アキツグと
「それは、とても尊い御業ではありませんか」
その日の夜。事情を聞いたアキツグは、そう言った。リディアは思わず彼を見つめた。
「……尊い?」
「ああ」
聞き間違いではなかった。昼間の出来事をどう説明したものか、リディアは夕食の間じゅう迷っていた。割れた茶碗から声が聞こえたこと。自分の《終焉》の祝福が、命を持たないはずの物にも作用したこと。そして、茶碗の付喪神が現れたこと。どれも自分自身、まだ半分は信じられずにいる。それでもアキツグには話しておいたほうがいいと思った。なにしろ、あの茶碗はこの屋敷のものだ。食事を終えて庭に面した縁側へ移り、意を決して話してみれば、返ってきたのが今の言葉だった。
「長く務めたものを、安らかに送り出したのだろう?」
「……はい。そうだと思います」
「ならば、尊いことだ」
あまりにも迷いなく言うので、リディアのほうが戸惑ってしまう。
「ですが、死の力です」
「そうだな」
リディアは次の言葉を失った。否定してほしかったわけではない。けれど、死の力ではないと言い換えてくれるのだと、どこかで思っていたのかもしれない。
「死は、悪いことではない」
アキツグは庭へ目を向けた。日が暮れた庭から、名も知らぬ虫の声が聞こえてくる。
「惜しいことではある。悲しいこともある。だが、生きたものも、形あるものも、いつか終わる」
静かな声だった。
「終わりがあるからといって、それまでの日々まで不吉になるわけではないだろう」
リディアは俯いた。十二歳の自分に聞かせてやりたいと思った。死に関わる力など不吉だと。触れられれば寿命が縮むのだと。死神の娘だと。そんな言葉を聞くたびに、自分の手を隠すようになった少女に。
「……こちらの国は、不思議ですね」
「そうか?」
「死を、そんなふうに話す人を初めて見ました」
「西では違うのか」
「はい。少なくとも、わたくしの周りでは」
リディアは自分の手を見た。
「死は恐ろしいものです。不吉なものです。なるべく遠ざけ、口にすることさえ避けるものでした」
「なるほど」
「だから、わたくしの祝福も……」
その先を言う必要はなかった。アキツグも、もう知っている。
「死神令嬢、だったか」
久しぶりにその呼び名を耳にした。胸の奥がわずかに縮む。
「……はい」
「妙な名をつけるものだ」
思いがけない感想だった。
「妙、ですか?」
「あなたは誰かを殺したことがあるのか?」
「ありません」
「死を招いたことは?」
「ありません」
「では、死神ではないだろう」
「それは……そうなのですが」
「随分と大げさな連中だな」
リディアは目を瞬いた。その言い方があまりにも呆れたようだったからだ。六年間、自分を苦しめてきた呼び名だった。言われるたびに傷ついた。やがて、そう呼ばれて当然なのだとすら思うようになった。それをこの人は、大げさな連中だ、の一言で片づけてしまった。おかしくなって、リディアの口元が少し緩んだ。
「……ふふ」
「何だ」
「いえ。そんなふうに言われたのは初めてでしたので」
「そうか」
アキツグはそれ以上追及しなかった。 しばらく、二人で庭を眺める。 沈黙が流れた。 以前のリディアなら、誰かと黙っている時間が苦手だった。相手が何を考えているのか分からない。怒っているのではないか。自分が何か失礼なことをしたのではないか。何か話さなくては。いつも、そう考えていた。けれどアキツグとの沈黙は、不思議と苦しくなかった。庭から吹いてくる風が、昼間の熱を少しずつさらっていく。
「今日の茶碗は」
アキツグがぽつりと言った。
「俺も使ったことがあるはずだ」
「そうなのですか?」
「この屋敷に昔からあったのならな。子どものころ、よくここへ遊びに来ていた」
「では、あの方はあなたのこともご存じだったかもしれませんね」
「あの方?」
「茶碗の付喪神さまです」
「……茶碗に敬称をつけるのか」
「お話をしてしまうと、どうしても」
アキツグが小さく笑った。
「どんな者だった?」
「白い着物を着た、小さなお爺様でした。とても元気な方で」
「死に際だったのだろう?」
「そうなのですが……」
思い出す。
ああ、さっぱりした。
百年働いたんじゃぞ。
よい器生であった。
「とても、楽しそうでした」
「ならば、よかった」
その一言が、すとんと胸に落ちた。
