四 長谷野
新之丞の戻った後も、長谷野は夜半まで道場で祈願をしていた。
松原によれば新之丞は食事は摂った。なのでもう大丈夫。と。
だがそれでも長谷野は食事も口にせずに、真言を唱え続けていた。
「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」
二度甘酒を飲みに立ち上がり、行燈に火を灯す。ただ後は道場から動くことなく祈りを唱え続けていた。
松原が身体に障ると止めに来たのは食事が整ったという報告と、先刻寝ると言いに――都合三度も来た。
伝助も二度来て、新之丞の状況を伝えるとともに休むように言って来た。
利吉ですら、疲れるだろうと一度は物申しに来る始末。
つまり長谷野の祈願はどう客観的に見ても利のある行為ではない。少なくとも弟子たちにはそう映っている。無事祈願は成功したのだと。
それは頭では理解していた。
していたがまだ続けなくてはならない。
何百、何千と数えることも出来ないほどの祈りの言葉を紡ぐ。
夜中になって誰もが寝てしまった刻限だというのに、戸の外に気配があった。
口を止め、目を開くと、戸を叩く音。控え目でありながら響く音。これが松原たちであれば力を籠めやすいように拳の底で叩き鈍く派手な音を立てる。
だがこれは硬い音――指の骨を使ったであろうもの。
長谷野と同じ戸の叩き方をするものはこの道場ではもう一人だけである。
「入れ」
「失礼します」
音もなく開く戸の向こうから、行燈の火が映し出したのはやはり新之丞。
顔の怪我も目立つものの、血色は良い。松原の治療と食事が覿面の効果を齎した証であろう。肩を借りねば進めなくなっていた足取りも、確りとしている。
「良いようじゃな」
「――はい。ただいま戻りました。仇は無事討ち果たせました。それもこれも師匠のお陰にございます。此度は――」
「よい。よいのだ。無事に帰って来た、それだけでよかろう」
床に付けた新之丞の頭を上げさせる。
後ろに垂れていた髪は失われ。残った髪を頭頂部にひっぱり上げて髷を結っていた。
「結い直したのか」
「はい、伝助が。少々痛くありますが」
「ふっ、あれだけの傷を負ったお主が痛いか」
「はい、こればかりは慣れぬ物でして」
「ふぉっふぉ」
笑い飛ばす長谷野。対して新之丞の顔にはどこか陰があるように見えた。
「首は――お上に差し出した。六人を斬り伏せた下手人を討ったとあって、御奉行も大層お喜びじゃ。この功があれば、望むなら仕官も、いや坂上の家督とて――」
「いえ、今はまだそのようなことは」
「そうか。そうだな。落ち着くまでに刻がいるか。身体とて休息を要するか」
「はい」
「傷はどうだ? 痛むか?」
「いえ、兄弟子のお陰で大分良いです」
「しかし、どうしてそこまでの傷を――影殺しは? まさか作太が煤宮を捨てておったのか?」
「いえ、確かに煤宮でした。私より数段上の」
「では?」
「傷の大半は山中によるものではありません。彼奴には仲間が居りました」
「おお、仲間が!?」
長谷野は思わず身を乗り出した。
――あの作太が仲間を得ていた
信じられない。が、新之丞が嘘を言う道理はない。
「なるほど、合点がいった。右脇の傷は刀傷ではないと思うておったが。仲間の手によるものか。してその得物は何だったのじゃ?」
今する話ではない。と理解していても、長谷野の興味は実戦に向いた。煤宮の理の実践がどうであったか。聞かずにはおれなかった。
「はい、山中を含め七人。右脇の傷はその内の一人。鎌の使い手によるもの」
「鎌か。なるほど、確かに鎌なら脇を刺されよう。しかしお主があそこまでの手傷を負わされる相手が鎌とはのう。鎌なら松原が相手したであろう」
「はい、ただの鎌であれば兄弟子に勝るものではなかったでありましょうが」
「――が?」
「両手に二つの鎌を持っておりましたゆえ」
「ほう、面白い! 相手は忍か何かか」
「いえ、言うなれば――化生かと」
「化生――か。ふぉふぉ。そうか化生か。世は広いな」
「はい、化生に相撲取りのような大男、かと思えば腕の立つ小男に兄弟子並みの槍の使い手。ああ、忍もおりました」
といって左手の傷跡を見せる。
「この穴に千本を刺されまして」
「千本――なるほど毒か」
穴に沿って広げた斬り傷がある。
毒血を抜き出した跡であろう。とすぐに分かった。
「そうか薬が効いたか」
新之丞は再び頭を床に擦りつけた。
「師匠には礼のしようもありません。帷子、鉄甲、毒消しに血止め、何れが欠けても今ここには居りませぬ。いや煤宮でなければ山中の下に辿り付くことも出来なかったことは明白。見事仇討ち果たせたのはすべて」
