十五 然全
然して全てを失った弟に宥仁はある歌を聞かせた。
『月影の いたらぬ里はなけれども 眺むる人の 心にぞすむ』
浄土宗の宗歌。開祖・法然が詠んだ歌である。
月灯りはどこにでも降るが見ようとしなければ見ることが出来ない――意味はこうなる。浄土宗の宗歌であるから意味はこれだけではない。
ここで言う月灯りとは無量光を意味する。無量光は阿弥陀如来の慈悲の心、尽きぬ救いの手のこと。即ち、この歌の本意は救われようとしなければ救われぬ。である。
だが弟にはそれを理解することが出来なかった。理解してもそうするには値しないと思い込んでいた。自ら救われる道など、歩んではならぬと思い込んでいた。
「何故っ――何故だ!」
不可避の理不尽に晒されたものは皆同じ言葉を発するのであろうか。かつての然全と同じ言葉を目の前の若者も発した。かつての然全と同じように身を掻き、床に爪を立てる。ただただ虚空に向かって声を上げる。
まるで生まれたての赤子のように、手を伸ばして求むる。
何も答えはなくとも、何も返ってこなくとも。
このまま答えが得られなくば然全と同じ道を辿るのは必然に思えた。けして上を向く日は来ず、その目に月が映ることもない。
それほど深く、それでいて熱い。それは地獄の血の池の底もかくや。
身は焼かれ、息も出来ない、纏わり付く粘りに身体もまともに動かせない。
かつてその深みに嵌った宥仁は師に頼った。
もはや口を開くことのない弟、まともに歩けぬようになった弟、夜毎叫び眠ることの出来なかった弟とともに救いを求めて。
「ついて来なさい」
師はまっすぐな視線のままそう言う、すっくと立って、歩き出した。
山を登り、下りて川を上る。目指す先には断崖、近づくけたたましい水音。着いた場所は滝であった。崖上の高い場所から細く幾本にも別たれた滝。高く跳ねる水飛沫は宥仁の背ほどにもなる。槍の如き強き勢いにて降り注ぐ滝の下、禮裕は躊躇わずに頭を差し出した。
ついで宥仁も然全も入ると禮裕は口を開く。
「仏説 摩訶般若波羅蜜多心経」
稲妻のような水音の中でも不思議とはっきりと聞こえる。
『観自在菩薩菩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩提薩タ 依般若波羅蜜多故
心無ケ礙 無ケ礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
故説 般若波羅蜜多呪
即説呪曰
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶 般若心経』
般若心経――もっとも有名な経だろう。もっとも宥仁は知らなかった。何度も聞いているものの、覚えていても最初と最後の数行のみ。
ただたった二六二字の経であるからその日の内に覚えた。
だが経を理解したわけではないし、禮裕が唱えさせた真意も理解できなかった。
――何故これを唱えさせたのか。
何故多くの宗派がこれを唱えるのか。
これの何が今、然全と自分に必要なのか。
訳も分からず、ただ滝に打たれた。滝の痛みと冷えだけは、胸の内を忘れさせる。
だが、それだけ。
毎日毎日滝に打たれ経を上げても、何かが分かる時は来なかった。
一月経って、桃色の花びらが滝に混じって流れ落ちる頃。滝に痛みも感じぬようになっていた。何も考えず打たれ、経を上げ続けた。
それでも何も見えない。意味が分からない。
更に時は過ぎ、勢いの増した水流で滝に打たれることが出来なかった時期。宥仁は書に当たった。生まれて初めて学を求めた。
経の意味を知るために、字一つ一つの意味を探り、やがて言葉の意味を解すに至る。それでも経の意味すべてを浚えたかと言われれば分からない。
だがひとまず、門前の小僧に至ったと思えた。
紅葉流るる滝に当たり、思いを馳せるは釈尊の心。十大弟子が汲み取り伝えるべしと判断した理由。
ようやく仏門を進む決意たるものが生まれた瞬間であった。
そうして水の冷たさが身に染みる季節がまたやってきて、宥仁もようやく分かって来たことがあった。般若心経を唱えさせた禮裕の思いをである。
