十一 作太
老僧と若者は六地蔵の前を曲がり上流へ、川沿いの道なき道を行く。
川沿いの木々は夏の日差しを受け、枝振りも良く葉も茂る。必然、下は薄暗くなりまた土も乾き切らない柔さを保つ。あまり見えない禮裕にとっては実に歩きにくい――のだが、草木を分けるように、岩で押しつけ固めたような道があった。
「このような場所に何が?」
「庵が見えませぬか?」
「ええ、いえ」
「そうですか。また一段と草木が茂ったのでしょうな」
「御坊、目が?」
「まったく利かないわけではないのですが。こう暗いと愚僧には夜の闇に等しく」
「庵でしたな。私が――」
「いえ、慣れた物です。このくらいは――ああ、それにこの香り」
甘い香り。先の梅雨が去った後。実った果実の香り。もはや禮裕の目には黒にしか映らない懐かしさ感じる果実の香り。
「そろそろ、見えますでしょうか?」
「ああ、確かに。しかしあれは、蔦も絡まり木の枝も乗っておりますし、随分使ってないように見えますが――」
「ええ、その昔。寺の者が建てたのです――さて、開いてくれますでしょうか」
話ながら手で戸を探り、ようやく引手に掛かる。のだが、手は動かない。
「私が開きましょう」
「――いえ、少し硬くなりました」
嘘ではない。だが開けるのに苦労するほどでもなかった。幾ら心苦しくとも、開けはなつべき――心中で自らに言い聞かせ、枯れた身体に鞭を入れた。
開け放たれた戸。中から溢れるのは熱気ばかり。据え臭いもカビ臭さもない。禮裕は不思議に思った。同時にとある顔も浮かんだ。
「――坂下殿。どうぞ」
「いえ御坊こそ」
「いやいや、客人は坂下殿のほうでありましょう。それに愚僧は目が悪い。奥の座はちと難しくありまして。近くが良いのでございます」
そこまで言ってようやく「分かり申した」と奥へと座る。
優しい子だ――と思った。
仇の親とも言える相手に対して、しかもはぐらかすようにしか見えないであろうにこうまで礼節を守ろうとするのだから。
禮裕はそれを見て自身も座ると「さて」と早速本題を切り出した。
「そろそろ盆ですな。時に今、道場では盆飾りなどを――」
「御坊、時候の挨拶は結構。本題から入っていただきたい」
「否、これこそがお伝えしなければならない話でござりますれば」
「盆の用意が本題と仰せか?」
「はい、間違いなく」
苛立ち紛れに身体を揺らす若者。禮裕はぴしゃりと肯定を浴びせかけた。
「では改めてお伺い致します。盆飾りは如何しておられますか? 鬼灯、芋殻、茄子――それと蓮の葉など。どうやって用意されておられますか?」
「修行で山に入りますゆえ、そのついでで調達しております。それが?」
「であれば、今は蓮の葉売りは来ないということでしょうか?」
「蓮の葉売り――?」
「ええ、季節物を扱う商売人で、その時だけ商いをする農民も居るとか」
「いえ知っては居ります。ただ先刻も申した通り、山に自ら入りますので――いつも用意できるわけではないので。市で買うこともありますが。少なくとも“来る”ことは私の知る限りはあった試しはありませぬ」
「なるほど今はそうなのですな」
「昔は違ったと?」
「いえ、その時も道場の方たちで山から取って来るというのは代わっておりませぬ。一点違うのはしばしばとある蓮の葉売りの女が――」
「来ていたと。しかし売れぬでしょう? それに市への途中にしても外れかと」
「そうでしょうな。ただ、その蓮の葉売りの女は行事のある時期になると道場に来たそうです」
果たして何か察したのか若者は黙った。固唾を飲む音さえ聞こえそうなほど、張り詰めた熱気の中でじっと禮裕の言葉を待つ。
「しつこく道場に参った蓮の葉売りは実に“らしく”あったそうです。歯切れの良い威勢のいい、蓮っ葉な喋りの女であったと――そう愚僧があれから聞いたのは、久方振りに寺に戻って来た時のこと。いえ少なくとも愚僧が話したのはですが――」
