↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】 忌み嫌われた死神令嬢の祝福――東の国では付喪神たちに大人気で、旦那さまにも溺愛されました   作者: カワシロツカサ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/5

茶碗の神

 それから、ひと月ほどが経った。リディアは少しずつ、トヨミでの暮らしに慣れ始めていた。朝になれば、庭の木々の向こうから鳥の声がする。食卓には、故郷では見たことのなかった魚や野菜が並ぶ。最初は戸惑っていた箸の扱いも、今ではどうにか人前で恥ずかしくない程度にはなった。言葉も同じだった。スズたちが話す速さにはまだついていけないこともあるが、少なくとも日々の暮らしに困ることはない。


 アキツグとは、毎日のように顔を合わせていた。夫婦らしいと言えるほど親密ではない。けれど、彼はリディアを避けなかった。食事を共にし、時には庭を歩き、その日の出来事を尋ねてくる。それだけのことが、リディアにはいまだに少し不思議でくすぐったく感じた。


 そんな日の午後だった。ぱりん、と乾いた音がした。


「あっ!」


 スズが声を上げる。茶を運んできた女中が、茶碗を取り落としたのだ。茶碗が床で真っ二つに割れていた。


「申し訳ございません!」


 女中は真っ青になり、その場に膝をついた。


「お怪我は?」


 リディアが尋ねる。


「ございません。ですが、その茶碗は……」


 女中の視線が、割れた茶碗へ落ちる。スズもしゃがみ込んだ。


「ああ。とうとう割れてしまいましたか」

「高価なものなのですか?」

「いえ。そういうわけではありません」


 スズは少し寂しそうに笑った。


「先々代のころから、このお屋敷で使われていたものだそうです」

「そんなに長く?」

「はい。何度も欠けては直して。もう百年近いのではないでしょうか」

「百年……」


 リディアも茶碗を見る。真っ白な器ではない。ところどころ色はくすみ、表面には細かな傷があった。割れた断面の近くには、金色の線がいくつも走っている。過去に修復された跡なのだろう。何度壊れても、捨てずに直されてきた器。トヨミへ来る前のリディアなら、古い茶碗だと思っただけかもしれない。けれど今は、少し違って見えた。この国の人々は、物を大切にする。長く使われた物には魂が宿るとさえ考えている。


「残念ですね」


 リディアがそう言うと、スズはうなずいた。


「ええ。でも、ずいぶん働いてくれましたから」


 その言葉を聞いた、そのときだった。


 ――苦しい。


 リディアは息を呑んだ。


「……え?」


 胸の奥を、見えない指でぎゅっと掴まれたような感覚。呼吸が一瞬だけ浅くなる。知っている。この感覚を、リディアは知っていた。ずっと昔、一度だけ経験したことがある。


 十二歳よりも前。まだ自分の祝福を知る前のことだった。領地で飼われていた一頭の老馬が、死にかけたことがある。リディアが幼いころから何度も背に乗せてくれた、おとなしい栗毛の馬だった。その日、厩舎の藁の上に横たわった老馬の身体を、リディアは何度も撫でた。いつものように立ってほしくて。また自分を乗せてほしくて。けれど老馬は起き上がらなかった。その首に触れた瞬間、今と同じものを感じた。苦しい。けれど、痛いのとは違う。何かが終わろうとしている、それを、身体の奥で直接感じてしまうような感覚。あの翌朝、老馬は息を引き取った。


 祝福の儀を終えたあとになって、リディアはようやく理解した。あれが、《終焉》だったのだと。死の際にあるもの。その気配を、自分は感じ取ることができるのだと。


 そして今、同じ感覚がある。目の前の、割れた茶碗から。


「……まさか」


 リディアは呟いた。


「姫様?」


 スズが不思議そうに顔を上げる。


「この茶碗は……」


 言いかけて、リディアは口をつぐんだ。馬鹿な、これは生き物ではない。命などない。死とは関係がない、なのに。確かに感じる。終わろうとしている。この茶碗が。


「少し、触れてもよろしいですか」

「もちろんですが……破片でお怪我をなさらぬよう」

「はい」


 リディアはそっと指を伸ばした。割れた茶碗の縁に触れる。


 ――やはり。


 間違いない。あの老馬と同じだ。むしろ、触れたことでいっそうはっきりと感じた。長く張り詰めていた糸が、今にも切れようとしているような。もう休ませてほしいと、静かに訴えているような。リディアの胸が早鐘を打った。十二歳の祝福の儀から六年、自分の力を知ってから、一度も使おうとはしなかった。使い方が分からなかったし、何より、使うことが怖かった。死神令嬢という名を認めてしまうような気がして。


