二 糟屋宿
宿場の入口には水茶屋があった。
暑気除けのよしずで覆われた店内。中の喧噪は外のそれに負けていない。更には古びたよしずにボロの暖簾という風情ある店に新之丞の足は自然と向いた。
「頼もう」
水茶屋に入るにはあまりに挑戦的で不機嫌な――看板を奪いに来たのかという声を上げて暖簾を潜った。店内には藍、草、柿染めの衣のむさ苦しい男と迸る熱気で溢れている。
新之丞が一歩入り軽く笠を上げると、先刻までの喧噪はぴたと止み冷気すら感じた。
男たちの刺すような目が、新之丞の手を無意識に腰に向かわせた。
「いらっしゃいまし――あっ」
そんな不穏な冷気を吹き飛ばす、どこか間抜けな声。女が立ち上がり掛けて来る。
店内の異様な空気のせいか、生来の気性によるものか、ちょこまかと慌てたように足をせわしなく動かすと、案の定、腰かけにつんのめる。
「わあ、すみません! ありがとうございますっ」
左手で肩を支えた、触れた衣は絹のそれ。娘の上気した顔を見て視線の冷たさの疑問が氷解した。
「こちらへどうぞ」
年の頃からすれば、店に立つようになってまだ一、二年だろう。板につかぬ島田髷に、幼さの残る丸顔の汗ばんだ笑顔を作れば、周りはぱっと明るくなる。店内は元より、殺伐とした道に進まんとする新之丞すらも。
――だからか
この可憐な華を愛でる店なのだ。
「この席でよろしいですか?」
前行く娘と近づき過ぎないように進み行き、堂々と座った。
それが幸いだったのか大方の客の棘は消えた。が、すべてではない。
よりによって座って席の後ろ側からもっとも太い棘が刺さり続けていた。この暑い中、黒の正絹の着物しかも羽織袴の二人組だ。ただでさえ息苦しいのに敵意向きだしの侍が背後に鎮座している。
「お待たせしました」
ただ、新之丞の目下の問題は娘の茶に幾ら払うか。
店の看板には茶は『八文』とあった。が看板娘に対し払う額として適正かは別だ。娘のちりめんの手触りを思い出しながら、新之丞は懐から銭を払った。
「わあ、ありがとうございます!」
「少し聞きたいことがあるのだが」
「はい! 喜んで!」
娘の色よい返事。渡した三二文で正解と胸を撫でおろした――のは束の間のこと。
「はぁ?」
「っ?!」
「――おい、何か――なぁ?」
ひそひそと聞こえる声。更には四方八方から視線が、針の筵のように刺さる。
とはいえ、話を止めるわけにもいかない。今更引けない。娘も話を聞く構え、それで十分だ。
その開き直りが、もっとも太い針を撃っていた背後の侍に火を付けた。
「おん? おお、おいおいおい」
「どうした曽我」
「いやな。俺の目は悪かったかなぁ? 古怒田よ。おかしいのだ」
「いやぁ? お主の目の良さは折り紙付きよ。先の鷹狩で五町は先の野兎を見つけて見せたではないか。あの芸当を出来るのは他には居らぬよ」
「だよなぁ?ならあれはなんだ? あの腰の物はいささか短すぎないかな? あれではまるで――」
耳を劈く甲高い声。癇に障る。恐らく吐いた唾も背に掛かっている。
だが新之丞は言い返さない。いや返せない。
事実新之丞の大小の片方は――短い。どう見ても刃長は一尺に満たない。鍔のない拵えは娘の懐刀にでも相応しい――
「――短刀であるな」
「まさかまさかまさか。武士の魂である腰の物を短刀にぃっ?! まさか有り得ぬ。
色男 金と力はなかりけり、というがまさかなぁ?」
「いやいや、間違いない。総髪の色男だぞ。女子の懐刀を借り受けたのであろうよ。ま、あっちのほうはさぞかしご立派と見た」
顔を歪めて下品に笑う二人の声。他の客も、声を押し殺した笑いが漏れた。
刀は侍の魂――曽我とかいう侍の言はもっともなのだ。
新之丞は反論もしない。何故ならばこの拵えを選択した時点でこの程度のことを流す覚悟も、修行もして来たからだ。
「娘、お主この辺りの出か?」
「え――あ、はい! 生まれも育ちも伊勢原です」
「なら、この辺りには詳しいな」
「生まれてこの方一五年。江戸はおろか小田原にも出たことないですよ!」
「そうかならば。この辺りに賊が住み着いてはいないか。恐らく山のほうだ。追剥ぎ追い落とし、何でも良い。まっとうに人里で生きていけぬ者――」
「賊――ですか?」
「ああ、腕が立つという噂があれば尚良いのだが。雲を掴むような話ですまぬが」
「いえ、噂というのは得てしてそういうものですから。ただ賊ですか――」
