第3話 シルエナはもう、振り返らない
「三年前。あなた、屋敷で働いていた平民の女性との間に子供を作ったでしょう?」
「なっ……!」
レグルスの声が会場に響いた。
今までとは比べものにならないほど大きなざわめきが起こる。
「な、なんのことだ!」
「まぁ。焦ったからといって、私に対して随分な口の利き方ね」
「も、申し訳ございません……」
私はもう一枚、書類を取り出した。
少し離れた場所で、シルエナが呆れたようにレグルスを見ていた。
「本人に会ってきたわ。あなたから送られた手紙も残っていた。それから、妊娠が分かった直後に彼女へ渡された金銭についても調べた」
「で、でたらめです! そんなもの——」
「レグルス、あなたは嘘ばかりね」
私は書類を軽く持ち上げた。
「手紙も、当時の記録もある。屋敷を辞めた数人の使用人からも話を聞いたのよ。あなたが否定するたびに一つずつ見せても構わないけれど、時間がかかるわよ」
レグルスは歯を食いしばった。
そして、その横ではメイデル伯爵の顔色まで悪くなっている。
当然だ。
ここからは息子だけの話ではない。
「彼女を屋敷から追い出す提案をしたのはあなたたちね」
私が視線を向けると、伯爵夫人の肩が揺れた。
「メイデル伯爵家から支援金というなの口止め金を渡して、二度とレグルスへ近づかないこととこの件を誰にも話さないことを約束させた」
「それは……息子の将来を考えてのことで……」
伯爵は消え入るような小さな声で、絞り出すように答えた。
「あら。あっさりと認めるのね」
「……っ」
周囲のざわめきが一段と大きくなった。
自分の失言に気付いたときには遅い。
「つまりメイデル伯爵夫妻は、息子が何をしていたのか知っていた。それをあえて隠したまま、アルヴェリオ公爵家へ縁談を申し込んだ、と」
「違います! 我々は決して欺こうとしたわけでは——」
「何が違うの?」
このことを知っていたら、シルエナもこの縁談を引き受けなかったはずだ。
「アルヴェリオ公爵はこのことをご存じなの?」
「それは、正式な結婚の際に話そうとしており……」
「残念ね。その前にあなたたちの信用は完全に消えたわ」
ざわめきは消えて、次は静寂が会場を包んだ。
「話し合いは終わりね。婚約解消の手続きはこちらで進めておくわ」
そういって出口へと向かおうとした、そのときだった。
レグルスが舞台から降りてきた。
「シルエナ嬢! 確かに私にも悪いところはありました。ですが、これから改めればいいでしょう! 私たちが結婚することは両家にとって——」
「まだそれを言うの?」
この男はまだ何も学んでいないらしい。
心の中でため息を吐きながら、シルエナの前に立つ。
「メイデル伯爵家との婚姻はアルヴェリオ公爵家にも利益がある。だからシルエナはあなたとの結婚を拒めない。そう言いたいのね?」
「そこまで言っておりません。私を悪者にするような言い方は——」
「あなたは直接言われたのよね、シルエナ」
「はい」
「それは……!」
「それから、自分はいずれアルヴェリオ公爵家に入り、次期公爵になるのだから、女の一人や二人と遊ぶくらいの甲斐性は必要だとも?」
「……はい」
シルエナの淡々とした返事は、会場の空気が変えた。
レグルスもそれに気付いたのだろう。
「いや、それは違う! 俺は——」
「それで誰があなたを次期公爵にすると言ったの?」
「……は?」
「ただシルエナと婚約しただけでしょう」
レグルスが呆然と私を見てくる。
私はずっと不思議だった。
なぜこの男は、まだ何も手に入れていないのに、すでに公爵家の人間になったつもりでいるのだろう。
「アルヴェリオ公爵家に男子がいないことは事実です。俺がシルエナと結婚すれば——」
「だから、それを誰が決めたの?」
「……」
「少なくともお父様は、あなたを次期公爵にするなんて一度も仰っていないわ」
レグルスの顔から血の気が引いていく。
自分が当然手に入ると思っていたものは、最初から約束されてすらいない。
どこで何を勘違いしていたのか。
レグルスはようやく理解したらしい。
「さて」
私は周囲を見渡した。
会場にいる貴族たちはもう誰も笑っていなかった。
メイデル家と親しくしていた者もいる。
商売で付き合いのある家もいる。
だからこそ、今の話をどう受け取るかは私が決めることではない。
「アルヴェリオ公爵家は、メイデル伯爵家との婚姻を白紙に戻します」
「ヴェローナ様!」
「それから、現在行っている取引についても一度すべて見直すことになったわ」
伯爵の顔色が変わった。
「お、お待ちください。それでは公爵家にも大きな損失が出ますぞ!」
「精霊の声は真実しか語らないわ。残念ながら、あなたたちは必要ないと精霊が言っているの——私の仕事はそれを証明していくことよ」
それ以上、伯爵は何も言わなかった。
代わりに聞こえてきたのは、疑念が混ざった周囲の小さな話し声だった。
「では、帰りましょうか」
「……え?」
シルエナが目を丸くした。
「もう用事は済んだでしょう」
「でも……」
「何?」
シルエナは何か言いたそうに私を見た。
けれど結局、何も言わなかった。
「……なんでもないわ」
「そう」
会場を去ろうとする私たちの背後から、レグルスは呼び止めようと叫んでいた。
しかし、シルエナが振り返ることは一度もなかった。




