蒸気暦近代史(ここ千年)、大陸の地政学的変化。 その一
神賜時代の終わり以来、東大陸と西大陸は地政学的に隔絶された状態にある。
最高緯度――ヘイラ人と一連の遊牧民族が、交易路の断絶を人為的に引き起こした。
中緯度――広大な月隕盆地と、それを囲む月隕山脈が、地理的な隔たりを作り出している。
低緯度赤道上――浅海群島を占拠する海人族が存在する。
そのため、人類の科学技術文明が衰退した後の長い期間、東大陸と西大陸の社会的・文化的交流はきわめて少なかった。
……
しかし、千年前。
大陸が蒸気暦に入ると、西大陸の西海岸半島にあるオーカ帝国が産業革命を始めた。
やがて台頭し、世界に変化をもたらした。
産業革命はオーカ帝国の軍事力と経済力を押し広げた。
彼らが最も繁栄した時代――蒸気暦四百年から六百年の間、地中海全体は彼らのものだった。
当時の聖ソーク帝国は、まだ黒海の浴槽のような場所を苦労して守っているありさまだった。龍牙家の領地は帝国領内になく、帝国に忠誠を誓ってもいなかった。
当時、オーカ帝国の海上艦隊は地中海に限定されていなかった。
当時、非常に国力の強かった彼らは、東方への拡張に向けた海路を開くことを決めた。
神賜時代が終わってから、東西大陸の間で初めて経済的な意味での交流が始まった。
蒸気暦三百年、オーカ帝国は強力な船と大砲によって、東西の貿易ルートを容易に開いた。
彼らが南大洋を開拓する過程で、最初に圧倒したのは、南大洋に住む海人族という民族だった。
この民族は上古魔法紀元の海の妖魔のような種族ではない。
実際、彼らを上古魔法紀元の海の種族と同一視しようものなら、非常に怒り出すだろう。
彼らは自らを、神授時代以降で最も正統な人類だと自負している。
海の人類も陸の人類と同じく、神授時代の終わりとともに多くの文明と技術を失った。それでも基礎的な文明性はまだ残っていた。
オルカ帝国が到来する以前、彼らはイルカを飼い慣らし、海藻を栽培して暮らしていた。陶磁器を焼き、南洋の島々に輝かしい宮殿を建て、黄金で飾った。
陶板に記された彼らの歴史も神授時代を記しており、陸の人類に対して一定の偏見を抱いていた。
そのため帆船時代には、航海の交通路を開くことができなかった。
現在の西大陸には、歴史愛好家の中に、こんな仮定をするのを好む人々がいる。
当時、国力の強大だったオーカ帝国が戦争の後、オーカの上層部が海人族をもっと上手く扱っていたなら、今の陸人族と海人族の関係はどうなっていただろうか、と。
……
しかし、歴史に仮定はない。
神賜時代の終わりは、人類の科学技術だけでなく、人類の文明性をも終わらせた。
神賜時代が終わった後の人類は、偏見に満ちていた。
――その偏見によって、人類は没落の後、人類以外の知的種族をすべて絶滅させた。
当時、オーカ帝国の装甲艦は六つの海人族王国を蹂躙し、大量の虐殺と破壊、略奪を行った。さらには多くの捕虜を西大陸の動物園へ送り届けた。当時のオーカ帝国上層部はそれを当然のことと考えていた――国力の強大さを示すには、他国を踏みにじり、他民族を辱め、奪い取った他文明の美術品を誇示して、無遠慮に振る舞う必要があると。
オーカ帝国は当時、南洋航路を容易に開いたことが、自国のみならず西大陸全体の陸人族に深刻な歴史的禍根を残すことになるとは、決して考えもしなかった。
……
海人類を殲滅した後、オーカ帝国艦隊は東方へ到着した。東大陸に着いたばかりのころ、オーカ帝国は非常に慎重だった。
東大陸と西大陸の間に経済交流はなかったが、断続的な人的交流は保たれていたからだ。
西大陸の三大上級職業は、東大陸にも存在していた。
しかし、わずか十年後、オーカ帝国は東大陸でそこまで慎重になる必要はないと気づいた。
当時、東大陸はまだ御獣技術の時代にあった。火薬兵器はすでに現れていたが、火打ち銃や前装砲で強力な御獣戰爭の主導権を揺るがすことはできなかった。
さらに、当時の東大陸は列国争覇の時代にあった。
この列国争覇時代の始まりが、オーカ帝国の台頭より早かった点には注意が必要だ。
オーカー帝国の到来後、東大陸各国の間で突然激化した矛盾は、オーカー帝国が作り出したものではない。
もともと長い年月をかけて醸成されていたもので、オーカー帝国の人々が迅速に察知して利用した、東大陸各方面の矛盾だった。
……
注――東大陸の長きにわたる列国争覇時代。それが、多くの東大陸の家族が、当時まだ非常に危険だった月隠盆地と月隠山脈を越えて西大陸へ渡る直接の原因となった。
輕鈞家は東大陸から逃亡してきた家族の一つで、当時は東大陸で歓迎されない傀儡師の家系だった。
千六百年前に月隠山脈を越えた際に何かを経験したらしく、それが直接、家族の呪いとなって現れた。
……
数十年にわたる探検と現地での経営を経て。
オーカ人は、手に入れた先進的な撃発銃と後装砲、そしてコンクリートの稜堡を駆使した。
東大陸で大規模な植民地化を始めた。
数十年にわたる植民地化の後、世代を超えて過激なオーカの少壮派が現れるにつれ、東洋におけるオーカの政策はますます過激になっていった。
当時のオーカの新世代の将軍たちは、自らの軍事力が強まるにつれて、前世代の政策を、より多くの軍功を得られると考える政策へと変えていった。それはさらに無謀なものになった。
当初の植民地政策は、まず東大陸の覇権争いへ介入するものとなった。最終的には、海人族を征服した方法を模倣し、東大陸で民族戦争を起こそうとするまでに至った。
オーカ帝国の傲慢さは、東大陸諸国の怒りを直接引き起こした。
東大陸では広範な連合が築かれた。
……
ついに三百五十年前、東方諸国はオーカの東方植民地へ一斉に攻めかかり、数度にわたる大規模な戦役が行われた。
その中で最大規模の荊東戦役では、東大陸六カ国の、荊川帝国の王族が率いる二十万の連合軍が、オーカ本国からの主力部隊を正面戦闘で撃破した。
連合軍は口径七十ミリ以上の大口径砲七千六百四十門と、八列の装甲列車を投入した。
さらに東大陸側はこの戦役で四十人以上の上級職業者を動員している。
この超大型戦役でオーカは七万人の損害を出し、東大陸では防衛態勢に転じるを得なくなった。
稜堡の防御群を拠点に、防衛を続けるほかなかった。
……
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