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Prolog【シ者の部屋】





 太陽の熱い視線が昼を照らしていた。

 黒々としたアスファルトは陽炎の下で揺らめき、全身から吹き出た汗が肌と肌着を無理やりに貼り付けている。

 僕はアパートの一室にいた。



 そこは女性が一人暮らししている部屋で、ほとんど何も無い空間の真ん中に、ぽつりと部屋の主が倒れている。

 女性のそばで、彼女を見下ろすようにして僕は立っていた。

 呼吸の度に蒸し暑い空気が肺を熱して、それよりも遥かに不快で強烈な死臭が部屋に充満している。

 死臭や腐臭に慣れている僕ですら不快に思うのだ、恐らく、並の人ならば数秒も保たずに吐いてしまうだろう。

 そんな環境下でも、僕は仕事のためにじっと遺体を眺めていた。



 女性は仰向けに倒れている。

 化粧で整えられた顔は恐怖で歪み、ところどころに蝿がたかっていた。

 それこそ口からは数匹の蛆が蠢いているのが見えるし、体は不自然に膨れ上がっていた。



 体が膨れること自体は大して異常ではない。

 人の体が分解されるときにガスを発生し、それによって体が膨らむことは多々あるからだ。

 だが、死んでから数時間しか経っていないらしい遺体としては、不自然極まりなかった。



 ガチャ、とドアが開く音がした。

 すぐさま足音が玄関に入り、臭いが外に漏れないように急いで閉める。

 そちらへ目を遣ると、全身をある種の宇宙服にも似たスーツで覆った人物が立っていた。

 胸元には『笹井心菜』と書かれた名札が貼られていた。



「うわ」



 彼女は嫌悪感を隠そうともせず、声音に乗せて言った。

 今はスーツで顔も覆われているから分からないが、多分嫌なものを見たような表情を浮かべているだろうことは、想像に難く無い。



「またスーツも着ずにTシャツ、あとは手袋だけ。それ本当に気持ち悪いし、相当臭うから止めてくれない?」



「辛辣だな。僕からすれば、こんな暑い日にそんな暑い格好をしている君のほうが信じられないよ。暑くないのかい?」



「暑いわ阿呆。それより気持ち悪さが勝つんでしょうが」



 そんなものかね、と小さく呟いた。

 死者のすべてを拒むような過剰な防衛は、僕にとっては冒涜以外のなにものでもない。

 彼女のそれも、僕からすれば冒涜だった。



「それで」それまでの会話をすべて断ち切って、不機嫌さを滲ませた声で彼女が話し始めた。「その人はどうなの? ここにずっといて何も分かりませんでした、なんて、勿論言わないわよね?」



 彼女の高圧的な態度は気に食わないが、逆らったところで何も得られるものなどない。

 これ以上死を冒涜されないように、遺体について気付いたことを掻い摘んで説明する。



「まず、遺体から漂う強烈な死臭。有り得ないほど強いね」



「そうなの? スーツ着てるから分からないけど、あんたが言うくらいだから相当なものね」



 こくりと頷く。

 僕は彼女のように死臭を過剰に拒絶しないが、しかしそれでも不快だ。

 決してたった数時間で放たれるような死臭ではないし、この部屋が暑く腐敗に適した環境だとしても、異様だ。

 けれど、異様なのはそれだけではなかった。



「それに浮腫みも酷い。指先とか、一部だけ腐敗しきっているのも奇妙だし、既に生まれてしまっている蛆というのもね……」



 僕がおかしいと感じた箇所を並べてゆくと、笹井は気持ち悪そうに遺体に目を向けた。

 「それで? 結局、何の仕業なわけ?」と促してくる。

 遺体のそばにあるテーブルの上に置いたメモを手に取り、くるくると弄んでから答えた。



「まあ可能性は幾つかあるけれど……【腐蠅】か【蛆神】のどちらかじゃないかと考えているよ」



「くさりばえ? ……それに、氏神?」



「そう」と一度頷く。「腐蠅っていうのは戦国時代に見られた怪異で、生きたまま人間を腐らせる蠅さ。すごく厄介なんだけれど、まあ、対処法があるだけマシって感じかな」



 へえ、と笹井が片眉を持ち上げて漏らした。

 それはいまいち理解できていない時の癖なのだが、細かい話は報告書でも読めば分かるから省略する。

 次に蛆神のことを話そうとしたところで、笹井が首を傾げた。



「氏神……って、神様じゃないの? それこそ割と良い神様っていうイメージなんだけど」



「多分それは一般的な氏神だね。僕が言っているのは、蛆……というか、蠅の神様だよ。神というのは滅ぼせないからとても厄介で、この事件の犯人が蛆神だった場合、全部組織の上の方の人に任せることになるだろうね」



