第四話
第4話 あなたにだけは、読んでほしくなかった
「……アリアナ」
レオニードは、机の上に置かれた封筒を見つめていた。
間違えるはずがない。
この筆跡を、八年間見てきた。
婚約者になったばかりの頃。
彼女が自分に送ってきた手紙。
誕生日に添えられていた小さなカード。
王宮で交わした書類。
どれも同じ筆跡だった。
几帳面で。
少しだけ右上がりで。
まるで本人の性格そのもののような文字。
『レオニード殿下へ』
封筒を握る。
胸が痛んだ。
生きている彼女からなら、何度でも受け取った。
けれど。
これは違う。
死んだ彼女が残したものだ。
「……なぜ」
誰もいない部屋で、レオニードは呟いた。
「なぜ、君は僕に何も言わなかった」
婚約を破棄した日。
アリアナは何も言わなかった。
怒りもしなかった。
泣きもしなかった。
ただ、
『承知いたしました』
そう答えただけだった。
あまりにも静かだった。
まるで。
ずっと前から、こうなることを知っていたかのように。
レオニードは封筒を開いた。
中には、一枚の便箋。
そして最初の一行。
『殿下がこの手紙を読んでいるということは、私はもう、この世にはいないのでしょうね』
レオニードの呼吸が止まった。
『きっと殿下は、私を恨んでいると思います』
『最後まで、嫌な女だったでしょうから』
「……」
『聖女様を傷つけたこと』
『殿下に失礼な態度を取ったこと』
『婚約者として相応しくない振る舞いをしたこと』
『全部、私が悪かったことにしてください』
レオニードの眉が寄る。
「……違う」
思わず声が漏れた。
けれど手紙は続く。
『殿下』
『私は、あなたに嫌われたかったのです』
レオニードの指が止まった。
「……何?」
その一文だけが、頭から離れない。
『嫌われなければならなかった』
『あなたに愛されてはいけなかった』
『だから、あの日から私は変わりました』
レオニードは便箋を強く握った。
頭の中に、過去の記憶が次々と蘇ってくる。
昔は。
アリアナは笑っていた。
自分が好きだと言った花を覚えていてくれた。
誕生日には、必ず手作りの菓子を用意してくれた。
自分が仕事で疲れていると、
「無理をなさらないでくださいね」
と声をかけてくれた。
それがいつからだっただろう。
目を合わせなくなったのは。
笑わなくなったのは。
そして。
自分に向かって、
「嫌いです」
と言うようになったのは。
『殿下』
『私は、あなたに嫌われることができて、本当に安心しました』
レオニードの目から、一滴の涙が落ちた。
「……安心?」
何を言っている。
婚約を破棄されて。
あれほど傷ついたはずなのに。
なぜ。
『これで、あなたは死なずに済むから』
「……!」
レオニードは立ち上がった。
椅子が大きな音を立てて倒れる。
「どういう意味だ……?」
手紙の続きを急いで読む。
けれど――
そこから先の文字は、滲んでいた。
涙で濡れたのか。
インクがところどころ消えている。
それでも、かろうじて読める。
『殿下が十八歳の冬を越えるためには――』
そこまでだった。
紙が破れている。
「……何だよ」
レオニードは裏返した。
何もない。
「続きは……?」
封筒の中も探す。
ない。
一枚しかない。
「ふざけるな……」
机を叩いた。
「こんなところで終わるなよ……!」
初めてだった。
アリアナがいなくなったことを。
本当の意味で実感したのは。
もう聞けない。
もう問い詰められない。
もう答えてくれない。
「……アリアナ」
レオニードは便箋を胸に押し当てた。
「僕は……何も知らなかった」
そのとき。
コンコン。
扉が叩かれた。
「殿下」
侍従の声。
レオニードは涙を拭った。
「何だ」
「国王陛下がお呼びです」
「今は行けない」
「それが……」
侍従が言い淀む。
「公爵家から、緊急の知らせが届いております」
レオニードの顔が強張る。
「公爵家?」
「はい」
扉が開く。
侍従が一枚の書状を差し出した。
レオニードはそれを受け取る。
封蝋には、ヴァルディア公爵家の紋章。
開く。
短い文章だった。
『アリアナの遺したものについて、殿下にお伝えしたいことがあります』
その下に、公爵の名。
そして――
『できれば、殿下お一人でお越しください』
レオニードは書状を握りしめた。
「……公爵は何を知っている?」
「分かりません」
「すぐに馬車を用意しろ」
「ですが、もう夜です」
「構わない」
レオニードは立ち上がった。
そして、机の上の手紙を見る。
「アリアナ」
小さく名前を呼ぶ。
「君が僕を守ろうとしたというなら――」
「今度は僕が、君の残したものを守る」
*
同じ頃。
ヴァルディア公爵家。
地下書庫では、公爵とマリアが一冊の手帳を見つめていた。
古い手帳。
百年以上前のもの。
そこには、奇妙な記録が残されている。
『王太子を救うため、愛する者は悪役にならなければならない』
公爵はページをめくった。
そして――
最後のページを見つけた。
そこには、アリアナの字でこう書かれていた。
『もし私が失敗したら』
『次の人へ、この記録を託します』
その下に。
小さな文字。
『次の王太子の婚約者へ』
マリアが息を呑んだ。
「……次の?」
公爵は顔を上げた。
「どういうことだ……?」
その瞬間。
地下書庫の扉が開いた。
二人が振り返る。
そこに立っていたのは――
レオニードだった。
「公爵」
「殿下……」
レオニードは手にしていたアリアナの手紙を見せる。
「彼女は、僕を救うために死んだのですか?」
公爵は答えられなかった。
長い沈黙のあと。
ゆっくりと首を横に振る。
「……まだ、分かりません」
そして。
公爵は一冊の古い手帳を差し出した。
「ですが」
「アリアナが死ぬ前に、これを読んでいました」
レオニードが手帳を受け取る。
最初のページを開く。
そこに記されていた言葉を見て――
彼の顔から、血の気が引いた。
『王太子の愛する者は、十八歳の冬に必ず死ぬ』
レオニードは震える声で呟いた。
「……僕の十八歳の冬?」
公爵は答えなかった。
ただ一つ。
恐ろしい事実だけが、二人の間に残った。
アリアナが死んだのは――
レオニードが十八歳の冬を越えた、直後だった。




