三 曽我
戦乱の世が終わり戦いからほど遠い太平の世はすでに二百年を数えた。
それでも人は闘争を忘れられない。
舞台の上で、講談の中で血生臭い話を求める。
喧嘩を華と称してまで、罪人の首は晒してまで、血が流れるのを見物する。
平穏が退屈を呼ぶのか、はたまた人の本能か――
「刀を抜いたぞぉ!」
その言葉を合図に熱気を跳ねのける狂乱の渦が新之丞たちを包んだ。退屈な平和を切り裂く抜き身の勝負は、寺社巡りよりも刺激的な見世物だ。白浄衣を血で穢そうと自身に刃が届こうと、構わず「やれ」「斬れ」と囃し立てて来る。
曽我はぐるり一周顔を回し、満足気な顔をする。
まるで舞台の花形のように刀を掲げ気勢を上げた。
「我こそは曽我辰正である! さあ名乗れ小僧!」
対して新之丞は動かない。ぴくりともせず、また刀を抜いてもいない。ただ目を伏せ頭を巡らせていた。
「ははっ! もう逃げられぬぞ。どうした今更臆したか? もう取返しはつかんぞ?小田原にその人ありと言われたこの曽我に抜かせたからにはなぁ!」
「そうだそうだ! 斬っちまえ!」
群衆の無責任な声が一つ上がる。
すると続々と「斬れ!」「斬れ!」と続いた。
それでも抜かない。
鞘を持つ手はだらんと下げたまま、目を伏し曽我の向こう――水茶屋を見ていた。
「どこ見ておるかぁ! 娘か? んん、娘かっ! 良いか、この曽我はな。初めて娘が店に立った日から通っているのだ。江戸に参じて絵師に美人画を頼んだりもしておる。つまり娘を見出したのはこの曽我! それを貴様のようなぽっと出の若造が横から何を――いや、いい。どうせここで果てる命っ!」
新之丞は考えていた。
水茶屋からもう一人、出て来るのではないかと。
その疑念は隙間ない人だかりと、曽我のやる気満々の構えで消失。ようやく目の前の侍へと目を合わせた。
腰前で刀を持ち、切っ先をこちらに突きつけている――正眼の構え。
一人でもやる気。もっとも往来で名乗りを上げた侍が二対一ではやることはない、ないだろうが、それを考慮するが新之丞の流儀――否剣術である。
「どうしたぁぁ! 名乗れんか! やはり臆したか。喋ることすら出来ぬとはなっ。貴様も武士なら堂々を名乗れ! それとも墓には山猿とでも刻んで欲しいかっ」
待たせた相手が怒り出す。そうしてようやくゆるゆると動き出した。手にしたままだった鞘を帯に差し直そうというところ。
気を吐く曽我に対して、気がない新之丞。
猛る相手に、徹底して無表情。
そして苛立つ曽我に、業を煮やす群衆が後押しした。
「いいから始めろよ!」
「こっちは炎天下で待ってんだぞ!」
「さあ、こう囲まれては尻を捲って逃げることは出来ぬぞ。無論頭を下げても遅い! さあいざ! いざ尋常に我が愛刀・兼――」
「――新之丞」
ようやく口を開いた。相手を遮るようにだ。
「ああ?! そんな名ではないっ! この刀は関のものだぞ! そんな童のような名ではない。見ろこの輝きを! そして聞け我が愛刀・兼――」
「坂下新之丞――私の名だ。墓には刻まなくていいぞ。ここでは散らぬ。お主相手で散ることは出来ん」
そしてもう一度。
時間を掛けていたのは反省していたため、初心に戻るためだ。
師までを悪く言われたとて、喧嘩をしたのであればそちらのほうが勘気を被る。
そうして自らを心中で罰しながら、曽我を見ていた。
刀の長さ、身の丈、手、腕、足の長さという斬り合いに必須の情報。そして、曽我という侍自身もだ。
大きな銀杏髷、登城するかのような正装ではまず役人であろう。短刀を馬鹿にし、構えは正眼。まず正統派の座敷剣法と見立てた。
