第二話
「私が死んだことを、どうか悲しまないでください」
公爵は、その一文を何度も読み返した。
目の前には、娘の遺体が眠る棺。
その棺を見送ったばかりだというのに。
どうして。
なぜ。
娘はこんな手紙を残したのか。
「……続きは?」
夫人が震える声で尋ねる。
公爵は答えられなかった。
手紙を持つ手が、震えていた。
ゆっくりと、次の行へ目を移す。
『お父様。
私は、お父様の自慢の娘ではありませんでしたね』
「……」
『幼い頃から、可愛げのない娘だったと思います』
公爵は目を伏せた。
確かにそうだった。
アリアナは昔から、感情をあまり表に出さない子だった。
泣かない。
甘えない。
欲しいものも言わない。
父親である自分にさえ、抱きついてくることはなかった。
妻や使用人たちからは、
「本当に公爵令嬢らしいお子様です」
そう言われていた。
けれど。
父親としては、少し寂しかった。
もっと娘らしく甘えてほしかった。
もっと頼ってほしかった。
だからこそ、王太子との婚約が決まったとき。
これで娘も幸せになれると思っていた。
なのに――。
『私は、お父様に一度も言えませんでした』
『ありがとう、と』
公爵の指が止まった。
「……何を?」
『私が熱を出したとき、一晩中そばにいてくださったこと』
『初めて乗馬をした日に、転ばないように馬の横をずっと走ってくださったこと』
『私が社交界で失敗したとき、誰にも見えないところで「気にするな」と言ってくださったこと』
『全部、覚えています』
公爵の喉が詰まった。
そんな昔のこと。
娘が覚えていたなんて、知らなかった。
『お父様は、私には何もしてくれなかったと思っているかもしれません』
『でも違います』
『私にとっては、全部が宝物でした』
公爵の手から、手紙が落ちた。
「……アリアナ」
初めてだった。
娘が、自分の気持ちをこんなにも長く書いたのは。
隣で夫人が泣いている。
けれど、公爵は涙を拭わなかった。
もう一度、手紙を拾う。
『だから、お願いがあります』
その文字を見た瞬間。
公爵の胸に、嫌な予感が走った。
『私のことで、誰も責めないでください』
『殿下も』
『聖女様も』
『そして――』
『お父様も』
「……聖女?」
夫人が顔を上げる。
アリアナの婚約破棄の原因となった少女。
リリア。
公爵家の誰もが、アリアナを裏切った存在だと思っていた。
娘を傷つけた女。
王太子を奪った女。
だからこそ、夫人は思っていた。
あの娘だけは許せない、と。
しかし。
手紙には、こう続いていた。
『リリア様は、何も悪くありません』
「……そんな」
夫人が呟く。
『どうか、あの方を恨まないでください』
『あの方は、何も知らないのです』
「何を……?」
公爵は眉を寄せた。
何を知らないというのだ。
けれど、それ以上は書かれていなかった。
代わりに、最後の一文。
『お父様』
『私がいなくなったら、地下書庫の一番奥にある古い箱を開けてください』
公爵は息を止めた。
地下書庫。
そこには、王家から預かった古文書や、何代も前の公爵家当主が残した記録が保管されている。
娘が、なぜそんなものを。
そして、その下に小さく書かれていた。
『鍵は、私の部屋の時計の裏にあります』
「……」
公爵は立ち上がった。
「あなた……どこへ?」
夫人が尋ねる。
「地下書庫だ」
「今から?」
「今すぐだ」
公爵は部屋を出ようとした。
そのとき。
「旦那様」
扉の前に、侍女のマリアが立っていた。
目は真っ赤だった。
「……お嬢様の手紙ですか?」
「ああ」
「何が書いてありましたか?」
公爵は答えようとして――
口を閉じた。
「まだ分からない」
「……そうですか」
マリアは俯いた。
そして、小さな声で言った。
「お嬢様は……最後まで、何かに怯えていました」
公爵が振り返る。
「何?」
「亡くなる前の夜です」
マリアは涙を拭った。
「お嬢様は私に言ったんです」
『マリア。私のことを忘れて』
「……」
「私が理由を聞いても、何も教えてくれませんでした」
マリアは唇を噛んだ。
「でも……」
「でも?」
「そのあと、お嬢様は泣いていました」
公爵の顔が強張る。
アリアナが泣くところなど。
いつ以来だろう。
「そして……」
マリアは震える声で続けた。
「こう言っていました」
『これで、殿下は生きられる』
「……何?」
公爵が聞き返す。
けれどマリアは、それ以上何も言わなかった。
ただ俯いている。
公爵はしばらく黙っていた。
やがて――
「時計の裏を確認してくる」
そう言って、娘の部屋へ向かった。
*
アリアナの部屋。
机の上には、まだ書きかけの紙が残っていた。
公爵はそれを見つけた。
『レオニード殿下へ』
途中まで書かれた文字。
しかし、その続きはない。
公爵はその紙を見つめた。
娘は最後に、何を伝えようとしていたのか。
そのとき。
壁時計の裏から、かすかな金属音がした。
公爵が時計を動かす。
そこには、小さな銀色の鍵があった。
鍵には一枚の紙が結びつけられている。
そこに書かれていたのは――
たった一言。
『まだ、間に合います』
公爵は、その意味を理解できなかった。
けれど。
地下書庫へ向かう足だけは、止まらなかった。
そして同じ頃。
王宮では。
レオニード王太子が、一人の侍従から報告を受けていた。
「殿下……」
「何だ」
「アリアナ様の死について、少し妙なことが」
レオニードの表情が変わる。
「……何?」
侍従は、一枚の紙を差し出した。
「亡くなる前日、アリアナ様が王宮の古文書庫へ入っていた記録が残っています」
レオニードは紙を見つめた。
そして初めて。
胸の奥に、説明できない不安が生まれた。
「……アリアナ」
もう二度と会えない女の名前を。
彼は、初めて自分から呟いた。




