十 畜生道
麓の六地蔵、その右より三番目――大光明地蔵の手には幢幡が吊るされている。仏堂を飾る荘厳具の一つ。この山寺では珍しい、華美な飾りであった。
守護せしは畜生道。悪行の報いとして畜生に生まれ変わった者たちが苦しみ抜いて死ぬ世界。
そんな畜生をも救おうと言う慈悲深き地蔵である。
「これだけ待たせて、更にどこに行かれるのか」
「あれのすべてを話さねばならぬとあれば。場所も人も選ばねばなりませぬ」
珍しく陽が高いというのに男が二人。
その内の一人、大きな男の顔が地蔵の脳裏の記憶を呼び起こす。獣の如きむき出しの敵意が、周りを威圧するような害意が、石の頭に深く刻まれた記憶を呼び起こす。
そう、それは赤い光。
夕陽に煌めく剣の閃きが、地蔵を抉ったのだ。隣の右から四番目の地蔵の目を。
「これで見られんだろう」
吐き捨てるように言いながら、刀を納めたのは侍。黒い羽織と鼠色の袴姿という場にそぐわぬ侍。腰には侍にそぐわぬ刀が一本。銀銅の二匹の蛭の巻いたような拵えの刀が一本。豪奢な拵えにそぐわぬ無骨な顔の男だった。
目を見開き、口からは牙を覗かせた、その道に落ちたならば救わねばならぬ畜生。獣そのものの顔をして侍の格好をしている男だった。
「じ、地蔵――を」
「地蔵が見てるだと言ったのは誰だ?」
「そそそそうだぁ。罰は旦那だけにしてくれぇ。ナンマンダブナンマンダブ」
対峙する二人の男は滑るように地蔵の前に座ると手を合わせた。大小の男。大人と子供ほども体格差がある二人。縞の小袖を着崩し、合わせを大きく開いた若い大男と白い物が髪に混じるほどの年の小綺麗な小男。
何れも地蔵の前でしおらしくし手を合わせているが。地蔵には匂っていた。
「し、しかし旦那。見られないようにしろとは言ってませんぜ。あっしはただ。その依頼は地蔵の前でする類のもんじゃねぇと」
「地蔵がなんだと言うのだ。それに俺はただ探して連れて来いと言ったまで。地蔵がどうという前に罪にも問われん」
「つっても旦那に会いたくないってんでしょ?」
「ただ寺に行っても“居らぬ”というだけだ」
「だからそれが――いやね。会いたくない以前にですぜ? あっしらみてぇな無宿人の言うこと聞くわけがない。しかも旦那と同じ道場で、まあ腕利きなんでしょ?」
「そうだな。同程度には評価されていた」
「そらもうあれですよ。あっしらが脅そうが無理。それなら――ねぇ?」
「つまり地蔵が見てなくても出来んということか?」
「あいやいや、そうじゃねぇすよ。ほら、こっちがね。ちょいと掛かりますぜと」
小男は指で輪を作って見せると、侍を見上げるようにした口の端を歪めて下卑た笑顔を作った。
「ふん、結局それか。まあよい。手付だ」
「ひょー小判なんてぇ久々に見た――あっ」
「出来るのか出来ないのか。男一人連れて来られるのか?」
「分かりやした、分かりやしたよ。是非にやらせていただきやす――が」
「が?」
「ああっ小判がまたっ」
侍が小判を出し入れると、釣られて大男の身体は左右に揺れ動く。
「うるせぇっ! あっしらに任せるということはその男がどうなっても構わねぇ――そういうことで?」
「その通り――構わん」
「尋常な立ち合いを望んでらっしゃるかと」
「そうさな。奴とは決着を付けねばならん。その前に道場から逃げおったからな」
「それが許せないと」
「いや、いい。それはいい。俺に恐れをなしたのだと思えば――まだ許せる。許せんのは他の弟子どもよ」
「ああ、つまり後ろ指さされてあれこれ噂されてると。奴の方が強いとかで」
「ふん、そういうことだ。奴が居れば俺は選ばれなかったとな」
「選ばれなかったとは――?」
「貴様には関係ないわ。とにかく道場の奴らに俺の方が強いと知らしめねばならん。奴と再びまみえ――剣を交えねば、俺の気がすまんわ」
「なるほど。あっしらにのされるなら、その程度ってこってすな」
「どうにかしていいのかぁ?」
「ふん、出来るならな」
「あぁ? 俺ぁに出来ないってかぁ?」