「ほう、ほうほうほう。無骨な拵えからどんな刀身が出てくると思えば中々どうして悪くない。いや良いっ! さしずめ嵐の中、飛沫を上げる荒波と行ったところか。見事な皆焼の刃文である。だが刀身は飾りではないぞ? 見よ! この直刃を! 洒落た拵えから実直な抜き身。これこそが侍の刀。どうだ、この愛刀・兼――」
「御託はいい――まさか臆したのではあるまいな?」
「いいぞ若いの!」
「そうだよ。とっととはじめなっ」
「黙れぇ! これは命のやり取りだ。せめて構えを取らせてやろうというこの曽我の温情が分からぬか!」
刀を握る右手を前に半身で力感のなく立つ。
相対した曽我が、構えと認識できないほどの自然体。だが「既に構えている」と口にし、開いた左手で『来い』とばかりに手をハタめかせた。
「ああぁっ?!! それが構えだと言うつもりか!」
「左様」
「今生の最期の構えがそれで良いのか!」
「左様」
「そこから何が出来る、何の技がある! 貴様の道場ではそう教わるのか!」
尖った口から唾を吐き、丸い頭を真っ赤に染めた曽我は完全に茹で上がった。
故に駄目押し「左様」と一言。
「達人を気取ろうというのか、田舎剣法ごときが。いやいやそうか! 分かったぞ。今までもそうやって相手の気勢を削いでいたのであろう。そうして戦いを避ける。それが田舎剣法の極意というわけだ」
「ほう、良く分かったな」
「んっぐっ!! しかし今回ばかりは相手が悪い。時も悪い。場所も悪い。誰をどこで相手していると思って――」
「お主の道場ではその構えからは口を働かせると教えているのか?」
「はははっ! まずは若いのが一本だっ!!」
どっと周囲から笑いが起きた。それこそが新之丞の刃となった。
「黙れぇぇぇぇえっ!」
尖った口のどこから出たのか分からぬ大音声、いや雄叫びを上げた。曽我の足元に力が籠った。足の指が飛び掛かる前の猛獣の如く、草履ごと地に食い込む。
「きぇぇぇぇぇぇぇいっっ!!」
鋭い突き、風を巻き起こし土埃を立て、猪のような勢いと迫力だった。
自ら”名の通った剣士”と言うだけはある。
だが正統派の座敷で上でならした一撃。故に届かない。幾ら鋭かろうと新之丞に届くことはない。
「うぉぉぉっ!」
「び、微動だにしねぇ! ほんとに達人じゃねぇんか!」
正眼の構えから出た突き――とくれれば狙いは正中線、かつ腰から上。先刻測った曽我の長さはこれ以上伸びない。
身体と刀を足した長さより先に届く道理はないからだ。
「ふんっ!」
群衆の歓声を置き去りにして、曽我は既に次に移っている。地を噛むような足の指先は力みが抜けて、滑らかな動きで地を擦り砂煙を生む。
派手な初撃と違う、危険を感じた。
足幅が広がる。ならば考えられる攻撃は――多い。
微かな指の力みで次の攻撃を予測。後ろへ飛び退き、すべての選択肢から逃げる。
が、それは囮だった。
ごく軽く振られた刃を前進する力に変えてにじりよる。
「ちぇえいいっ!」
頂点で刀は返り、必殺の位置からの一降り。
下がる新之丞、ただそれも曽我の読み筋、思惑通り。歪む尖った口の小さな口角が目に入ると、どんと背に当たる柔い感触。人垣が、血を見たさに肉迫していた。
「やれぇぇぇ!」
歓喜の瞬間を待つ嬌声が耳に響く。自らが斬られかねないというのに。何かが欠落したような悦楽の顔の群衆に新之丞は砂を掛けた。
別に気に入ら無かったからではなく、否気に入らなかったのはあるが。ただこの場をやり過ごすため。大きな身体を丸め、転がりながら砂を跳ね上げ、迫る刃を避けるためだ。
正統派の座敷剣法にはない逃げ方。となれば追う方法も――ない。
「このぉっ!」
ゆえに顔を赤く染めて踊りかかって来ても同じこと。幾ら斬りかかろうが新之丞は逃げるだけ。刀で受けることもしない。背を見せてることも厭わない。地に伏すことを厭わない相手を捉えることは出来ない。