 けれど。なぜか、この茶碗を放っておいてはいけないように思った。リディアは息を吸う。


「《祝福》をーー」


 指先から、淡い光がこぼれた。驚くほど自然だった。まるでずっと前から、自分の中にあったものが、ようやく出口を見つけたかのように。光はリディアの指を伝い、割れた茶碗を包み込む。白い器が、わずかに輝いた、そして。


「――ああ、さっぱりした!」


 知らない声がした。


「……え?」


 リディアは顔を上げた。部屋には、リディアとスズと、茶碗を割った女しかいなかったはずだ。けれど声は、すぐ目の前から聞こえた。視線を落とす。割れた茶碗の上に、小さな老人が座っていた。


「…………」


 リディアは固まった。老人は手のひらほどの大きさだった。生成りの着物をまとい、短い白髭を生やしている。そして、割れた茶碗の上で、うーん、と盛大に伸びをした。


「いやあ、長かった! ずいぶん働いたぞ!」

「……あなたは」

「ん?」

「どなたですか」

「わしか?」


 老人は自分を指差す。それから、足元の茶碗をぽん、と叩いた。


「茶碗じゃよ!」

「…………」

「姫様?」


 スズが怪訝そうな顔でリディアを見る。


「どうかなさいましたか?」

「そこに……」


 リディアは老人を指差した。


「老人が」

「老人?」

「はい」

「どちらに?」


 スズはリディアの指先を追い、割れた茶碗を見る。それから周囲を見回した。


「……誰もおりませんが」


 リディアはもう一度老人を見る。老人は腹を抱えて笑っていた。


「見えとらん、見えとらん!」


「あなたは……」


 先月、スズから聞いた言葉を思い出す。


「付喪神さま、なのですか?」


 老人は胸を張った。


「そうとも!」

「付喪神……」


 スズが息を呑む。


「姫様。付喪神が、見えているのですか?」

「……どうやら」


 自分で答えながら、リディア自身がいちばん信じられなかった。老人はそんなリディアをよそに、割れた茶碗をぽんぽんと叩いた。


「先々代の坊ちゃんが子どものころから使われてな。いやあ、いろいろ見たぞ」


「いろいろ?」


「泣いた子、笑った子、夫婦喧嘩に、祝い事。熱い茶を入れられたり、酒を入れられたり。落とされたことも一度や二度ではない」

「それで、こんなに修復の跡が」

「そうじゃそうじゃ。あの坊ちゃん、手が滑るんじゃよ!」


 老人は愉快そうに笑った。


「それでも捨てずに、何度も直してもろうた」


 その声が、少しだけ柔らかくなる。


「百年も茶を受けりゃあ、もう十分じゃ」


 老人は満足そうだった。


「最後に、ええものももろうたしな」

「ええもの?」

「お嬢さんの、あれじゃよ」


 老人はにっと笑う。


「祝福というものを」


 リディアは息を呑んだ。


「どんな感じだったのですか?」

「そうさなあ」


 老人は髭を撫で、しばらく考えた。


「よく働いたなあ、と」


 ぽつりと言う。


「もう終わってよいぞ、と言われ達成したような心地がした、そして、別の未来へとつながるような」


 リディアは何も言えなかった。婚礼の夜、アキツグが言った言葉を思い出す。役目を終えたものに、よく務めたと声をかけることもある。あのときは、よく分からなかった。けれど今。その言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした。


「ありがとうな」


 老人が言った。その身体が、淡く透け始める。


「待って」

「なんじゃ?」

「あなたは……消えてしまうのですか?」

「そりゃあ、茶碗が割れたからな」


 あまりにも当たり前のことのように答える。


「怖くは、ありませんか」


 リディアは尋ねた。


 老人は目を丸くした。それから、からからと笑った。


「百年働いたんじゃぞ、」


 ひどく晴れやかな笑顔だった。


「もう十分じゃ」


「……そうなのですね」


「それにな」


 老人は割れた器を見下ろした。


「大事にしてもろうた」


 金色の修復跡を、小さな手でなぞる。


「壊れても、壊れても直してもろうた。よう働いたし、よう大事にされた」


 そして最後に、リディアを見る。


「よい器生であった!」


 老人の姿が、光の粒になった。ひとつ、またひとつ。春の雪が溶けるように、静かに消えていく。最後の光が消えるまで、リディアは目を離すことができなかった。後には、割れた茶碗だけが残った。もう、あの苦しさは感じなかった。ただ静かだった。リディアはしばらく、その茶碗を見つめていた。


 自分の祝福は、死を呼ぶ力ではなかったのだ。死を早める力でもない。終わろうとするものへ、


 ――よく生きたと伝える力だった。


お読みいただき、ありがとうございます!


「面白かった」「続きも読んでみたい」と思っていただけましたら、いいね・評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです!



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。