こんなところで寝ていたら風邪引いちゃいますって」



「たしかに」ぼんやりとした頭でも理解できたのか、頷く。「でも、私には帰るところなんてないからー」



 女の口調はやけに明るかった。

 しかしそれはどちらかと言うと、明るいというよりも自棄(やけ)という言葉のほうが近いかもしれない。

 少なくとも、駅員は一種の自殺志願者のような楽観を、彼女に感じた。



「酔いすぎですよ。ほら、どうやって帰りますか? タクシー呼びます?」



 駅員が肩を貸して立とうとするが、女はそれを拒む。

 覗き込むと、大きな瞳の不機嫌そうな顔が頬を膨らませていた。



「だーかーらー。私は帰れないのー」



 何を言ってもその一点張りで、一向に帰ろうとはしない。

 駅員は困り、とりあえず他の駅員の元へ戻って応援を頼むことにした。



 その駅にいる駅員は、常に三人だ。

 それほど規模の大きい駅ではないものの、今もいる三人のような酔っ払いがよく現れるということで、駅の規模よりも多めに常駐している。

 女性に声を掛けたのは若い男性駅員で、他には中年の男性駅員、それにその中間ほどの年齢の女性駅員がいた。

 女のことは女に、若い駅員は先輩の女性駅員へ声を掛ける。



「根岸さん、あの女性どうにかしてくださいよ」



「どうにかって言ったって……」



 言葉が途絶え、根岸の視線は酔っ払いへと向けられる。

 明らかな面倒事を前にして、彼女は嫌がって表情を歪めた。

 元々、根岸は酔っ払いの相手をするような面倒な仕事を嫌っている。

 人は誰しも楽をして生きていたいと考えるものだが、根岸のそれは他の者に比べて顕著だった。

 そして、今まで生きてきた三十数年の経験が、明らかにあの酔っ払いがおかしいと感じている。

 仕事でなければ、一切関わりたくもない人間だったが、そういうわけにもいかず、ため息とともに立ち上がった。



「じゃあ私があの女性を起こすから、矢野も他の酔っ払いを起こしておいてくれる? 池中さんもお願いします」



「了解しました」「任しといて」



 根岸はホームの中央のベンチに横たわる女を見てため息を吐く。

 気分は、たった数メートルの距離に比例して落ち込んだ。



「ほら、起きてください、お客さん」



 女の肩を揺すると、女はまた先ほどの眠そうで、不機嫌な目を向けてくる。

 根岸からすると不機嫌になりたいのは自分の方なのだが、客、それもタチの悪そうな酔っ払いに絡む元気はなかった。

 作り慣れた笑みを顔に貼り付けて続ける。



「こんなところで寝てると風邪引きますよ。ほら、肩でもなんでも貸しますから。起きてくださいよ」



「いーやーでーすー。私には帰る家なんてないんですー。いいから寝かせてよー。どうせ風邪なんて引かないからさー」



「そういうわけにもいかないんですよ。起きてください」



「はあ……」



 女は大きなため息を吐いた。

 自分が何を言っても納得してくれない根岸に対する呆れか、怠さがため息から感じられた。

 むしろため息を吐きたい側の根岸は、引き攣りそうになる頬を無理に押さえつけた。



 どれだけ面倒であろうと、理不尽であろうと、早く帰ってくれれば問題はないのだ。

 帰るのが早ければ早いほど、根岸は早く帰って大好きなベッドに身を埋めることが出来る。

 だから、怠そうにしながらも腰を浮かせた女に、早く帰れと心の中で大合唱しながら笑顔を向けた。



「仕方ないなあ」



 そう言って女が体を起こした瞬間、根岸の口角は自然と持ち上がった。

 僅かな喜びと安堵が、音もなく胸の内を満たす。



 その穏やかな気持ちは一瞬にして消え失せた。



「はい、あーん」



 女が口を開けると同時に、根岸もつられて口を開いた。

 自分は何をしているんだろうとか、口を閉じようとか、そんなことを考える暇もなく、女の手が口を塞ぐ。



 ブゥゥゥゥン、と。

 全身が粟立つ感覚がした。

 体内で(・・・)羽音が聞こえるという異常事態に、根岸の胃から熱い酸が込み上げてくる。

 ただただ、気持ち悪かった。



「!! んんー! んー!」



 喉から絞り出した声は女の手によって遮られる。

 立ち上がって暴れようとしても、先ほどまで女が座っていたところへ押さえつけられて動けない。

 女の細腕からは想像もつかないくらい強い力で、根岸は拘束されていた。



「本当ならば」根岸の叫び声を押し潰した女は、それまでの人間らしい声とは真反対の、羽音のような不快感を煽る声で切り出した。「明日の朝にでもヒトを襲おうと思っていたのだがな、どうにも其方らは面倒で仕方がない。纏めて喰らうてくれようぞ」



 女の顔は歪んでいた。

 それは根岸の目に涙が浮かんでいるからなのか、それとも本当に歪んでいるのかは分からない。

 得体の知れないナニカから逃げようとしている根岸にとって、それは些末な問題だ。

 早く逃げなければ、と体を動かす度に、体内の羽音は数を増していた。



 チクリ、と胃が痛んだ気がした。

 気のせいだ、と振り払おうとした瞬間、その痛みは一気に加速する。



「────っ! ────!!」



 胃の痛みは錯覚ではなく、根岸が悶える度に強くなり、他の場所も強烈に痛んだ。

 体内を喰い破られることがあるのならば、こういう痛みなのかも知れないな、と薄れゆく意識の中で思う。

 強烈な吐き気と痛みが体の中を暴れるうちに、根岸の体は力を失った。



 最期の根岸の視界には、巨大な蠅の化け物が映っていた。

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