大男は立ち上がると、懐に手を入れ今にも得物を取り出さんとする。
対して侍も袖を捲り、大男よりも更に一回りは大きい右腕を晒した。
一触即発――その空気に水を差したのは小男の一撃。
「馬鹿やろう!」
飛びあがりながら大男の頭を叩く。何も入っていないような乾いた瓜を叩いた時と同じような、どこか間の抜けた音が響いた。
「すいやせんね。ったく。手前ぇは。さっきの旦那の一撃見たのか? 見えやしなかっただろうが」
「見たのか見なかったのかどっちだよぉ」
「うるせぇ。黙ってろいってんで。すいやせんねほんとこいつはこっちがちょっと」
「ふん、構わん。そんな奴にやられるようなら興味も失せるわ。貴様のその良く回る舌で言いくるめて――連れて来い」
「へい、へい、そりゃもう承りました。えーそれで首尾よく成功した暁には――」
「分かってる。後三枚だ」
「うひょーっこれで俺ぁ俺ぁもぉ――」
「ふん、成功するまで顔を出すなよ。今は大事だ。無宿人如きがうろついては困る。それに俺も忙しいしな」
「ええ、勿論ですとも。重々承知でございやす」
その言葉と夕陽を背に受けて、侍は橋を渡っていった。
見送る小男は、侍が消えるのを待って「馬鹿だねぇ」と本性を露わにする。気の弱く調子良い好々爺の仮面を脱ぎ捨て、鋭い眼光の大きく開いた口を見せた。
「あの田舎者が」
「まったくだぜぇ。何が出来るならだよぉ、あいつ俺を舐めてんのかなぁ」
「ああん? そりゃまったくその通りだろ」
「ええぇなんでだぁ?」
「さっきの話、地蔵を斬った時の――いやいい。手前ぇにしちゃ良く我慢したぜ」
「だろぉ。しかし地蔵を斬るなんて罰当たりだなぁ」
「まったくだ」
「お前にそんな信心あったのかぁ」
「ない。だがただで救ってくれるってんだから。手くらい合わせるぜ。ま、今回も銭をよろしく頼んます。ってな」
「おーそうだ。四両だ。四両これで女買い放題だぁ。吉原行こうぜぇ吉原ぁ」
「無理に決まってんだろ。金も足りなきゃ、入れても貰えねぇっての」
「えーそうなのかぁ」
「当ったり前だろぉが!」
「でもよ俺ぁもう玉ぱんぱんだぜぇ。あ、また村を襲おうぜぇ。田舎の女でいいからよぉ。ああ、女ぁ女ぁ」
「苛つくんじゃねぇよ。ったく毎度毎度、手前ぇは馬鹿がよぉ。時と場所を選ばねぇその汚ねぇ一物のせいで江戸に居られなくなったんだろうがよ」
「だけどよぉ。見てくれよ俺の玉袋の緒が弾けそうだぜ」
「なんだその――うわっ――ったく、おい! その汚ねぇ干し柿しまえ!」
「小便だよぉ。苛ついた時ぁこれがいいんだぁ」
「聞いたことねぇよ」
「初めて言ったからなぁ」
「――ったく手前ぇはよぉ」
呆れながら小男は地蔵に掛けられる小便を見つめる。
頭の後ろで手を組み――長い長い小便の音を聞きながら考え事をするように。
「まー終わったらどこぞで女でも買うかぁ」
「いいのか!」
「いいぜ。二人でも三人でも。この際だ夜鷹じゃなくちゃんと遊郭に行くか」
「おい、ほんとうだなっ!」
「小便しながらこっち向くなっ。ったく汚ねぇなぁ」
「そんなに買えないんだろぉ?」
「まあそこは俺の腕の見せどころよ」
「でもよぉ。あの侍そんなに金あんのかなぁ」
「まあな。刀こそ立派だったが、着物はぺらいし、履き物はボロのわらじ、挙句羽織は浅葱裏と来たぁ。まあ四両たってまともに払うようには見えねぇわな」
「じゃあ金ねぇじゃぁん」
「くっくっく、甘ぇ甘ぇ。なら出させるまでよ」
大男は小便を終えると、怪訝そうな顔で振り返って小男を見つめた。
「あの田舎者は話を聞く限り、どこぞの道場主なんだろ? しかも陰口叩かれて、まったく人望ないと来た」
「どういうことだぁ?」
「嫌われ者の道場の旦那さんが俺らみたいな破落戸に物頼んじゃあ駄目ってことよ。まあ見てろ俺に任せておきゃあ昔みたいに女は抱かせてやるぜ。くくく」
「へぇ、またやるんだなぁ」
口裂けんばかりに開き、歯をむき出しにして、息を吐くように笑う。二人の男もまた、人の世に人の身でありながら畜生であった。




