十九 人道
時は流れて山寺の麓の六地蔵――かつての野ざらしの六地蔵ではない。今では赤いべべと笠まである身となっていた。
いつものように川向こうの村、そのさらに向こうから陽の上る朝のこと。水汲みの僧が掛けてくれた水も乾いた頃。今の地蔵の最大の楽しみがやって来た。
「今日も暑い。ねぇ腹帯はずさない?」
「何を言ってるんだ。駄目だろ? 暑いなら仰ごうか?」
「いいわ。あんたやりだすとずっとするし。手が曲がりそうで怖い」
それがこの男女。大きな男と比較して小さな女の二人。もっと小さいのもいれれば三人であろうか。
今朝も元気のよい掛け合いをしながら歩いて来た。
「あーそれと今度お祖父様のところに行かないといけないのよね」
「師匠――じゃなかった御隠居の? 何の用だ? 俺が畑の帰りに寄ろうか?」
「いい、いい。ほら正式に道場を松原さんに譲るじゃない?」
「うん」
「式典じゃない? 晴れ姿じゃない? お祖父様に良い物を着て頂かないといけないじゃない?」
「ない」
「えー着物縫おうよ」
「せめて今はやめてくれ」
「いいじゃない。この子も機織りの音は好きなはずよ? 両親がそうなんだし」
「待て待て待て。反物から作る気だったのか?」
「えーいや」
「糸から紡ぐ気だったのか。間に合わんだろ」
「良い物を着て頂き」
「作りたいだけだろ」
「――だけどぉ」
「はぁ分かった。どうせ言うても利かぬしな。ならせめて、子の無事を地蔵にお頼み申すぞ。ほれ、屈めるか?」
「あ、うん」
娘は男の手をとってゆっくりと屈む。別にそのようなことをするまでもないというのに。わざわざ頭をこちらより低くする。その度にこけぬか心配になる。
そもそも地蔵は人道を守護する大清浄地蔵であるから、頭など下げねども。片手間で通りすがりの会釈だけでもその願いは利くというのに。この二人は実に丁寧に毎朝祈って行く。故にこの二人が毎日やってくるのは楽しみであった。
「おや坂下殿。お揃いで毎朝精が出ますな」
「これはこれは、おはようございます」
「ああ、かや殿はそのままで随分お腹も大きくなりましたな。そろそろですか?」
「そうですねぇ。もうちょっとかなぁ」
降りて来た一人の僧。二人より歳は大分上だが、山寺では若いと言われている僧でまだ頭にも青みが残る。二人の横に立つと挨拶を交わし、地蔵に手を合わせる。
「冬には間に合わせますよ!」
「はは、確かに去年は暖かかったですな。しかしご無理はいけません」
「まさか無理だなんて。去年は悪阻で大分やられてしまいましたから。今年はもっともっと縫いますよ」
「――かや」
「大丈夫大丈夫。冬の話だから。生まれてからだから」
「なら生まれる前は落ち着くということだな」
「あ、いや、それは――もー心配しすぎ」
「はは、しかし幾ら心配してもしすぎということはないでしょう。お一人の身体ではないのですから。それに衣も随分縫って頂いておりますし」
「駄目ですよ。そう今年は綿入れ用意しますからね」
「え、なかった――のか」
「らしいわ。山の上でしょ? 死人がでるでしょ? 縫わないといけないでしょ?」
「いや、長年それでやってきたわけだから。それに――ほら! 修行で要らないとかではありませんか?」
「いえ、それが――面目ありません。何せボロ寺でございまして」
「ほらほらぁ、これは縫わないといけないなぁ」
「お頼み申します」
なるほどと地蔵は頷くところであった。この腹の大きな娘は針妙なのだ。寺の衣を繕うことで生計を立てている。だから僧たちの衣も、かつてのツギハギの目立つボロでなく。黒ずみの残る灰がかった僧衣でもなく。綺麗な白と紺の僧衣になったのだと得心がいった。
「ですが――ご自愛ください。少なくとも生まれるまでは」
「だ、そうだぞ」
「うっ」
「では私はこれにて――」
僧が立ち去る。と娘は再び男の手を取り屈み直す。いつものように六体分、目の前にて祈っていく。
その表情は真剣。子を持つ母の顔。恐らくはこれまで地蔵が見て来た女たちも産む前はこのような覚悟の顔をしていたのだろう。
故に地蔵も応えるように祈った。
二度とここに子を置く女が出ないように。少なくともこの娘がそうならんことを、目の前の母に負けぬほどの覚悟で。
「これでよし、と。そうだ。ね、どっちがいいの?」
「どっちとは?」
「男? 女? ほら男だった何させたいとかさ」
「ああ――そんな先のことを言ったら鬼が笑う」
「そうだけどさ。何かないの?」
「そうさな」
立ち上がった男は暫く見上げて考えこんで――
「元気だったらいいさ」
夏。灼熱の陽の下、止めどなく鳴き続ける蝉たちの中。青々とした山の木々の上。
盆の迎え火から上った一筋の煙を見上げて、男は微笑みながら答えた。