禮裕は目を閉じると、前には未だ若き作太の姿が現れる。年は十五、六。まだ髪の艶と幼さの残る姿の作太の姿が目前にあった。
「何度断っても売りに来るのです。しまいには知り合いを紹介してくれと。家は山寺だから自前で用意できると申したのですが。これがまったく引き下がらない。挙句に毎季節ごとにやってくる。それも八王子から、厚木までずっとですよ」
元気に身振り手振りを交えた喋り。時には身を乗り出し、口には笑みを浮かべて、やや早口に捲し立てるように、無邪気で上機嫌な喋り。
初めて見せた顔であった。
禮裕の記憶の中にはなかった表情。初めて乳を呑んだ時よりも良い顔をしていた。
「なるほど、実に素晴らしい働き者なのですね」
「そう――働き者、んんんー」
腕組み、首を捩じるように考える動きも実に童のようである。
「違うのですか?」
「違うといいますか。時に仕事を放って水遊びをしたり、売り物を自分で食べたりとむしろ――怠けているような」
「ふむ、では働き者ではない?」
「いえ、働きます。良く働きます。女だてらに天秤棒担いで山に入って物を取ってきて市まで歩いてくるのですから。しかも八王子の方からです」
「例えば長谷野殿のような。お前の兄のような。頼もしさがあると」
「んーどうでしょうか。痩せぎすの身体ですし、あまり食事も満足でないことも多いとか。弱音を吐くこともありますし、頼もしいかと問われると違うとしか」
「働き者でもなく、頼もしくなく。しかし怠惰で八王子から市に通えないでしょう」
「はい、諦めないのです。何度断っても来ます。しまいには縋りつかれたことも――涙を流したこともありました。もっとも涙は嘘でしたが」
「それはそれは執拗な」
「蛇のようにしつこくて、すっぽんのように離さない。意地汚いと思っていました」
「今は違うと」
「はい、憎めない。あっけらかんとしているからでしょうか。寺には売れぬと分かると、すぱっと諦める。しかし次の日には立ち直っていて、別の物を持って来る。でも今度はもう嫌味がないのです」
「嫌味がない」
「はい、執拗に金を稼ごうとする者、立身だけを考える者。そういう者には、どこか嫌らしさを感じるのですが。さわにはそれがない気がします」
「さわ? 蓮の葉売りの名前ですか?」
「ああ――はい、そうです」
「なるほど。しかし何故、さわという娘に嫌味を感じないのでしょうね?」
その質問に作太は実に不思議そうな顔で再び腕を組んだ。
「むむむ、理由がありますか?」
「ありますとも」
禮裕は生まれ落ちてから、今日までずっと僧として生き続けて来た。一瞬たりとも僧でない瞬間はなかった。色即是空、空即是色と般若心経を諳んじることも出来る。だがその実”色”は知らない。
そんな禮裕でも作太の上機嫌の顔を見れば――いや、いかな朴念仁とて、ひと目で理由は分かるであろう。
ただ目の前の若者も分からぬようであった。
「その理由とは?」
おぼこぶっているのか、本当に分からないのか。惚けているようにはとても聞こえぬ真剣な声色。
あの時の作太に重なる声で再び聞いて来る。
「それは――その蓮の葉売りの女と――所謂“出来ていた”のです」
「では道場はそのせいで、辞めた?」
「はい、恐らくは」
「女に現を抜かして剣の道から外れる。聞かぬ話ではないですが。しかし、それなら何故師匠にも話を通さないのか。天才ともてはやされていて、後ろめたい気持ちは分かりますが。後ろ足で砂を掛ける理由には――弱い」
「そうですな。愚僧も最初は同じように思っておりました。事情を聞くまでは」
「それは――?」
身を乗り出す若者に、禮裕は目を細めた。
それはあの頃の明るき寺を思い起こしたから。




