二十二 槍絡み
煤宮の拵えにはすべて意味がある。
忍に端を発した技であれば、下げ緒もただの飾りではない。藍色に染めた革で出来た紐は頑丈で、且つ並みの下げ緒よりも長くある。
「良いか?」
解いた下げ緒の一端を打刀の柄に絡めて結ぶ。鞘と刀をきつく繋げた。
――気付かれたか。いや知らぬ。これは知らぬはず。
山中が終ぞ見ることの適わなかった技。原初の煤宮の技、秘伝の奥義。
師とて教えるつもりはなく。兄弟子すら書で見ただけの技だ。
「いつでも構わぬ」
そう信じて新之丞は進んだ。
じりじりと足を擦って前へ。ゆっくりと、一呼吸で一寸も進めぬほどに慎重に。朝まで辿り着かぬような速度で足をじりと送る。
『どこまで届くのか』
喫緊の課題は射程。一間ほどの槍だった。しかし今は線にしか見えぬ。又左の威で距離が近くも感じる。宵闇に隠れる濃藍の着物も厄介だった。
一寸づつ、探るように歩を進める。
垂れた汗も拭えず、やぶ蚊が止まるのも払わず、ただ一筋の線を見つめて足を擦る。
未だ線。
微小だが動いている新之丞を相手にここまで穂先を線とする腕前。
喉が乾き、目がぼやけた。
衣も、呼吸も闇に溶けたよう。目でも耳でも位置が掴みづらい。
果たして緊張なのか、そういう技なのか、茹だる熱気と疲労のせいなのか――分からない。
脳裏に過ぎるは脳天を貫き刺す槍の穂先。
汗は引き、乾いた身体に風は冷めたく。猛烈な寒気に襲われる。
――だが
ざわざわと騒ぐ山を抜けた風に押され、足を進める。
ちらと左腰の二つの鞘に目をやる。
手が短刀へ伸び掛かる――も、仕掛けを掴み直した。
山奥の剣豪の必ず殺すという強く冷たい意志に向かい進む。果たして師の本気でもここまで恐ろしいか。
もはや蛮勇、やけくその類とでも言うべき心の中で、進んだ。
いつ来るのか。
まだ来ないのか。
もう来るのではないか。
恐怖と混乱を抱えて進んだ。
故にその瞬間を見破れたのは完全に運だった。
線が少し、ほんの少し太くなった――と感じた。
狙いは顔。
顔は左に。
そして――右。
穂先の前で往復。
愚行、暴挙――賭けに勝った。
「ぬっ!」
血が飛び、肉抉られ、夜を赤く染める。
新之丞の顔、目の一寸下に赤い線。
刃が通る感覚がいっそ気持ちよかったくらいの綺麗な一本線の傷が現れた。
槍は新之丞の顔を通り過ぎ――戻らんとする。
突き切って、戻す刹那、槍は止まる。
幾ら達人でも。
「くっこれは――!」
新之丞は避けながら背後に円を作っていた。
下げ緒で作った円の内に槍を通す。そして下げ緒を結んだ両端、刀と鞘とを思い切り引く。ピンと琴を爪弾いたような音がすれば、下げ緒が絡んで離さない。
故にこの技、槍絡みと言う。
「終わりだ。この形なれば槍使いに勝機はない」
穂先に絡んだ下げ緒を引いた。腕力だけでなく、体重を掛けて落とさせんとする。
槍に掛かった紐、力の拮抗した場所は新之丞の側。追い手と同じ理であれば、負けるはずが――ない。
「ふんっ! ぬおぁっ!」
だが下がらない。いやむしろ穂先は上へと向かう。
腰まで下がったはずの槍の穂先が今は胸前にまで来る始末。
肉を食らい作り上げたこの身体で、有利な状況でも尚力ですら――顔を染め、腕を興らせ、背までも総動員しているにも関わらず、押し負け拮抗する。
「ぐおおっ!」
新之丞も叫んだ。次はない、そういう避け方だった。
残った力をすべて吐き出すように叫び、口から血を吹き出しながら力を込める。両手と背にすべてを込めた。
だが、それでも拮抗するが関の山。
強者二人の膂力の綱引き。根を上げた方が負け。
ミチと音を立てしなる槍、ギリと締まりながら伸び切った革紐。
最初に根を上げたのは革紐の――結び目。
乾いた音を立て、弾けるように刀の柄から紐が解けて散った。
「なっ」
急に重みを失った右手。刀の柄は腰にぶつかり、限界だった手から飛んでいった。身体も失った重みで膝崩れ、それでも耐えられず尻をつく。
又左も同様に跳ね上がった槍に勢い余って後転し、やはり限界だった手の力は槍を手離させた。
互いに徒手。
互いに尻を付き。
互いの目が絡み、互いの得物が舞う。
りんと音が聞こえた。刀が地に落ちる音。
先に目を切ったのは又左だった。
新之丞の得物の落ちた先が見えたのだろう。
耳に入った音は森の中にも。
探す間はない。何しろ又左の槍は新之丞の視界にずっとあるからだ。
――ならば
刀を拾っては勝てない。槍を拾われても勝てない。
又左は階段の横に転がる槍を見つけている。
駆けた。前へと一直線に走り出す。
経った数歩の距離が永遠にも感じるほど遠い。
又左が背を倒し、槍へと手を伸ばす。
その行動が突きよりも早く感じ、だというのに自分の足は出ない。
「あああぁっ!」
最後の二歩は飛んで稼いだ。
槍を掴む寸前、又左の腹に肩からぶち当たる。
背から倒し、槍から遠ざけ、腹の上に乗り――大上段に構えた。
「鞘?」
大きく出た額を押し上げ目を開く又左。新之丞の手にした鞘を意に介さず再び槍へ手を伸ばす。鞘ならばと捨て置く構え。
だが、煤宮の拵えにはすべて意味がある。
常ならば鞘の尻は丸いコジリ。
煤宮なればそこには研いだ牙がある。
「うああぁぁっ!」
突き立てられた牙。されどそれは必殺ではなく。鈍くて、硬いだけもの。
幾度も幾度も突き立てる。
皮を裂き、肉を貫き、骨を割り。
その度跳ねる又左の身体は跳ねる。
まだ動く、まだ槍へと伸び行く手。まだ終わっていない。
「まだ――っ! ――っ!」
いや、既に又左は事切れていた。
地を抉り牙が石を噛む感触で、新之丞の手はようやく止まった。




