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煤宮――仇討ちの果て  作者: 玉部×字
仇とは

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二 夜明け


 真夏のじっとりとした空気の中、長谷野はせのは目を覚ました。

 背に張り付くような気持ち悪い感触のゴザから身体を起こす。あけ放たれたままの戸の向こうは薄く赤い光が上ってきている。


「朝――か」


 早朝とは思えぬ気温であるというのに冷えて硬い身体を引きずり起き上がった。

 還暦を過ぎても、まだまだ現役と思ってだましだましやって来た長谷野の身体はついに老いに追いつかれた。

 年々細っていく腕と、筋の痩せていく足。身体も年々重く感じるようになった。もはや飛んで跳ねて刀を振るうのも自由にはならない。寂しさと惨めさが顔にも浮かんだ。

 とはいえここ最近とみに身体が重くなった半分は新之丞のせいだ。もとい新之丞の無事を祈願していたせいである。

 つい三日前まで夜中と明け方に川に入って水垢離みずごりをしていた。都合一か月は続いた儀式であったがついには身体が音を上げた。

 熱に浮かされていたのは一日とはいえ、本調子にはまだ遠く――


「よっ」


 と、土間に降りるだけで試し斬り並みの気合いを要した。

 土間には壁際に四つ、中央に二つ、都合六つのかまどがある。もっとも今となっては、使っても二つ。同様にかめも昔の名残で六つ。とはいえこちらは全部中身がある。

 その内の一つ、もっとも遠い勝手口側の黒緑のかめふたに手を掛けた。

 開けば中から甘い匂いが土間を包む。柄杓ひしゃくすくった少しとろみのある白濁の液体。

甘酒あまざけを顎を上げ口を開いて天から垂らすように口に流した。

 弟子から下品とも言われた飲み方であるが、どうしても止められない。一度、盃に移して飲むなどまどろっこしく感じる。


「少し、酸っぱいか? 早く飲み切らねばのう」


 もう一杯飲み、更にもう一杯。甘酒を飲むごとに気力が充実していくのが分かる。目が覚めた身体に力が戻った。

 その後、長谷野は部屋に戻り褌一丁の格好の上から白い襦袢じゅばんを羽織り道場に入る。

 誰も居ない道場の中央に正座し、目を閉じ手を合わせた。


「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」


 長谷野家は代々利を重んじている。

 食事と言えば大鍋で全員分を一度に作り、柄杓から直接甘酒を飲む。

 洗う物を減らせば手間が減る。

 手間が減ればそれは刻が空く。

 刻が空けばその分、利を取りに行けるというわけだ。

 一対一を想定した剣法が戦場にて果たして役に立つのか? そんな疑問の元、種々の武芸を習って来た。先代も先々代もそのまた前もその前もだ。

 ゆえに煤宮を初めて見たその瞬間に虜となったのも、長谷野大膳には理解できた。

 今の世では卑怯とそしられる技。

 だが太平の世の邪道は戦場の正道である。

 武士とは戦のためにいるのが理。

 長谷野の利は煤宮を選び、この真言しんごんを唱えるのである。


「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」


 上る朝日に道場は熱され、身体に浸透した甘酒が汗となって出ていく。

 手を合わせては弟子の無事を祈り続ける。


「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」


 この真言は阿弥陀如来あみだにょらいのもの。

 長谷野家は浄土真宗の門徒だからである。

 真宗を選んだのはかつての所領の領民が『南無阿弥陀仏』と唱えていたから。熱心な信者というわけではない。利によって神仏を選んだのだ。

 故に道場には仏像、神棚の類は置いていない。祈る場所のない長谷野は顎を上げ、朝焼けの空を目掛け真言を唱え続けた。


「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」


 これは小咒しょうじゅと呼ぶ真言。名の現す通りに祈願の言葉は実に短い。長い方――大咒だいじゅと呼ばれる真言は百音を超える長さであるから。

 当然長谷野の利は小咒しょうじゅを選んだ。


「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」


 助太刀として同行することも考えたが叶うことはなかった。

 老いた身では一時の戦いは出来ても、旅には付いていけるか分からない。

 新之丞の助けになれることと言えば修行をつけること。

 賊に負けぬように鍛え、仇を討てる技を身に付けさせ、武具と薬を与えること――そして今となっては祈願だけ。


「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」


 この日ノ本にてもっとも武家に信奉されている神と言えば八幡神はちまんしんであろう。

 名将たちも挙って祈願した武家の守護神。弟子の武運を祈願するのであれば武の神と言える八幡神はちまんしんを置いて他にない。だが、長谷野が唱えるのは阿弥陀如来への祈り。無量むりょうの光を持ってあまねく人々を救ってくださるという仏への願いの言葉である。