 彼女はまた片眉を持ち上げた。

 どうしてこんな怪異への理解がない女を組織に入れたのか、上層部へ苛立ちが募る。

 口煩く、怪異の知識もほぼ皆無で、何よりも死を冒涜するような人間は、僕たちの組織には必要ない。

 上からの命令でなければ僕自ら葬るところだ。



 ブゥゥゥン、と不快な羽音が耳元で鳴る。

 蠅だ。

 気持ちの悪い複眼でもって世界を覗く悪鬼の眷属が、いつの間にか部屋中を飛び回っていた。



 僕に向かってきた一匹の蠅を指先で掴み、握り潰す。

 黒い革手袋に蠅の死骸が張り付いた。

 視界の隅で、僕の行動を見た笹井が顔を歪めたのが何となく分かった。

 僕だって蠅を潰したくて潰したわけではないし、彼女にそういう視線を向けられるのも心外なのだが。



 知識のない笹井にはわざわざ説明しないが、腐蠅というのはそう簡単に祓えるような代物ではない。

 腐蠅の対処法は、大きくわけてふたつしかない。

 そのうちのどちらも使えるように、出来るだけ蠅を殺さなければならないというだけの話だ。



 さて、と膝に手を置いて立ち上がる。

 先程よりも随分と騒々しくなった。

 さすがにこれ以上この部屋にいると、遺体への敬意を蠅と笹井への苛立ちが超えてしまいそうだ。



「帰るよ。蠅が逃げないように気をつけてね」



「ん。分かってるわよ」



 本当かなあ、と首を傾げて、玄関へ向かう。

 外には事前に連絡して来てもらっている駆除班がいるはずだから、それと入れ替わりになるような形で退出することになる。

 まずドアが開くことを確認してから、笹井に早く出るように促した。



 蠅には僕たちの後を追う様子は見られない。

 蠅が逃げないうちにドアを閉めた。

 外は爽やかな夏の日そのもので、惨状が繰り広げられていた様子はまったくなく、体に染み付いた死臭だけが彼女の死を教えてくれていた。



「それでは、駆除に入りますね」



 声を掛けられて振り向くと、笹井と同じスーツを着た大柄な男が三人、よく分からない装置を携えて立っていた。




「うん、任せたよ。一匹たりとも残さないで、必ず駆除してね」



「御意」



 先頭の男が僕へと敬礼をすると、そばの二人もそれに倣って敬礼する。

 僕も三人に応えるように敬礼を返し、彼らが用意してくれたらしい白い車に乗り込んだ。

 見た目より、中は広い。

 僕は真っ先に奥のシャワー室へ入ると組織が開発した洗剤で全身を満遍なく洗う。

 これが市販の洗剤では、臭いが薄まることすらないというのだから、人の死臭の強烈さがよく分かる。



 シャワー室を出ると、入口とは反対方向にある出口から出る。

 服は先ほどと同じデザインのものだが、臭いがついていない新品だ。

 新しい布の匂いを肺いっぱいに吸い込んで吐き出すと、死臭のしない空気の美味しさが身にしみる。



 しばらくはこのまま、笹井のシャワーが終わるまで待っていなければならない。

 パートナーというのも面倒なものだ、と不満が吐息に混じって零れる。

 僕はひとりでも大丈夫だと言っているのに、いつも未熟な人間をパートナーにつけられていた。

 教育係なんて、僕に合わないことは分かりきっている。

 それでも仕事を押し付けてくる上司たちに、心底うんざりしていた。



 懐から煙草のケースを取り出す。

 中には数本だけ煙草が入っていた。

 咥えて火をつけると、苦い煙草特有の味が舌を痺れさせる。

 白い煙を空へ吐き出して、騒がしいパートナーのいない自分だけの時間を過ごした。

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