第23話「秘湯にて」
「イレギュラー・マリオネット -The Wild Guardian-」の後日談にあたる話です。
前作はこちら
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森を抜けた先――
白い湯けむりが、夜空へ向かってゆるやかに昇っていた。
「……つ、着いたのですか……?」
エルトが息も絶え絶えに呟く。
レオンは静かに頷き、岩場の向こうを示した。
「ええ、ここです。人目もありません。昔、俺――いえ、ある旅人が発見したという自然の温泉です」
湯気の向こうでは、穏やかな湯面が月光を反射し、きらきらと輝いていた。
湯に溶け込んだ鉱石の成分が淡い光を放ち、辺り一帯に蒼白い霧を漂わせている。
「お、おおお……! すっげぇ……!」
ライガは疲れも忘れたように目を輝かせ、そのまま岩場へ駆け寄った。
「なぁ、レオン兄ちゃん! ほんとにここ、入っていいのか!?」
「ああ。ゆっくり浸かると良い」
「ふ……ふへぇ……。俺、もう今すぐ浸かりてぇ……」
ルグナスも半分ほど魂が抜けたような顔で、湯けむりの向こうを見つめている。
エルトも、温かな蒸気を目にした瞬間、とろけるような表情を浮かべた。
「これは……まるで天国なのです……」
レオンは小さく笑い、ルグナスとエルトの背中をそっと押した。
「さあ、行きましょう。お二人には無理をさせてしまいましたから」
◆◇◆◇
「よーし……いっくぞ――っ!」
服を脱ぎ捨てたライガが、真っ先に湯へ飛び込んだ。
大きな水しぶきが上がる。
「うぉぉぉぉ……っ! きっもちいぃぃぃ!」
「ライガくん、飛び込むのは危ないのですよぉ……」
そう注意しながらも、エルトもゆっくりと湯へ足を入れる。
肩まで浸かった瞬間、絶妙な湯加減に頬を緩ませ、ほわぁ……と幸せそうな息を漏らした。
「~~~っ……! と、とけるのです……」
続いてルグナスも湯に身を沈める。
温かな湯が全身を包んだ途端、張り詰めていた力が一気に抜けた。
「……あー……すげぇ……。長い戦いが終わった後みてぇに、身体が軽くなる……」
ライガは横目でルグナスを見て、にひっと笑った。
「なぁ、ルグナス。今日のお前、めっちゃカッコよかったぞ」
「おっ……おう」
ルグナスは照れ隠しをするように、口元まで湯に沈めた。
隣にいたエルトも小さく笑い、そっとルグナスの腕に触れる。
「本当に……ありがとうございました、ルグナス」
「う……ん」
短く答えながらも、その耳は湯の熱だけでは説明できないほど真っ赤になっていた。
レオンは少し離れた岩場から、三人の様子を穏やかに見守る。
「なぁ、レオン兄ちゃん。兄ちゃんは入んないのか?」
ライガに呼びかけられ、レオンは傍らに置いた荷物へ視線を落とす。
「ああ。野生動物に荷物を持っていかれないよう、見張りが必要だからな」
「ええー! こんなに気持ちいいのに、もったいねぇじゃん! 兄ちゃんだって疲れてるだろ?」
その言葉に、レオンはわずかに目を細めた。
正直なところ、生前から風呂に浸かることは何よりも好きだった。
ライガがこれほど温泉を気に入っているのも、かつての自分の影響なのかもしれない。
「……そうだな。それなら、せめて足だけ浸からせてもらおう」
レオンは散らばった服を拾い、一枚ずつ丁寧に畳んで荷物のそばへ置く。
それから靴を脱ぎ、岩場の縁に腰掛けると、膝下までゆっくりと湯へ浸した。
「ふぅ……」
つま先から、じんわりと温かさが染み込んでくる。
天然温泉特有の硫黄の香りも相まって、身体の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていくようだった。
できることなら、肩まで湯に浸かってしまいたい。
しかし、何かが起きた時、すぐに動ける者が一人は必要だ。
レオンは月を見上げた。
(こうして人間だった頃の場所を訪れると、今の自分が人形であることを忘れそうになるな)
かつて、飢えや寒さに震えていた幼い自分に、ほんのひとときの安らぎを与えてくれた温泉。
知識と学びという、何ものにも代えがたい宝を与えてくれた恩師。
乾ききっていた心を、愛で満たしてくれた恋人。
他人から見れば、どれもささやかな出来事だったのかもしれない。
それでも、あの頃の自分を支えていたものは、確かに存在していた。
ただ、自分から目を閉ざし、そのすべてを見失っていただけなのだ。
(目を開き、前へ進むことを諦めていなければ……違う未来もあったのかもしれない)
けれど、どれほど悔やんでも、過ぎ去った時は戻らない。
今となっては、時折髪を揺らして通り過ぎる風のような、遠い記憶にすぎなかった。
◆◇◆◇
「見ろよエルト! ほら、この泡! 押すとぷくってなるぞ!」
「はわわ! 本当なのですっ! すごいのです、ライガくん!」
湯けむりの向こうで、ライガとエルトの楽しそうな声が弾けていた。
二人は岩肌に付着した小さな湯の花を眺めたり、湯面を叩いて波を起こしたりと、まるで幼い兄弟のようにはしゃいでいる。
レオンは岩場の縁に腰掛けたまま、その様子を静かに見守っていた。
ふと、湯の中を進んできたルグナスが、レオンのすぐそばの岩に腕を預けた。
