八 禮裕
山寺の朝は早い。明け方よりも前、まだ陽の登りきらぬ内に始まる。
金属の音の鳴り響く音――雲のような形をした青銅の雲版を叩く音によって。元来なら金属の澄んだ音であるが、この山寺では錆の浮いた雲版である。少し鈍くなった音が山の木々をむしろ力強く揺らし、寺だけでなく山の眠りをも覚ます。僧たちも、蝉たちも、鳥たちも、山全体を起こして響き渡った。
境内の外れ、木々に包まれた寺の最奥――方丈にも届く。
百年はある寺の歴史のすべてを見てきた建物である。板葺きの屋根には穴が空き、雨が振れば素通り必至。漆喰などという上等な物のない禿げた土壁は隙間というにはあまりに多くの風を、山の目覚めの音とともに方丈の中へと通って来た。
板張りの床、ゴザ一枚の上で壁に向かって座禅を組む寺の主――禮裕も雲版の音で目を開いた。乾いた木肌のような目蓋と共に唇も。
「――朝」
面壁九年――禅の開祖達磨の修行。これに倣って禮裕は禅を組み続けている。寺の仕事の後、弟子の修行の妨げにならぬように、夜に徹して行い続けていた。
すでに九年はとうの昔、もはや十五年は過ぎている。だがどこにも至っていない。何もさとっていない。迷いも救いも見いだせないまま、手足の代わりに光を失いつつあるというのに――
「もう、ですか」
夜だけが過ぎて行く。寄る年波とともに短くなる夜。もう命の先が短いのか。一晩は瞬きする間に感じる。
だが禅定にはほど遠い。
無になるどころではなく、頭の中に過ぎるのは去ったかつての出来事。とみに最近、ここ二、三日は酷く。あることが頭に繰り返し過ぎっては、呼吸すら早くなってしまう。
それは、この面壁座禅をすることになった元凶――四十余年前のこと。
朝起きたら一面の雪。久方振りの大雪に幼子のような笑みを浮かべた。寺の僧たちもそれは同じ、童子のようにはしゃぎながらの寺の総出で雪下ろし。
それが始まりだった。
「おおーい! 生まれぞー!」
声の代わる前の子の声でありながら既に濁った野太い声が寺中に響く。
この寺には余裕がない。方丈からして潰れやしないか不安な心持ちの中雪おろしをしているわけで。犬猫の面倒を見ている余裕はありはしない。
”生まれた”と言われればそれは人の子。勿論、この寺でも女人は立ち入ることは出来ない。
つまり捨て子である。
麓の六地蔵は僧が朝一に水を汲む以外にはほとんど人の通らない道である。誰も見られないうえ僧が必ず見る。誰にも見咎められず、誰かに救出される。
よってしばしば、古木のウロには赤子が生まれるのである。
声の主、悪太郎もその一人。いやこの子以外も今や大半の僧が捨て子だ。
「悪太郎か」
「またか。今度は何だ? 犬の骸じゃなかろうな?」
「ばっ、ちげーよ!」
悪太郎とは単に叱る時に呼んだだけであるが、ずっと叱り続けなければならぬ子。いつのまにか名になってしまった。
もっとも禮裕は叱りつける気にはあまりならない。悪いのは環境。今は他に子供がいないから寂しいのだ。おりからの飢饉で寺では抱えられない子を、余裕のある檀家に引き取ったり、引き取り手を探して貰ったりした。悪太郎は一人残された子供で、寂しくないわけがない。いたずらもしようと言うもの。
だがそんな禮裕の顔すらもひきつる物を抱えていた。冬だというのに袖を破った、半裸同然の格好の悪太郎の胸には子供――それも色が青い子供があった。
「なんということを――!」
「これは――息が――弱い――」
「冷たい、湯を! 湯を持って来なさい!」
息は弱く、今にも止まりそう。赤を通り越して紫に近い身体には何も掛けておらず裸であった。明らかに連れて来たわけではない子。悪太郎の言う通り生まれたのだ。しかも裸で衣一つ与えられずに。
幸いなことに、ほどなく子の赤みと鳴き声は取り戻された。
「悪太郎、お前が見つけたお陰です」
「どうせ水桶を放って雪で遊んでいたのだろうが――お手柄だ」
珍しく褒められた――というのに悪太郎は子に掛かり切り。寝息を立てて大人しくしているというのに。片時も離れないでいた。
それからも悪太郎は積極的に世話をした。
赤子に与える豆も、自分で煮溶かして。それだけでは足りぬと乳を貰えるあてまで自分の足で探しに出た。それが山を二つ越えた先であっても背負って行った。
故に赤子の名は悪太郎に付けさせることとした。
三日三晩。名前を考えていた結果、悪太郎は額を床に擦りつけて言った。
「俺にはいい名前が思いつかん――和尚頼みます! いい名をこいつにいい名を!」
「良いでしょう。しかしお前に付けさせると言いました」
「でも俺には――」
「だから一緒に考えましょう」
「はいっ!」
そうして二人して更に三日を掛けて決めた名は――作太。
何故”あれ”のことを思い出してしまうのか。昨日もその前もそうだった。禮裕が過去のことを悔いているのは事実。夜通しの座禅の理由の最たるものでもある。
だが分からない。悔いていることはいくつもある。
何故に今になって思い出してしまうのか。
その理由が分かったのは陽が登ってからすぐだった。
山々を貫くような大音声。熱気を吹き飛ばす涼のある怒号。
「頼もう!」
その声の主の名は坂下新之丞と言った。




