茶碗の神
それから、ひと月ほどが経った。リディアは少しずつ、トヨミでの暮らしに慣れ始めていた。朝になれば、庭の木々の向こうから鳥の声がする。食卓には、故郷では見たことのなかった魚や野菜が並ぶ。最初は戸惑っていた箸の扱いも、今ではどうにか人前で恥ずかしくない程度にはなった。言葉も同じだった。スズたちが話す速さにはまだついていけないこともあるが、少なくとも日々の暮らしに困ることはない。
アキツグとは、毎日のように顔を合わせていた。夫婦らしいと言えるほど親密ではない。けれど、彼はリディアを避けなかった。食事を共にし、時には庭を歩き、その日の出来事を尋ねてくる。それだけのことが、リディアにはいまだに少し不思議でくすぐったく感じた。
そんな日の午後だった。ぱりん、と乾いた音がした。
「あっ!」
スズが声を上げる。茶を運んできた女中が、茶碗を取り落としたのだ。茶碗が床で真っ二つに割れていた。
「申し訳ございません!」
女中は真っ青になり、その場に膝をついた。
「お怪我は?」
リディアが尋ねる。
「ございません。ですが、その茶碗は……」
女中の視線が、割れた茶碗へ落ちる。スズもしゃがみ込んだ。
「ああ。とうとう割れてしまいましたか」
「高価なものなのですか?」
「いえ。そういうわけではありません」
スズは少し寂しそうに笑った。
「先々代のころから、このお屋敷で使われていたものだそうです」
「そんなに長く?」
「はい。何度も欠けては直して。もう百年近いのではないでしょうか」
「百年……」
リディアも茶碗を見る。真っ白な器ではない。ところどころ色はくすみ、表面には細かな傷があった。割れた断面の近くには、金色の線がいくつも走っている。過去に修復された跡なのだろう。何度壊れても、捨てずに直されてきた器。トヨミへ来る前のリディアなら、古い茶碗だと思っただけかもしれない。けれど今は、少し違って見えた。この国の人々は、物を大切にする。長く使われた物には魂が宿るとさえ考えている。
「残念ですね」
リディアがそう言うと、スズはうなずいた。
「ええ。でも、ずいぶん働いてくれましたから」
その言葉を聞いた、そのときだった。
――苦しい。
リディアは息を呑んだ。
「……え?」
胸の奥を、見えない指でぎゅっと掴まれたような感覚。呼吸が一瞬だけ浅くなる。知っている。この感覚を、リディアは知っていた。ずっと昔、一度だけ経験したことがある。
十二歳よりも前。まだ自分の祝福を知る前のことだった。領地で飼われていた一頭の老馬が、死にかけたことがある。リディアが幼いころから何度も背に乗せてくれた、おとなしい栗毛の馬だった。その日、厩舎の藁の上に横たわった老馬の身体を、リディアは何度も撫でた。いつものように立ってほしくて。また自分を乗せてほしくて。けれど老馬は起き上がらなかった。その首に触れた瞬間、今と同じものを感じた。苦しい。けれど、痛いのとは違う。何かが終わろうとしている、それを、身体の奥で直接感じてしまうような感覚。あの翌朝、老馬は息を引き取った。
祝福の儀を終えたあとになって、リディアはようやく理解した。あれが、《終焉》だったのだと。死の際にあるもの。その気配を、自分は感じ取ることができるのだと。
そして今、同じ感覚がある。目の前の、割れた茶碗から。
「……まさか」
リディアは呟いた。
「姫様?」
スズが不思議そうに顔を上げる。
「この茶碗は……」
言いかけて、リディアは口をつぐんだ。馬鹿な、これは生き物ではない。命などない。死とは関係がない、なのに。確かに感じる。終わろうとしている。この茶碗が。
「少し、触れてもよろしいですか」
「もちろんですが……破片でお怪我をなさらぬよう」
「はい」
リディアはそっと指を伸ばした。割れた茶碗の縁に触れる。
――やはり。
間違いない。あの老馬と同じだ。むしろ、触れたことでいっそうはっきりと感じた。長く張り詰めていた糸が、今にも切れようとしているような。もう休ませてほしいと、静かに訴えているような。リディアの胸が早鐘を打った。十二歳の祝福の儀から六年、自分の力を知ってから、一度も使おうとはしなかった。使い方が分からなかったし、何より、使うことが怖かった。死神令嬢という名を認めてしまうような気がして。
けれど。なぜか、この茶碗を放っておいてはいけないように思った。リディアは息を吸う。
「《祝福》をーー」
