東の国
東国トヨミは、不思議な国だった。
まず、神が多い。海にも山にも神がいる。台所には火の神がいて、井戸にも神がいて、大木にも岩にも神がいる。さらには、長く使った道具にまで魂が宿るという。
「物にまで、ですか?」
皇都へ向かう輿の中でリディアが尋ねると、向かいに座っていた女官のスズは、当然のことを聞かれたようにうなずいた。
「はい。百年を経た道具は、付喪神になることがあると申します」
「つくもがみ……」
覚えたばかりの東国語を、リディアは舌の上で確かめるように繰り返した。トヨミへ渡ることが決まってからのひと月、教師について会話の練習を重ねた。その甲斐あって、スズの話す言葉もほとんど聞き取ることができている。ただし、書物で覚えた言葉と、実際に人が話す言葉はずいぶん違った。スズはときどき早口になる。そのたびにリディアが聞き返すと、彼女は嫌な顔ひとつせず、ゆっくりと言い直してくれた。
「その付喪神というものは……恐ろしいものなのですか?」
「まさか!」
スズは大きく目を見開いた。あまりにも即座に否定されたので、リディアのほうが驚いてしまう。
「まあ、悪さをするものもいるそうですが。物を粗末にすれば祟られるぞ、と子どもにはよく言いますね」
「祟られるのですね」
「はい」
そこはきっぱりと肯定された。
「ですから、大切に使うのです」
「なるほど……」
理解できるような、できないような話だった。けれど、その考え方をリディアは嫌いではないと思った。輿の小窓から外を見る。トヨミへ着いてからというもの、目に映るものは何もかもが新しかった。
屋根は西国の屋敷よりもずっと低く、軒が深い。建物の壁には石ではなく木が多く使われている。道行く人々は袖の広い衣をまとい、色鮮やかな帯を腰に巻いていた。店先には見たことのない果物が並び、風に乗って香辛料とも花ともつかない匂いが流れてくる。神殿らしき建物の前を通りかかるたび、スズは軽く頭を下げた。
「ここにも神様が?」
「はい」
「では、あちらにも?」
「はい」
「……あの木にも?」
「おりますね」
「本当にたくさんいらっしゃるのですね」
思わずそう呟くと、スズがくすくす笑った。
「リディア様のお国には、神様はお一人しかいらっしゃらないのですか?」
「女神様がお一人です」
「それでは、ずいぶんお忙しそうですね」
思いもよらない返答だった。リディアは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。トヨミへ来てから、初めて自然に笑った気がした。
☆
婚礼は、リディアの故郷とはまるで違う形式で行われた。白を基調とした重たい衣を幾重にもまとい、髪には見慣れない飾りを挿した。作法は何度も教えられていたが、緊張で途中からほとんど覚えていない。ただ、夫となった男の横顔だけはよく覚えていた。
アキツグ。トヨミ皇帝の弟で、リディアより五つ年上。黒い髪を後ろで一つに束ねた、物静かな男だった。西国の男たちとは顔立ちも装いもずいぶん違う。初めて対面したとき、リディアはどこを見れば失礼にならないのか分からず、結局ずっと彼の襟元を見ていた。けれどアキツグは、それを咎めなかった。
婚礼の儀でも必要以上に話しかけてくることはなく、リディアが作法を一つ間違えたときも、周囲に気づかれないよう小さな声で教えてくれた。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
婚礼を終えた夜。二人きりになった部屋で、リディアは落ち着かない気持ちで正座していた。トヨミ式の部屋には椅子が少ない。床に座ることにも、まだ慣れていなかった。
「楽にしていい」
アキツグが言った。
「はい」
そう答えたものの、どうすれば「楽」になるのか分からず、姿勢はほとんど変わらなかった。アキツグはそれ以上何も言わなかったが、やがて、静かな声で言う。
「遠いところまで、よく来てくれた」
「もったいなきお言葉です」
「言葉は、不自由していないか?」
「今のところは。ですが、まだ聞き慣れない表現も多くて」
「分からないときは、遠慮なく聞き返せばいい」
「はい」
少しだけ間が空いた。リディアは、自分の指先を見つめた。これからこの人と夫婦になる。けれど、彼はどこまで自分のことを知っているのだろう。
「それと、一つ聞いておきたい」
アキツグの言葉に、リディアの背筋が強張った。来た。きっと、あの話だ。
「あなたは《終焉》という祝福を持つそうだな」
「……はい」
父は、知らせていないと言っていた。けれど完全に隠し通せるはずもなかったらしい。リディアは膝の上でそっと手を握った。
「どのような力だ?」
予想外の質問だった。思わず顔を上げる。
「お聞きになっていないのですか?」
「死に関わる力だとは聞いた。だが、それだけだ」
「……そうなのですね。……死の際にあるものへ、祝福を与える力だそうです」
「そうか」
それだけだった。
「……恐ろしくは、ないでしょうか?」
「なぜ?」
「なぜ、と申されましても……死に関わる力です」
「人を殺すのか?」
「いいえ」
「触れた人間の寿命を奪う?」
「いいえ」
「死を呼び寄せる?」
「そのような力でもありません」
「では、何を恐れる?」
リディアは黙った。答えが見つからなかった。正確には、答えならいくらでもあった。死という言葉が不吉だから。何をする力なのか分からないから。皆が怖がるから。家族でさえ、自分が触れることを嫌がったから。けれど、どれも彼の問いへの答えにはならないような気がした。そんなふうに尋ねられたことは、一度もなかった。
「俺には、その力が何をするものなのか分からない」
アキツグは言った。
「だから、分かってから考える」
リディアは瞬きをした。
「……それだけ、ですか?」
「それ以外に何かあるか?」
「いえ」
本当は、それだけの話だったのかもしれない。分からないから恐れるのではなく、分からないから、まず知ろうとする。それが当たり前のことのように、アキツグは言った。
「それに」
彼は少し考えてから続けた。
「この国では、死そのものを忌み嫌うことはあまりない」
「そうなのですか?」
「悲しむことはある。当然だ。だが、終わるものは終わる」
ひどく淡々とした言い方だった。けれど、冷たくは聞こえなかった。
「役目を終えたものに、よく務めたと声をかけることもある。だから、『死の際に祝福を与える』という言葉だけなら、俺にはそれほど恐ろしく聞こえない」
リディアは何も言えなかった。胸の奥に、何かがじわりと広がっていく。十二歳のころからずっと、同じ言葉を聞いてきた。死。不吉。恐ろしい。触れないで。近寄らないで。けれど今、初めて違う言葉を聞いた。『よく務めた』、その言葉が、なぜか胸に残った。
「今日は疲れただろう」
アキツグが立ち上がる。
「ゆっくり休むといい」
「……はい」
それで会話はおわった。その夜、寝台の中で、リディアは枕に顔を埋めて、少しだけ泣いた。悲しかったわけではない。どうして泣いているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、六年間ずっと力を入れていたのだ。この場所では、ほんの少しだけ力を抜いてもいいと言われたような気がした。
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