「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」


 では武運を祈願していないかと言えばそれも違う。神仏習合という考えがあるからだ。

 神と仏は元は同じ存在。つまり神であり仏でもある。

 二つの名、二つの姿――その本来の姿を本地仏ほんじぶつと呼び、各神毎に仏が割り振られた。

 そして八幡神の本地仏ほんじぶつは阿弥陀如来である。

 弓矢八幡と呼ばれる武神と、無量の救済を下さる阿弥陀如来。

 この二柱に同時に祈願を出来る言葉――今もっとも利ある祈りを長谷野は選んだ。


「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」


 勿論これが身勝手だと長谷野自身も思っていた。

 二柱の神仏に一度で祈ろうと言う身勝手さ。

 さらに弟子の仇もまた自分の元弟子であるという自らの業の深さ。


――果たしてこれで神仏に祈りが届くのか。


 ただそれでも祈らざるを得ない。懸命に祈った。身体を壊しても、具合が悪くとも、暑気に当てられても祈り続けた。一心不乱に。

 果たして神仏にその祈りが届いたのか――少し間の抜けた一番若い弟子の声が耳に入った。


「師匠ー新兄がぁ」


 長谷野はどこかへ、知らぬ天へと向けて深く頭を下げて立ち上がった。中庭へ至る戸を、いつもよりも力を込めて開く。


 朝日というには少し高い、昼前の陽光の下に弟子たち――伝助と利吉に支えられた新之丞の姿があった。

 顔は喜びに綻ぶより先に、鼻をついた据えた匂いに歪んだ。だが、新之丞は動いていた。怒気を孕んだ目は相変わらずだがまだ息はある。

 とはいえまだ息はあるというだけ。

 鮮やかな深い緑の着物は血に塗れて土留どどめ色に。

 精悍で生気溢れていた肌は、血の気の引いた土気色に。

 一人で立つことは出来ず、両側から伝助と利吉に支えられていた。

 やる気のない弟子の声に安堵した自分に怒りが沸き、怒りが声を荒らげさせる。

 長谷野は声を張り上げもう一人の弟子の名を呼んだ。


「松原ぁぁ!」

「今、暫くっ!」


 がちゃがちゃと音立てて、薬箱を持って松原が飛んで来る。

 もっとも長谷野は怒りを松原にぶつけたわけではない。

 この場にもっとも相応しい男を出来るだけ速やかに呼ぶために声を張り上げた。


「伝助。利吉。新之丞をこっちに。師匠縁側を汚します」

「うむ」


 長谷野は剣術道場の主であり、生傷の耐えぬ環境に長く居た。

 挙句金のないものだから、医術の心得は自然と身に付いた。特に金創きんそう――刀傷となれば下手な医者より心得がある自信があった。

 松原は蘭学を学んでいたようで、特に医術に関しては玄人はだし。宿場の町医者に手伝いに行った際には、本職になれと言われるほどの腕前。

 故に松原に任せるがここでは利であり理。ただ静かに心中で祈った。


「新之丞大丈夫か?」

「は――い、少々――深く――」

「任せておれ、このくらいの怪我すぐに――うっ」


 乾いた血が固まってにかわのようになった着物を切って脱がすと皆絶句した。

 伝助利吉は言うに及ばず、長谷野も息を飲む。それほどの傷だった。

 切り傷や打ち身は数えきれず、むしろ無事な部分を探すほうが早い。恐らく長谷野が治療をするなら死を覚悟するほどに酷い状態。

 だが横目に見た松原の顔は真剣な眼差しだが悲壮感はない。怪我が深刻ではなく、治療出来るという安堵と自信が現れていた。


「どうだ?」

「見た目ほどは酷くないです。血は派手に見えますが、恐らく返り血もかなりの量を浴びたのでしょう。まー骨もやられてますが。指と違って元に戻るかと」

「そうか、それなら」

「ただ――」


 と言って右手を持ち上げる。

 脇には膏薬が塗られ――いや埋められていた。穴が空いているのだろう。傷がまだ塞がっていないほどの深い穴。どろりと血が流れると新之丞が呻く。


「うっ」

「深いな。少し我慢しろよ。伝助」

「うっす」


 呼ばれた伝助が薬箱から取り出した瓶の液体で傷を洗う。

 その間に懐から巻いた白い布を取り出す。縁側に転がし広げれば中には医療の道具が入っていた。

 針と糸を用意して、利吉に腕を抑えさせると傷口に針を刺す。


「よーし動くんじゃないぞ」

「はい」


 皮を突き刺すごとにぴくりと新之丞の眉が跳ね、口の端に力が籠る。

 見てる長谷野も右脇がこそばゆい。


「うえ、痛くねぇのか?」

「――痛い、さ」

「ほー痛いか。なら安心だな」

「はい」

「なら大丈夫だ。よし、頑張った。後の傷は洗って木綿を巻けばいいだろう。伝助、利吉で部屋に運んでやれ」

「はいっ!」


 新之丞を運んでいくのを見届けて松原の顔はようやくいつものように綻んだ。


「いやー無事帰ってきましたね」

「うむ。良かった。本当に良かった」

「では師匠。私は食事の用意をして参ります。今日は腕によりを掛けますよ。味噌も野菜も肉も一杯使いますからね」

「ああ、好きに使え。足りなければ買って来るがよかろう」

「はい、それでは早速!」


 言うが早いか薬箱を置いたまま走り去ると――長谷野は一人、縁側に立つ。漂う血の臭いの中、一際据えた香りがした。


「ああ――」


 鼻で匂いの元を辿り、行きつく先に目線を落とす。ドクンと心臓が大きく打つのが分かった。

 新之丞が戻ったことは実に喜んでいる。安堵もしているし、肩が軽くもなる。胃に重くのしかかっていたものが取れた気分だ。

 が、同時に胸に去来する別の思いもあった。

 いやずっと抱えていた思いだったのかもしれない。

 かつてぽっかりと空いた胸の穴が今一度疼いた。


「――作太」


 新之丞を引きずった跡。その終点には無造作に転がされた麻袋が一つ。中には西瓜程度の大きさの物が包まれている。

 眉をひそめるけがれと鼻が曲がるすえた匂いをまとう袋。結び目を優しく摘まみ、傾かぬよう天地を正し、中身の名をもう一度呼んだ。


「作太」


 凶行に及んだことを憤ればよいのか。

 止められなかったことを悔めばよいのか。

 才気を失ったことを悲しめばよいのか。

 ぜになった感情が顔の皺を複雑に捻じ曲げる。

 風はまだ重く粘る湿気を孕んだ夏の盛りだと言うのに。

 長谷野は震える肩を抱いて膝を付いた。


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