「ちょこまかっっとっ! 逃げてばかりかっ! 貴様も武士の端くれなのだろうが!まあこの俺に恐れ慄く気持ちは分かるがな。その刀が飾りでないならばせめて刀を合わせて散れい! この愛刀・兼――」
「やはり口を働かせる構えと見える」
「っっっ!!」
もはや髷までも赤く染まり兼ねない声にならぬ声を上げた。
まさに怒髪天を突く。かつてない怒りに我を忘れて、斬り、突き、薙ぎを矢継ぎ早に繰り出す。
なればもう新之丞の術中である。
逃げつづける新之丞。勢い余って斬られてはたまらぬと、曽我の刀に合わせて少しずれる壁の群衆。
ますます逃げやすく、ますます刀を振らせやすい。
疲れ止まった曽我をおちょくるように時々立ち止まったりもした。
もっともこんなことを繰り返していれば群衆の声はあちら側に付く。
「逃げるな! 斬り合え!」
「せめて斬られろ! やっちまえタコ侍!」
声援が曽我を後押しする。
あれだけ大見得を切った手前、刀は振るわねばならない。例え空を切り、削るのが自らの気力であってもだ。
「な、何故っ――何故き、斬りあわんっ! お、お、臆したかっ!」
この炎天下で、相手に当てることの出来ない斬撃。大の大人が振り回される鉄の塊を、隙を晒さぬように振り回した。
曽我は肩で息をし、瀧のような汗を拭うことも出来ず、刀を上げることも適わない。
「また、それか。はっ、まさかその構え逃げるためのものだったとはな」
まだ息は整っている新之丞に悪態まで吐く。
いかに暑かろうと羽織袴で、いかに高かろうが京で拵えを作らせ、いかに劣勢だろうと強がって見せる。
「左様――師に教わった。山でな」
「こ、この曽我を。若造が、なめるかぁぁっっ!」
もはや掌の上、一言でいい。
残った力の最後の一滴まで絞らせる。その先に待つ破滅に一歩進ませる。
頭では無理だと悟っていても、心は裏腹に動かねばならない。
それが曽我の根――虚栄。
「ぬぉぉぉっ!!」
獣のように構えもくそもない、全身で半ば倒れるような突き。
「遅い」
幾ら全身から力を集めても、もはや絞り滓である。ぎりぎりでひねり出した力では乾坤一擲にもなりはしない。
怒りで曇った目では新之丞を捉えることもない。相手がどこに立っているかも考えてすらいない。
「木材を突くための構えだったか」
少し傾け顔の横をすり抜けた刀は、水茶屋の骨組みに半ばほどまで刺さった。深々と突き刺さり、曽我の今の力ではびくともしない。
「そういえばこの構えから繰り出される技を見たいのだったな」
「待て、何をっ! 待て待て待て! ぬ、抜けっ抜けろっ! ぬぬぬっ!」
新之丞が左拳を固めて見せると情けない悲鳴があがった。軽く振り上げれば、叱られた童のように目をきつく瞑ってその時を待つ。
「ひえっ!」
狙いは曽我の身――ではなく心、虚栄の象徴である。
ごく軽く、だが素早く。手の甲を鞭のようにしならせ叩く。刀の弱点、横からの衝撃を与える。まるでビロードが割れた如く澄んだ音を立てて、愛刀何某は三つに割れ弾けた。
「あ、ああぁ!? ああっっおぁぉぉぉっ! 俺、俺の! 俺のぉぉぉたましいぃ! おまえ、これ、これ関の! 幾らかけたと。おお、おおぉ?!」
ようやく晒された見栄の下。這いつくばって割れた刀を集める姿には武士の欠片ものこっていない。
意気も覇気もなく、誰がどう見ても『勝負あり』と思われた。だからこそ――絶対に終わりと思われたからこそ新之丞の右手はようやく上がる。
刀を持った右手が唸り、狙いは魂の穢れた侍の顔――そのど真ん中。新之丞の右手は太く興り、ギリと音を立てて柄を握りこんで伸ばす。
どんと鈍い音がして、地が鳴り、目の端の群衆が割れる。
構わず振るった右腕だったが。
「そこまでぇぇぇいっ!!」
雷鳴が如き轟きに撃たれ、新之丞の右手は青ざめたタコの前で止まった。




