第一話
「アリアナ・フォン・ヴァルディア公爵令嬢との婚約を、本日をもって破棄する」
大広間に、その声が響いた。
誰もが息を呑む。
けれど、婚約破棄を告げられた本人だけは――驚くほど静かだった。
アリアナは扇を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。
正面に立つのは、彼女の婚約者。
この国の王太子、レオニード。
そして、その隣には一人の少女がいた。
淡い金色の髪。
白いドレス。
胸元には、聖女の証である白銀の紋章。
平民出身でありながら、神に選ばれた少女。
リリア。
最近、王太子が彼女に夢中だという噂は、アリアナの耳にも届いていた。
「理由は分かっているな?」
レオニードが冷たい声で言う。
「リリアへの度重なる嫌がらせ。そして、彼女を王宮から追い出そうとしたこと」
広間のあちこちから、囁き声が聞こえる。
「やっぱり……」
「聖女様を虐めていたなんて」
「なんて恐ろしい女なの」
アリアナは黙っていた。
レオニードの隣に立つリリアは、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「私……アリアナ様に嫌われてしまって……」
その声を聞いた瞬間。
アリアナは目を伏せた。
そして――
「そうですね」
あっさりと認めた。
「私がやりました」
広間がざわめく。
レオニードの眉が寄る。
「……認めるのか?」
「はい」
「言い訳もしないと?」
「必要ありませんでしょう?」
アリアナは微笑んだ。
「殿下がお決めになったことですもの」
「……」
「婚約破棄、承知いたしました」
あまりにもあっさりした返事だった。
レオニードの表情が、一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐに冷たく戻る。
「そうか」
それだけだった。
アリアナは礼をした。
「今までありがとうございました、殿下」
そして背を向けた。
誰も気づかなかった。
扇の下で、彼女の指が震えていたことに。
誰も気づかなかった。
唇を噛みしめ、血が滲んでいたことに。
誰も知らなかった。
アリアナがこの日を――
ずっと待っていたことを。
*
屋敷に戻る馬車の中。
アリアナは一人だった。
窓の外を流れる街並みを眺めながら、目を閉じる。
「……これでいい」
誰に言うでもなく呟いた。
これでいい。
これで、終わった。
八年間。
長かった。
婚約者としてレオニードの隣に立ち続けた八年間。
好きだった。
ずっと。
幼い頃、初めて手を繋いだ日から。
けれど――
「……ごめんなさい」
アリアナは胸元を押さえた。
「殿下」
その瞳から、一滴だけ涙が落ちる。
「あなたに嫌われることしか、できなかったの」
馬車は止まらない。
アリアナは涙を拭った。
もう泣かない。
泣いてはいけない。
今日から彼女は、王太子の婚約者ではない。
ただの公爵令嬢。
それでいい。
それが、一番安全なのだから。
*
三日後。
アリアナは自室のベッドに横たわっていた。
侍女のマリアが心配そうに覗き込む。
「お嬢様……本当に何も召し上がらないのですか?」
「ええ」
「でも、もう三日も……」
「大丈夫よ」
アリアナは微笑んだ。
「少し疲れただけ」
「……嘘です」
マリアの声が震えた。
「お嬢様は、いつもそうやって笑います」
アリアナは答えなかった。
「何かあったんですよね?」
「……」
「私には言えないことですか?」
アリアナはしばらく黙ったあと、
「マリア」
と呼んだ。
「はい」
「あなたは、幸せになってね」
「……え?」
「私のことなんて忘れて」
「何を言って……」
アリアナは目を閉じた。
「あなたには、私よりずっと幸せな人生が似合うわ」
マリアは泣きそうな顔で首を振った。
「嫌です」
「……」
「私は、お嬢様の侍女です」
「そうね」
「だから……ずっとそばにいます」
アリアナは何も言わなかった。
ただ、悲しそうに笑った。
「ありがとう」
その夜。
アリアナは一人で机に向かった。
引き出しから、白い封筒を取り出す。
封筒には、いくつかの名前が書かれていた。
『お父様へ』
『お母様へ』
『マリアへ』
そして――
一番最後。
『レオニード殿下へ』
アリアナはその封筒をじっと見つめた。
「……まだ、書けない」
涙が一滴、紙の上に落ちる。
けれど彼女は、それを拭わなかった。
「もう少しだけ……時間をください」
その夜。
屋敷の時計が、午前零時を告げた。
アリアナの部屋の灯りが消える。
それが――
彼女が生きている最後の夜だった。
*
翌朝。
侍女のマリアが部屋に入ると、
「お嬢様、朝ですよ」
返事がなかった。
「お嬢様?」
カーテンを開ける。
朝の光が差し込む。
ベッドの上。
アリアナは静かに眠っていた。
あまりにも穏やかな顔で。
「……お嬢様?」
マリアが近づく。
肩に触れる。
冷たい。
「……え?」
何度呼んでも。
揺らしても。
アリアナは目を開けなかった。
「いや……」
マリアの顔から血の気が引く。
「お嬢様……?」
声が震える。
「お嬢様ぁっ……!」
屋敷中に、悲鳴が響き渡った。
その日。
かつて「王太子を虐めた悪役令嬢」と呼ばれた少女は、
誰にも看取られることなく、この世を去った。
そして三日後。
彼女の葬儀が終わった夜。
ヴァルディア公爵家に、一通の手紙が届いた。
差出人は――
アリアナ・フォン・ヴァルディア。
死んだはずの娘からだった。
封筒には、震えるような筆跡でこう書かれていた。
『お父様、お母様へ』
公爵は、震える手で封を切った。
そして――
娘が残した最初の一行を読んだ。
『私が死んだことを、どうか悲しまないでください』
公爵の手が止まった。
その下には、さらに一行。
『私は、ようやく殿下を守ることができました』
――このとき、まだ誰も知らなかった。
この一通の遺書が。
家族の人生を。
聖女の運命を。
そして、王太子の未来を。
すべて変えてしまうことを。