「……はい」
本当に。よかったのだ。あの茶碗は割れてしまった。付喪神も消えてしまった。それでも、あれは悲しいだけの出来事ではなかった。
「こちらでは、壊れた物はどうするのですか?」
「物によるな。直せるものなら直す。直せなければ、礼を言って処分する」
「礼を?」
「ああ」
「物に?」
「百年も働いたのなら、なおさらだ」
アキツグは何でもないことのように言った。
「長い間ご苦労だった、と」
リディアは昼間の老人を思い出した。壊れても、壊れても直してもらった。大事にしてもらった。そう話していた。
「……だから、あの方は満足していたのですね」
「そうかもしれないな」
また沈黙が落ちる。けれど今度の沈黙も、心地よかった。
「アキツグ様」
「何だ?」
「わたくしは、ずっとこの祝福を嫌っていました」
言葉にしてみると、不思議なほど簡単だった。
「使いたいと思ったこともありません。できることなら、一生使わずにいたいと」
「そうか」
「でも、今日初めて使いました」
「ああ」
「喜んでもらえました」
声が少し震えた。リディアは慌てて唇を結んだ。
「わたくしの力で、喜ぶ方がいるなんて思っていませんでした」
アキツグはしばらく何も言わなかった。やがて、静かに言った。
「ならば、これから知っていけばいい」
「何を、ですか?」
「あなたの祝福が何なのか」
リディアは顔を上げる。
「まだ一度使っただけなのだろう?」
「……はい」
「ならば、あなた自身もまだ知らないことがあるはずだ」
婚礼の夜と同じだった。分からないなら、分かってから考える。この人は本当に、そうやって生きているのだ。
「怖くはありませんか?」
気づけば、また同じ質問をしていた。アキツグは少し考える。
「今のところは」
「今のところ?」
「今後、あなたが触れた人間を片端から殺すようになれば考える」
「そんなことはいたしません!」
「ならば問題ない」
真顔だった。リディアはぽかんとする。それから、笑ってしまった。
「ふふっ……」
「何がおかしい」
「アキツグ様が、そのような冗談をおっしゃるとは思わなくて」
「冗談ではない」
「では、なおさらおかしいです」
今度は、はっきりと笑った。アキツグは納得がいかないような顔をしている。その顔を見て、またおかしくなる。トヨミへ来てひと月。夫の前でこんなふうに笑ったのは、初めてだった。笑いがおさまってから、リディアは庭を見た。
「……こちらの国は、不思議ですね」
「そうか?」
「ええ」
「では、慣れるといい」
「え?」
「これから長く暮らすのだから」
リディアは彼を見た。アキツグはもう庭へ視線を戻していた。これから長く。それは政略結婚をした夫婦なら、当然のことなのかもしれない。それでも、その言葉が嬉しかった。リディアは彼の横顔に向かって、小さく笑った。
☆
翌朝。リディアは、何やら騒がしい声で目を覚ました。
「おい、押すでない!」
「わしが先じゃ!」
「いいや、わしのほうが先に来た!」
「若造は後にせい!」
「誰が若造じゃ、わしは百二十年物じゃぞ!」
リディアは目を閉じたまま、眉を寄せた。朝から使用人たちが喧嘩でもしているのだろうか。それにしては、聞き覚えのない声ばかりだ。
「姫様はまだ起きんのか?」
「寝顔を覗くでない、無礼者!」
「お前も覗いとるではないか!」
――姫様?
嫌な予感がした。リディアはゆっくりと目を開けた。
「…………」
閉じた。もう一度、開ける。やはり、いた。枕元に、見知らぬ者たちが、ずらりと並んでいた。小さな老婆。隻眼の武士。幼い子ども。傘を背負った老人。頭に蓋を載せた女。その他、数える気にもなれないほどの老若男女。
ただし。全員、手のひらほどの大きさだった。
「あ、起きたぞ!」
一斉にリディアを見る。
「姫様!」
「わしにも祝福を!」
「次はわしじゃ!」
「いや、俺だ!」
「静かにせんか! 姫様が怯えとるじゃろうが!」
「…………」
リディアは、そっと布団を鼻まで引き上げた。
「あなた方は……?」
恐る恐る尋ねる。小さな者たちは一斉に胸を張った。
「付喪神じゃ!」
声が揃った。 リディアはもう一度、布団を頭までかぶった。
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