諸行無常、有為転変、万物は常に変じつづけて一定を保つことはない。
苦しみや憎しみも何れ転じて去る
死した魂も、また何れ生まれ来る
故に死を悲しまなくていい
故に死者の苦しみを慮って憤らなくていい
今、空に戻った御霊の行く末に祈るべし
元に戻ろうという、かつてのままであろうというのは虫の良い話である。
変わったこと。変わることを自然と捉えるべし。
経の響きは宥仁にも注意しているようだった。
お陰で宥仁は諦めるに至った。
人の生には苦があるものであると
いつまでも過去を取り戻そうと藻掻くのは執着であると
諦とは仏教においては真理を意味する字である。
だがそれは宥仁のみが至れた境地。
然全はまるで諦めることが出来ないでいた。
夜毎上げる苦悶の声。かつて贈った白い衣を見ては唇から血が滲まんばかりに噛みしめ。口を開けば怨念籠った言葉が溢れ出す。
故に修行も手につかず、掃除一つ満足に出来ない。まともにも眠れないまま、前を向く気力も尽きたのだろう。自らを罰するかのように滝に打たれ続け。座禅の最中も満身に籠った力を払えず、辞めさせなければ倒れるまで座り続ける始末。
禅にて自分は救われた。
だが禅では弟は救えない。
ならばと宥仁は六地蔵へと然全を連れ出した。
手をあわさせて、祈りを捧げさせようとする。
「何故――?」
“助けなかった地蔵に何を祈ればいいのか”――そう言いたげな目。
「確かに幾ら祈ったか分からん。だが祈れ」
「何故にだ。何故。何を祈願すればよい」
「何も取り戻せぬ。だから苦しいのか? なら何故仇を討った。人を斬った。斬ったとて何も取り戻せぬと分かっていたろう」
「あんなことをして――生かしておけるかっ!」
「ならお前は気を晴らすために斬ったのか」
「ちが――違うっ! 俺は俺はさわと――」
「そうだ。妻子のために人まで斬ったのだ。妻子のために祈るがいい」
「だから何故にこの――」
「地蔵尊が故にだ。何故、地蔵尊は六体おわすと思う」
「知るかっ」
「天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄――この六つの世、六道それぞれを見守るため。これら全てに居る衆生全てをお守り下さるためにだ」
「なら――!」
言いたいことは痛いほど分かる。だからこそ無視して続けた。
「儂もお前もここで生まれた。あの寒い日に生き残れたのは誰の、何のお陰ぞ」
「――それは兄者っ」
「引き合わせたのはこの地蔵尊よ。ここに六地蔵があるから子を置いたのだ。赤子を守護して下さるからな。赤子の苦しむ泣き声に耐えられる仏ではないのだろう」
「泣けなかったから――助けて下さらなかったと」
「だが今は泣いているやもしれぬ。泣いてる赤子を助けたもうと、今は手を合わせるより他ない――ないのだ」
然全は崩れ落ちた。
首を垂れながら手を合わせる。
それからというもの然全は少しづつ顔を上げた。一人で歩き、修行にも邁進した。夜も静かであり――代わりに身体は痩せた。
ある僧は修行の成果と言う。
禮裕も不浄が削げ落ちたのだと語っていた。
宥仁にもそう見えた。少なくともかつてより――
「良くなった。そう見えた」
「――良くなった?」
「そうだ。夜叫ぶことも減った」
「なんだ。なんの話をしている! 違うだろう。そうではないはずだ! それならば斬りはしない。父母は斬られることもなかった。それならば仇を討たずに居れたわ!聞きたいのはそれではない。そうではない! 何があって斬ったのか。何で時を経てから斬ろうと思ったのだ。何故! 何故! 何故っ!」
限界に見えた。いやそれは最初から分かっていたこと。この後に及んでも宥仁は時間稼ぎをしていた。
時を稼いでも何もおきはしないというのに。時は何も解決しないことは痛いほど分かっているというのに――それでも口を開けない。
「――っ」
開こうとしても意に反して閉じてしまう。硬く閉ざされてしまう。宥仁の強靭な唇は幾ら力を込めても開けない。
新之丞の刺すような目線にも応えることが出来ない。新之丞の傷だらけの手が伸びて――顔を背けてしまった。