その顔には、先ほどまでの安らいだ表情はない。
視線はライガとエルトに向けられたまま、わずかに眉が寄っている。
「……どうしました?」
レオンは湯に浸した足をわずかに動かしながら、隣にいるルグナスの横顔を見た。
「浮かない顔ですね、ルグナス様」
「べ、別に……」
返事は早かったが、声はどこか濁っていた。
レオンは湯けむりの向こうへ視線を戻す。
「エルト様、楽しそうですね」
「……ああ。すげぇ楽しそうだな」
その声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
ルグナス自身は気づいていないのかもしれない。
だがレオンには、その胸の内が痛いほど分かった。
「エルト様がご無事で、本当に良かったですね」
「……っ」
ルグナスが小さく喉を鳴らす。
しばらく迷った末に、ぽつりと零した。
「……俺より、ライガと一緒にいる方が楽しいのかな」
レオンは表情を変えず、静かに答えた。
「そんなことはありませんよ」
「でも、あんなに楽しそうに……」
「魔物が襲ってきた時、ルグナス様が真っ先に飛び出したのは、エルト様を守ろうとしたからですよね?」
「う……っ」
「そしてエルト様も、あなたが傷つくたびに、誰より心配していました」
ルグナスの目が、わずかに揺れる。
「だからこそ、俺はお二人の絆を信じ、ルグナス様ならエルト様を守れると判断して囮役を引き受けたんです」
ルグナスは言葉を失った。
聞こえるのは湯が岩肌を打つ音と、向こうではしゃぐ二人の声だけだ。
「ルグナス様。あなたが思っている以上に、エルト様はあなたを信頼しています」
「……そう、なのかな」
「ええ」
レオンの返事には迷いがなかった。
ルグナスは再びエルトの方へ目を向け、ようやく肩の力を抜いた。
しかし、安堵した表情はすぐに曇る。
「……俺、この先もあいつの隣にいていいのかな」
レオンはその言葉を聞き、胸の内で静かに息をついた。
かつての自分なら、どうしただろう。
想いを胸の奥に閉じ込め、失うことを恐れたまま、何も伝えずに終わらせていたかもしれない。
言葉にしなければ、届かない想いがある。
そのことを、レオン自身が誰よりもよく知っていた。
「では、その気持ちを言葉にしてみてはいかがでしょうか」
「えっ……!」
ルグナスが勢いよく振り返る。
レオンは穏やかな笑みを浮かべた。
「一緒にいたいと思った時が、伝えるべき時なのではありませんか?」
「……お、俺……」
湯気の向こうで揺れるルグナスの顔が、みるみる赤くなっていく。
レオンは少しだけ間を置き、静かに問いかけた。
「エルト様のことが、お好きなのでしょう?」
「……っ!」
ルグナスは反射的に顔を湯の中へ沈め、ぶくぶくと泡を立て始めた。
その肩が震えているのは、寒さのせいではない。
レオンは微笑んだまま視線を逸らし、それ以上は何も言わなかった。
今の彼には、少しの沈黙が必要なのだろう。
その時、湯けむりの向こうから二人の声が響いた。
「エルト! 見てみろ、この岩! なんかハートの形してねぇか!?」
「本当なのです! ……わっ!? す、滑るのですっ!」
「おっと! 危ねぇ!」
足を滑らせたエルトを、ライガが咄嗟に抱えるように支えた。
「ありがとなのです、ライガくん……」
「へへっ、任せろって!」
その光景を見たルグナスの背中が、ぴくりと動く。
やがて湯の中から顔を上げ、情けないほど不安そうな声を漏らした。
「……好きだって言って、今の関係まで壊れたらどうすんだよ」
レオンはすぐには答えなかった。
確かに告白したからといって、必ず同じ想いが返ってくるとは限らない。
無責任に成功を約束することもできない。
それでも――。
「それは、気持ちを伝えてみなければ分かりません」
「……」
「ですが、どのような答えであっても、エルト様ならあなたの想いを真剣に受け止めてくださるでしょう」
ルグナスは黙ったまま、レオンを見つめる。
「勇者だからでも、誰かを守ったからでもありません」
レオンは静かな声で続けた。
「ルグナス様自身の言葉で、ルグナス様自身の気持ちを伝えるのです」
「俺自身の……」
「ええ。それならきっと、あなたの本当の想いは届きます」
ルグナスは湯の中で拳を握った。
その瞳が、ゆっくりとエルトへ向けられる。
エルトはライガのそばで、無邪気な笑顔を浮かべていた。
ルグナスは喉を鳴らし、強く唇を結ぶ。
「……俺、言うよ」
声はまだ震えていた。
それでも、先ほどまでの迷いは薄れている。
「怖いけど……何も言わないまま諦める方が、もっと情けねぇから」
そして、ルグナスは湯の中から立ち上がった。
「……ありがとな、レオンさん」
「俺のことは、呼び捨てになさってください」
レオンはそう答えると、穏やかな笑みを返した。
想いを伝える決意を固めた、その瞳。
それは、かつてすべてを諦めた自分よりも、ずっと強く、眩しく見えた。
(大丈夫。君は充分に勇気ある者だ。あの頃の俺など、足元にも及ばないほどにな)
湯けむりの向こうへ進んでいくルグナスの背中を見守りながら、レオンは静かに目を細めた。
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