十六 修羅道
かつて石の身体に刃が通った。いっそ気持ちよいくらいの鋭さで、何が起きたのか分からなかった。
――救うてくれるなよ
その言葉が落ちて転がった首に投げかけられて、ようやく分かった。
斬られたと分かっても、地蔵の心には何も浮かぶことはない。
それは見事な斬撃だったからではない。斬った男、投げやりな言葉を吐く顔。あの若者だった。妻も子も救えず、この若者すらも地蔵には救えないだろうと思ったからだ。
そうして首のないまま時は過ぎた。
次に首が戻った時、目の前にあったのは岩の如き大男――地蔵は再び忸怩たる思いに駆られた。
大男の苦虫を噛み潰したような顔を見て、歯噛み出来ればしていただろう。
「あーもう、お月さん出てるじゃない」
悔恨の念に苛まれる耳に聞こえて来たのは元気な声。
「こんな遅くなるならまっすぐ帰るんだった」
夜、寺にしか通じない道に、若い娘の声が耳に入った。
「あら、こんなところにお地蔵さん。流石にちょーっと怖かったのよねぇ。居てくださって良かった」
その時、雲間から月が覗いた。地蔵の前だけを照らし出す一筋の細い月明かりにて桜色の着物の娘が照らし出される。
「ひぃふぅみぃ――丁度よく六人も」
怖がっていたとは思えない軽い調子である。笠をとればやはり下にはうら若い乙女の姿。なにやら髷に布を巻き、筥迫を懐から覗かせた洒落た格好。月に照らされ顔は
明るく輝いて見えた。
“襲われても知らぬぞ”と口が利ければ忠告しただろう、眉が動けば顰めていただろう。
「こりゃきっと御利益あるよねぇ。一つお願いしちゃおうかしら。えーとお供え物に出来そうなのは――お地蔵さんって言ったら食べ物かぁ。握り飯食べちゃったし――んー嫌らしいかな? ま、でも、一つこれでお願いします」
地蔵の知る女はいつも辛そうな顔をしていた。子捨て地蔵、子産み地蔵とも呼ばれるこの場では、女とは我が子との今生の別れの悲壮感漂う顔しか知らない。
だからこそこの娘の明るい顔には好ましく思った。月明かりの下現れた娘は天女の如く見えた。
「えーと、こっちからよっつめだよね」
娘は赤銭を六つの地蔵にそれぞれ供え。わざわざ数えて自らの前でしゃがんで手を合わせる顔は明るさからほど遠くなり――その顔はこの地蔵の前でついには影を感じさせた。
この修羅道を守護せし、清浄無垢地蔵の前で。
「とりあえず、この闇夜の中無事に帰れますように。それと――もう一人、あいつがどうか無事でありますように――」
目を伏し、口を真一文字に結んだ娘の顔には痛ましさがあった。つまり娘は新しい身体の明るい色に惹かれたわけでなく。己の氏素性を分かって手を合わせたのだ。
修羅道を歩む“あいつ”のために祈ったのだ。
ふと地蔵の頭に子の情景が浮かんだ。
頑なで、喋ることなく、拒絶し、夜を一人耐え忍ぶ男子の姿が。
――おお、この顔は
横から声があった。
――この若者は――修羅――あの忌わしき庵の宿業――飲まれし男
右から左から次々声があがる。
「どうか――お救いください」
悲痛な祈りを救うは己が役目であるというのに悩んだ。
挙句それはここで生まれた禍根であるというのに。
今は首もあり目も見えているというのに。
救い手を伸ばすか悩んだ。
救えば救われる者の因業を歪ませることになるからだ。
輪廻にてどこへ生まれ変わるかは、それまでの生き様で決まる。今生の業が来世を決定づける。悪しき行いをして来たならば苦悶の道へ、善き行いを積んで来たならば極楽の道へ。
ならば救って極楽へ――とはならない。
何故ならば苦も楽も煩悩であるからだ。輪廻を繰り返しそれらを身に染みることで煩悩から解き放たれ涅槃に至るべきであるからだ。
「――どうか」
軽々には救えない、救ってはならない。業を歪めれば、行く末も歪むもの。歪んだ道を辿っても涅槃に遠ざかることはあっても近づくことはないからだ。それはつまり煩悩に苦しむ生を長引かせることになるからだ。
短絡的な救いは結果的に更なる苦を産むからだ。
「――どうかっ」
三度頭を下げる娘の目には光る物があった。
だからだろうか。
目を失い、首を失い、見ることも知ることもなかった因業に端を発した事柄であるからか。
地蔵とて、心の動きの言葉に出来なかった。
この因業の終焉を今生で救済とすべき――いや、ただ“救おう”と思った。
「わっ」
さすらば空の雲は急激に動く――少し遅れて風が吹いた。
「わっ! なっ! とととっ」
南から吹き付ける湿気た重い風が娘を押した。橋を渡らんとする娘の身体を北側の川上の森の中へと押し込んだ。
「あれ? ここ――道? 人が踏んだ跡だよね。こんなとこ獣は通らないだろうし」
地蔵は再び目を瞑る。
今度は逆側から風が吹いた。先程と違い緩やかな北風。少しの涼と森の奥から轟く声を運びながら。
「あれ? 声? 誰か――居る?」
ついに娘は奥へと歩いていく。
空の雲は晴れた。ど真ん中に煌々と輝く真ん丸の月。
地蔵は動かぬはずの口の端を思わず上げた。