「お主の力じゃよ」
「しかし」
「分かっておろう。儂が教えるのは生き残るところまで。相手を討つ算段は自らの力であると。影殺し――決まったのであろう? いやあの技なければそもそも仇討ちに行かせることもなかった。だからお主の力じゃよ」
煤宮の、それも格上の使い手を倒すならばあの技をおいて他にはない。新之丞から返された短刀には使われた形跡があった。表に塗った毒が拭われた跡が。刺して抜いて、血を拭ったような綺麗な刀身であった。
「しかし、それでも頭を下げるより他私には」
「ふむ、ならば。聞かせてくれまいか。他の相手との戦いを事細かに。実戦の煤宮がどのような働きを齎したのかを」
「はい、まず私は川を上り――」
ようやく新之丞は頭を上げた。その顔は未だ暗いが、声の調子は少し戻ったよう。身振り手振りも交えて、自らの傷を見せながら滔々と語り出した。
「作太は影殺しか」
「はい、最初は半信半疑でしたが。一度二度、何度となく手合わせをしている内に、煤宮が沁みついていると実感を得たところで」
「見事。見事よ。しかしあの作太を討つだけでなく。六人の賊をも斬り伏せるとは。見事としか言うほかない。ふぉっふぉ」
再び長谷野は肩を大きく震わし笑う――が、それを受けた新之丞は不器用に口の端を曲げるだけ。
行燈の光の辺り方の問題――ではなく確かに暗い。疲労が抜けず覇気がない。いや明らかな陰鬱とした沈んだ笑顔。
やはり長谷野の祈願は届かなかった。
だが、どうすれば良いのかは分からない。
長谷野には分からない。
だから祈願が必要だった。
祈願以外にやれることが分からなかった。
「のう、新之丞よ。一度、天水屋に戻ってみてはどうじゃ? 休養が必要であろう。長年の修行の疲れもあろう。どうじゃ?」
「いえ――まだ」
何故断るのか分からない。仇を討って誰もが晴れやかな気分になるべき時にする顔ではないというのに。
屈託なく笑っていた時と場所に戻るべきだというのに。
ただただ辛そうに、いや諦めたような顔でただ首を振る。
あの時と変わっていない。
あの夏と何も変わっていない。
五歳の新之丞が一人取り残された一伝流の道場の土間で見た顔と同じだった。
蛆が沸き、ハエの飛ぶ土間にて。戸板に乗せられた二つの亡骸。甘く腐った匂いと濃い血の匂いの残る中、長谷野が見た子の顔と同じ。
水が抜け、やせ細り、落ちくぼんだ顔。餓鬼のようでありながら何も求めない――諦めの表情だった。
「何故――」
「終わっていない――と」
「何が終わっていない?」
「それは――」
言い難そうに顔を背けてしまう。
「何がだ――新之丞」
「仇討ち――かと」
「何を言うておる。討ったのだろう? 首もあろう――終わりじゃ。完全に終わったんじゃ」
「だがしかし――彼奴は――仇討ちだったと――そう聞こえたのです」
「何がだ!」
「父を斬ったこと――がです」
「違う。そんなものは戯言だ。山暮らしで、いや毒にやられたのだろう? そうだ。毒で妄言を吐いたのだ。安心せい。作太の仇を討とうなどという者は居らぬ」
「とても戯言には――」
やはり長谷野には分からない。
何故こんな戯言を新之丞が信じている素振りを見せるのか。
そもそも何故、あの才気を持っていながら剣の道からそれてしまったのか。何故に凶行に走ってしまったのか
長谷野には未だに分からないのだ。
男子に恵まれなかった故か。
二人目が生まれ、産後の肥立ちが悪く妻に先立たれた。病に伏せった父と二人の子を抱えてながらも道場を切り盛りし。
その道場も作太の凶行から人がいなくなり立ち行かなくなっても、一人でも剣術を極めんと修行を積み。
年老い、衰えは顕著で腕はやせ細ったとしても、辿り着く境地があるはずと修行を怠らなかった。
何も諦めず、何にも屈しない。
何があっても折れず、何があっても曲がらない。
長谷野には新之丞のことも作太のことも分からない。
利のない行為に殉ずる二人のことがどうしても分からない。
長谷野の理では生涯辿り着くことのない場所にいる二人のことが分からなかった。
「師匠、何か、誰か心当たりはありませぬか」
「そんなものは――」
と言いかけて辞めた。新之丞の目は、おどおどとしていながら、決意の硬そうな頑固な――あの頃と変わらぬ目に折れた。
「いや――分かった。ならば少し昔の話をしよう」
長谷野は老いた頭を振るって、昔を掘り起こした。
輝かしき、最盛期の煤宮の記憶。
この屋敷に二十近くの弟子と住んでいた時代の思い出。
今もなお色褪せることなく刻まれて、それが故に思い出さずにいる。
考えれば考えるほど胸を締め付ける、眩しく暑い思い出を話し始めた。




