第五話
第5話 十八歳の冬を越えたあと
「……十八歳の冬を越えた、直後?」
レオニードの声が、地下書庫に響いた。
公爵は黙っていた。
手元の古い手帳には、確かにそう書かれている。
『王太子の愛する者は、十八歳の冬に必ず死ぬ』
レオニードはページをめくった。
次のページ。
『ただし、王太子がその者を愛していなければ、この呪いは成立しない』
さらに次。
『王太子が心から愛した者が、十八歳の冬を越えた場合――』
そこで文章が途切れている。
「……続きは?」
公爵は首を横に振った。
「ありません」
「破られたのか?」
「最初から、このページしかありませんでした」
レオニードは手帳を睨んだ。
「だったら……アリアナは?」
「分かりません」
「なぜ彼女は死んだ?」
誰も答えられない。
レオニードは、手帳を閉じた。
「僕は十八歳の冬を越えた」
「そして、アリアナは死んだ」
「なら、この呪いは……」
「殿下」
公爵が静かに口を挟んだ。
「一つだけ、気になることがあります」
「何だ」
「アリアナが亡くなった日です」
公爵は別の紙を取り出した。
「アリアナは、殿下の誕生日から三日後に亡くなっています」
レオニードは顔を上げた。
「……三日?」
「はい」
「それが何だ?」
公爵は答える前に、一度息を吐いた。
「アリアナは亡くなる前日、王宮へ行っていました」
「古文書庫だろう?」
「それだけではありません」
公爵が紙を差し出す。
そこには、王宮の記録が書かれていた。
『深夜、王太子執務室への立ち入り』
レオニードの目が見開かれる。
「……僕の執務室?」
「はい」
「でも、僕はその夜……」
言葉が止まる。
思い出せない。
その夜の記憶だけが、妙に曖昧だった。
確か。
夜遅くまで仕事をしていた。
そして――
誰かが部屋に入ってきた。
「……アリアナ?」
レオニードが呟く。
公爵は頷かなかった。
「記録上は、入室した人物の名前は残っていません」
「では、なぜアリアナだと?」
「これです」
公爵が机の上に置いたのは、小さな銀の鍵だった。
「アリアナの部屋にあったものです」
「鍵?」
「王宮の古文書庫の鍵でした」
レオニードは鍵を見つめる。
そして。
胸の奥に、嫌な感覚が広がった。
「……彼女は、何を探していた?」
「それを調べているところです」
公爵は手帳を開いた。
「ただし、一つだけ分かっています」
「何だ?」
「アリアナが亡くなる三日前――」
公爵はページを指差した。
「この記録を読んでいます」
『王太子の愛する者は十八歳の冬に死ぬ』
「……」
レオニードは黙り込んだ。
なら。
アリアナは知っていた。
自分が死ぬことを。
だから嫌われようとした。
だから婚約破棄を受け入れた。
だから――
「……僕を愛さなかったふりをした」
レオニードの声が震えた。
「違う」
公爵が言った。
「え?」
「アリアナは、殿下を愛していなかったふりをしたのではありません」
公爵は娘の遺書を思い出していた。
『殿下がこの手紙を読んでいるということは――』
『私は、あなたに嫌われたかったのです』
公爵は静かに言った。
「愛していたからこそ、嫌われようとしたのです」
レオニードは目を閉じた。
婚約破棄の日。
アリアナは最後まで笑っていた。
『どうか、お幸せに』
あれは。
本当に笑顔だったのだろうか。
違う。
あのときの彼女は――
泣いていた。
扇の影に隠れて。
自分に見えないように。
レオニードは拳を握りしめた。
「……僕は、何も見ていなかった」
「殿下」
「彼女が何年も僕の隣にいたのに」
「……」
「僕は、彼女のことを何も知らなかった」
地下書庫に沈黙が落ちる。
そのとき。
マリアが突然声を上げた。
「……違います」
二人が振り返る。
マリアは、震える手で何かを握っていた。
「お嬢様は……何も知らなかったんじゃありません」
「どういう意味だ?」
「私は、見たんです」
マリアの目に涙が浮かぶ。
「亡くなる前の夜」
「お嬢様は、王宮から戻ってきたあと……ずっと何かを書いていました」
「何を?」
「分かりません」
「では、なぜ?」
「でも……」
マリアは唇を震わせた。
「一度だけ、お嬢様が泣きながら言っていたんです」
「何と?」
「……『これで殿下は助かる』と」
レオニードは息を呑んだ。
やはり。
アリアナは、自分を救うために死んだ。
そう思った。
しかし。
マリアは首を横に振った。
「でも……」
「まだ、何かあるのか?」
「はい」
マリアは懐から、小さな紙切れを取り出した。
「これを、お嬢様の机の下で見つけました」
レオニードが受け取る。
そこには、アリアナの字で。
たった一行。
『殿下を救うだけなら、私が死ぬ必要はない』
レオニードの目が見開かれる。
その下には、さらに続きがあった。
『本当に恐ろしいのは、十八歳の冬を越えたあとに始まる』
「……何だ、これ」
レオニードの背筋を、冷たいものが走った。
十八歳の冬を越えた。
それで終わったと思っていた。
けれど。
アリアナは違った。
彼女は――
その先にある「何か」を知っていた。