指先から、淡い光がこぼれた。驚くほど自然だった。まるでずっと前から、自分の中にあったものが、ようやく出口を見つけたかのように。光はリディアの指を伝い、割れた茶碗を包み込む。白い器が、わずかに輝いた、そして。
「――ああ、さっぱりした!」
知らない声がした。
「……え?」
リディアは顔を上げた。部屋には、リディアとスズと、茶碗を割った女しかいなかったはずだ。けれど声は、すぐ目の前から聞こえた。視線を落とす。割れた茶碗の上に、小さな老人が座っていた。
「…………」
リディアは固まった。老人は手のひらほどの大きさだった。生成りの着物をまとい、短い白髭を生やしている。そして、割れた茶碗の上で、うーん、と盛大に伸びをした。
「いやあ、長かった! ずいぶん働いたぞ!」
「……あなたは」
「ん?」
「どなたですか」
「わしか?」
老人は自分を指差す。それから、足元の茶碗をぽん、と叩いた。
「茶碗じゃよ!」
「…………」
「姫様?」
スズが怪訝そうな顔でリディアを見る。
「どうかなさいましたか?」
「そこに……」
リディアは老人を指差した。
「老人が」
「老人?」
「はい」
「どちらに?」
スズはリディアの指先を追い、割れた茶碗を見る。それから周囲を見回した。
「……誰もおりませんが」
リディアはもう一度老人を見る。老人は腹を抱えて笑っていた。
「見えとらん、見えとらん!」
「あなたは……」
先月、スズから聞いた言葉を思い出す。
「付喪神さま、なのですか?」
老人は胸を張った。
「そうとも!」
「付喪神……」
スズが息を呑む。
「姫様。付喪神が、見えているのですか?」
「……どうやら」
自分で答えながら、リディア自身がいちばん信じられなかった。老人はそんなリディアをよそに、割れた茶碗をぽんぽんと叩いた。
「先々代の坊ちゃんが子どものころから使われてな。いやあ、いろいろ見たぞ」
「いろいろ?」
「泣いた子、笑った子、夫婦喧嘩に、祝い事。熱い茶を入れられたり、酒を入れられたり。落とされたことも一度や二度ではない」
「それで、こんなに修復の跡が」
「そうじゃそうじゃ。あの坊ちゃん、手が滑るんじゃよ!」
老人は愉快そうに笑った。
「それでも捨てずに、何度も直してもろうた」
その声が、少しだけ柔らかくなる。
「百年も茶を受けりゃあ、もう十分じゃ」
老人は満足そうだった。
「最後に、ええものももろうたしな」
「ええもの?」
「お嬢さんの、あれじゃよ」
老人はにっと笑う。
「祝福というものを」
リディアは息を呑んだ。
「どんな感じだったのですか?」
「そうさなあ」
老人は髭を撫で、しばらく考えた。
「よく働いたなあ、と」
ぽつりと言う。
「もう終わってよいぞ、と言われ達成したような心地がした、そして、別の未来へとつながるような」
リディアは何も言えなかった。婚礼の夜、アキツグが言った言葉を思い出す。役目を終えたものに、よく務めたと声をかけることもある。あのときは、よく分からなかった。けれど今。その言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした。
「ありがとうな」
老人が言った。その身体が、淡く透け始める。
「待って」
「なんじゃ?」
「あなたは……消えてしまうのですか?」
「そりゃあ、茶碗が割れたからな」
あまりにも当たり前のことのように答える。
「怖くは、ありませんか」
リディアは尋ねた。
老人は目を丸くした。それから、からからと笑った。
「百年働いたんじゃぞ、」
ひどく晴れやかな笑顔だった。
「もう十分じゃ」
「……そうなのですね」
「それにな」
老人は割れた器を見下ろした。
「大事にしてもろうた」
金色の修復跡を、小さな手でなぞる。
「壊れても、壊れても直してもろうた。よう働いたし、よう大事にされた」
そして最後に、リディアを見る。
「よい器生であった!」
老人の姿が、光の粒になった。ひとつ、またひとつ。春の雪が溶けるように、静かに消えていく。最後の光が消えるまで、リディアは目を離すことができなかった。後には、割れた茶碗だけが残った。もう、あの苦しさは感じなかった。ただ静かだった。リディアはしばらく、その茶碗を見つめていた。
自分の祝福は、死を呼ぶ力ではなかったのだ。死を早める力でもない。終わろうとするものへ、
――よく生きたと伝える力だった。
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