「聞いたことはないか」
「昔は居たのでしょうが。私は聞いたことがありません。何分ここいらは講の人達が集団で通るので。追剥ぎなどもあまり――あ、でもこの先のお寺さんなら――」
「おや? おやおやおや? 俺は耳が悪くなったかな?」
半ば絶叫のような金切り声が割って入れば、さすがに男の顔も歪んだ。
「ないない。三つ離れた部屋の親父殿の寝息すら五月蠅いと言うのはお前くらいよ」
「となれば賊を探しておると聞こえたのは?」
「事実であろう」
「ほう賊と聞こえたのは事実か。まさか徳川の威光の届かぬ地から参ったのかな?」
「道理で道理で。芋っぱりめ。剣術は猿にでも教わったのではあるまいなぁ」
「なれば、あっちのほうも猿並みってな」
「がはははは、上手いことを言うでは――おん、なんだぁ兄ちゃん?」
無視して話を進める。旅を止めぬためにはそうすべき――だが、新之丞にも我慢できぬことはある。
振り向き、手を腰の物にやりながら二人の侍の前に仁王立ち。タコのような男と芋のような頭をした男の二人の侍と目線を絡める。
瞬間、店内の空気の動きすら、止まったようだった。
止まった空気を打ち破ったのはタコ侍の尖った口。
「どうしたい。そんなところに立って陽でも遮ってくれてんのか?」
「そっちにゃ陽はないだろう」
「そういやそうだった。はっは――」
新之丞の右手が鞘を掴むと、座っている二人も身構える。
ただ抜いたのは刀身ではなく、鞘そのもの。
鞘を掴み左手に持ち替えると前に突き出した。
「なんだなんだ脅かしやがって。何を見せようってのか。なんだ、そのひん曲がった 指を見せて。山での厳しい修行の証ですってか?」
「居たよ居たよ。我が道場にもお主のようなやつが。古傷だとか言ってな斬り合いを したフリのために自ら傷を負った馬鹿が。それで歴戦に見えると思うたかなぁ?」
曽我の下卑た目は新之丞の曲がった指に向いた。猛禽が獲物を掴むが如く鷲掴みに鞘を握る指に。
それは恥じる指ではない。新之丞は一歩も引かずに鞘を突きつけ続ける。
だが、抜かぬ様子を見て、侍たちは更なる口撃に打って出た。
「それに見ろよ。この鞘。泥を塗ったくったようではないか?」
「なあ兄ちゃんよ。刀は武士の魂だぞ? 自分の魂に泥を塗っておるのか」
「おうおうおう、その通り! 見よ、この俺の刀を」
次になじったのは拵え。
新之丞のものは無骨。艶のない石目地塗りの鞘、柄巻はくすんだ藍の革紐、鞘尻のコジリの角ばり尖った姿は誰が見ても”芋”であろう。
対して曽我のものは品がある。鏡面の如き艶を持つ黒呂色漆塗りの鞘、白く輝く絹の柄巻、覗いた鮫皮の粒の目を引くこと”玉”としかいいようがない。
「おお、いつ見ても美しい。拵えは京で作らせたのであったかな?」
「そうだ! 刀身はあの関で打たせた物。どうだ若造。これが”本物”の武士の魂。貴様のような――」
「なるほど見世物――神棚か、床の間に置く飾りか」
嘆息を吐きながらそう言うと、曽我の額に青筋が走った。
「なんだと、貴様ぁぁ」
「見世物と言ったのだ。刀は斬るためにある」
「はっ、この曽我に腕を問うたのか? 小田原の剣術道場では知らぬ者は居らぬこの曽我相手に?!」
「ならば来い。その拵えが、刃が、お主の魂が本物であるというならば――当てろ」
――鞘当
武士における究極の挑発。新之丞はずいと石目地塗りの鞘を突き出す。捻じ曲がる猛禽の如き指で、曽我の魂を掴むために。
「どうした? お前の魂が震えているぞ。無論、武者震いであるよなぁ?」
店の隅々までも静まらせた。今度は新之丞の張り詰めた空気によって。
「きっ貴様ぁぁ!!」
脂汗をかく曽我は細かく震え、鞘を鳴らした。
武士の喧嘩となれば刀を抜かねばならない。武士は刀を抜いたのであれば相手を斬らねばならない。斬らねば自らが腹を斬るのが武士である。
たとえそれが水茶屋の看板娘を巡る嫉妬から始まったことであってもだ。
「おい、曽我。こんなところで――」
「分かって――分かっておる! いいか若造。知らぬなら教えてやろう。刀を抜くと言うのは――」
「なるほど、口だけか。やはり見世物、偽物の魂」
はたして曽我の頭は茹で上がったタコのように赤く染まる。
尖った口からは鳥のような叫びを上げて、黒呂色漆塗りの鞘は振り上げられた。