「何故言えぬ! 今更何を隠す。これ以上――何があるっ!!」
「それは――っ」
宥仁は墓まで持っていく。と決めていたことである。
それ知らば終わり――弟もそうだった。
あの頃の弟の姿は今にも夢に見るほど。
「何故なのだっ!」
新之丞は、あの頃の弟と同じ言葉を吐き出した。
それは生まれて初めて宥仁に向けられた咆哮であった。やり場のない憤怒をぶつけられたことはあるが。宥仁自身に対する怒りは初めてのこと。。
「討てどもかわらん。いや悪くなろう」
「ならんさ。なるわけがないっ」
「今の有様で何を言う。それにな討てば恨みが残る。怒りに任せて人を斬らばそこに怨念が生まれよう」
「生まれたからどうした。仇討ちを呼ぶか? それが例え悪党だとしてもか! 誰も仇を討とうと思わぬ、下卑た男だったとしても」
「そうだ」
「だがっ」
「恨みは残る。斬られたものの恨みが。絶命するその時まで、否、死して尚。どこにあっても恨み続けるであろう。それがお前を苛んでいる。それに苦しんでいるのだ。今度も同様。ひと時は晴れるであろう。だがそれは刹那。その後は同じだ。お前は怨念に苛まれて悶え苦しむ。妻子に祈るのも忘れてのう」
「だがっ――だがっ」
「分かっているはずだ。あの刃はお前を狙ったものであっても。妻子を狙ってはなかったと。それほど卑怯な男であったのか? そこに意味を見出す下劣な弟子を長谷野殿が育てると思うのか?」
そう声を掛けると弟は糸が切れたように倒れて眠り込む。
「分かった――恨みは残さん」
背を向けたまま弟はぽつりと言った。
それが最後の言葉だった。
だから宥仁は救わねばならぬ。
自ら修羅に落ちた弟の最後の言葉。それが真実、嘘にしないために、その怨念を晴らさねばならない。
「――っ」
だが言えぬ。だからこそ言えぬ。
これを言っても救えない。言ってしまっては救えない。
「そう――か――やはり――終わりか」
新之丞はそう呟くと。
「抜け出す――答えはないということか――もはや――かくなる上は――!」
懐から手を抜く。新之丞の右手に握られていたのは一本の棒。一尺ほどの短い木の棒に見えた。
すらりと音がして――頭上に掲げたそれは月明かりを跳ね返した。
「――待てっ」
白鞘の刀身――勢いは止まらず。
止めねばならない。
救わねばならない。
理不尽に晒された者の刃の行く先は痛いほど知っている。
宿業に憑りつかれた者の行きつく先を、見て来たからだ。
――それだけは駄目だ。
それでは意味がない。
作太の死に甲斐がなくなる。
怨念を晴らすことが叶わなくなる。
一瞬、愚かにも宥仁は自分のことのみが頭にあった。
故に瞬間、声を発してしまった。
“何故”と問い詰められた禮裕が宥仁を呼んだ理由。けして言わぬと誓った言葉。もはやこの世では宥仁しか知り得ぬこと。
「――お主だ」
愚かにもかつて宥仁は然全を連れて里に下りたことがあった。
愚かにも宿場の南側なら道場の影もなかろうと思って。
愚かにも夏祭りの準備の最中の活気の中、慌てて走り回る男衆、びんささらを持ち駆ける女衆、何が面白いのか笑い転げる子供らに目を奪われ。
愚かにも低い塀の向こうに何があるのかも知らず。
愚かにも然全が立ち止まるまで何も気付くことがなかった。
その塀の向こうには親子があった。板張りの道場の縁側に座った派手な着物の女の目線の先、庭では厳しい眼差しの道場の主。そしてその目の先には木剣を振る子。
「――私――が?」
愚かにも宥仁には分からなかった。顔も声すらも知らぬ相手。
だが立ち止まった然全から流れ来る風に怖気があった。目深に被った笠の上から尚痛いほどの日差しがあって寒気が背筋を伝る。
宥仁の目は塀を舐めて門を探した。然全の後ろから、自身の背まで身体ごと回して見つけた門の柱に掛かった看板。
そこには『煤宮一伝流』の文字があった。
「そうだ。道場にて剣術を習っていた、お主を――見たのだ」
突風が吹いた。木々は揺れ、蝉は飛び立ち、庵を軋ませ叫ばせる。
長く続く風は雲を運び、群雲を一つにまとめ――月を覆い隠した。




