二十 又左
夜の闇の下、新之丞は歩いた。
川の水面の光、風が散らした月の明かりに導かれ行く。
打飼袋も、帷子も、仕込み鉄もない。河原に出ても、そこの骸にも、もはや感慨は沸くこともなかった。
残るは打刀と短刀と、鋭く尖る目線だけ。
「――待っているがいい」
小兵が逃げ、力士が付けた傷跡残る山道のその先を睨みつけた。
ざわざわと木々が騒ぐ中、あの夜を思い出して歩く。
一日歩いたようにも、一刻も経っていないようにも思える山歩きの果て。開けた場所に出た。
「ここか」
明らかに人の手が入っている。小屋も幾つか立ち、使った跡も残る。木々の間に衣と頭の落とされた魚が干されていた。
自然と足は早くなる。敵と獣の警戒をすることも忘れ、半ば走りながら小屋の間を
抜けると――
「参ってしまったか」
侍が居た。
道場ほどもある均された場所。上へ続く階段の前に侍が待っていた。
他の賊と同じく黒に近い濃藍の衣こそ纏うが。綺麗に剃った月代の小綺麗な格好。
背筋をしっかと立て、まるで番をしているような姿は城勤めの侍のよう。
「返り血――だけではないな」
「怪我をしていれば、情けを掛けてくれるのか?」
「いや、けが人を相手にわざわざ槍を持ち出させるとはな。然全殿も人が悪い」
その名を聞いて新之丞の身体の中に熱が生まれた。腹の底から沸き上がり、行き場を求めて口、鼻、耳から溢れだす。
「――居るのだな」
「ああ、上にな」
「お主で最後か」
「最後――? さてな。其方が何人その刀に掛けたか次第だ」
彫が深いというより、やたら出っ張った額の下に埋もれた目が睨みつけて来る。落ち着いた口調の奥底に静かな怒気を感じた。
「四人だ」
「そうか――克士郎、茂吉すらも討たれたということか」
「なら、お主で最後か?」
「然全殿は居る――が、抜けると思わぬことだ。身供はここでは又左で通っておる。この通りの得物なのでな」
右手をくいとしゃくると、槍の穂先が現れ――汗が背筋を伝った。それまで槍を持っているとは気づかなかった。何か手にしているようには見えていた。
――兄弟子と同等か
目に対して、穂先を真っ直ぐ合わせ続けることで長柄を悟らせぬ。兄弟子にされたことのある技――否、長柄の初歩と言っていた。無論達人の域のではあろう。
身を貫く憤怒が一気に静まり返るほど、肝が冷えた。
「退け。あの四人全員斬り伏せた腕。若い身空でよくも鍛えたものよ。良い師に習い。良い仲間と切磋したのであろう」
「お主で五人となる」
「惜しいと言っているのだ。力の差が分からぬわけではなかろう」
「だとしてもだ。やるのだ――やらねばならぬ」
「あたら若い命を散らすなと言うておる」
「黙れっ」
「なるほど、其方の覚悟は分かった――では」
又左は頷いた。割れた太い顎を引き――引き続けて、綺麗に剃られた月代を照らし油を付けた髷を見せ、尚そのまま頭を下げ、自らの得物すら手を離し、地に頭を付けた。
「どうか退いてはくれぬかっ」
土下座――一切の疑念なく無防備な、最上の謝意の表れ。
反撃はなく、完全に勝てる。
ならば斬るが煤宮の道理。格上が自ら晒した隙を突くが生きる術。
「何を言っている? 襲ってきたのはお主らであろうが!」
抜けなかった。右手は腰にあり、打刀から短刀へ、短刀から打刀へと泳ぐ。掴むことできず口を衝いて言葉が出て来てしまう。
「ああ、そうか。そうだな。鉄治らのしでかしたこと。だからこの通りだ。幸いにも無事なのだ。身供の頭でなんとか収めてくれ」
「違うっ、始めたのは山中だ! お主らはすっこんでいれば良かった!」
「そうか、やはり仇討ち――なればこそ退いてくれぬか」
更に頭を擦りつける又左に「猶更退けるかっ!」と声を投げかけることしか出来ない。
「お主も四人斬ったであろう。身供らの仲間を――それで手打ちとならぬか」
「彼奴らも罪人であろうが。斬られて当然だろう」
「違う、それは違う」
「少なくとも一人は辻で斬ってただろう」
「相手せねば良かった。刀握らず、受けねば良かった。さすらば克士郎とて斬らん」
「なら後の奴らは!」
「罪はある。だが、少なくとも斬られねばならぬほどではない。命を奪っていないものもおるのだ。残りも仕方なく――」
「ではあの化け物はなんだというのだ。あれも仲間なのだろう」
「茂吉も人だ。故なくば斬らんっ!」
一際大きな、叫ぶように声を上げた。
「だから―ーだからどうした! 山中には関係のないこと」
「分かっておる。仇なのだであろう。だが討つまでもない」
「あるっ!」
「身供らは戻る場所などないのだ。もはや人里に降りることすら適わぬ身。名を捨て世俗を離れ――其方が手を下すことがなくとも死んだも同然の身。これ以上何を求める」
「だが生きている。息をしているのだろう――足はついているのであろうがっ!」
「ただ生きているだけ、息をしているだけだ。人としての生を歩めぬ身だ。残されたのは武のみなのだ。共に剣を振るい、腕を磨くことだけが最後の道。その道の仲間を斬られた心中、忸怩たる思い、そこまで鍛え、仇を追うお主ならば――」
がりと音が響き、口の中に鉄の味が広がった。
「それはお主らの罪の代償だろうがっ!」
「そうだ。だからその代償で――」
「収まると思うのか! そんなことで――怒りが――止めることが出来るのか。そんなことで止めることが出来るはずもない!」
「だがそこを収めてこそ、我慢してこそ人徳という――」
「あっはっはっ!」
新之丞は声を上げて笑う。
口働きの笑いだ。戦いへと誘う笑い――ただもはや声だけしか笑えないでいた。
「なら、俺が然全を斬る。それを黙って見ていろ。お前が、その徳とやらで収めて見せるがいい!」
だが又左は動かない。涼すら感じさせる、諦めたような顔で小さく口から「もうしたのだ」と漏らした。
「は、何を?」
「もう我慢した。と言った」
「何だ。四人の仇をか? 討たれる側が助太刀したのだ斬られて文句は言うなっ!」
更に怒号を仕掛ける。だが又左は姿勢を崩さず言葉を続けた。
「かつて身供はとある藩に勤めておってな。暇を見てはこいつを振るっておった」
そう言って何万と振ったであろう型で槍を操る。
六尺を超える長柄。無駄な装飾のない素鎗とはいえ素早く力強く、斬った風が傷に響くほどの威力を持つほどだった。
「城勤めとこいつの修行。妻も子も置いてけぼりだ。あの頃ですら顔をはっきりとは思い出せなかった。だからな。妻が姦通していることも知らなんだ」
「自業自得であろうっ! それが一体――」
「斬らなかったのだ」
「――女敵討ちか」
「その通り、いや。それだけではない。妻だけでなく――何れにせよ。身供は良い笑い者よ。丁度藩にも障りがあってな。二度と仕官は適わぬようになった」
果たして新之丞と又左のどちらの境遇がより名を穢すか。
新之丞は声を荒らげることしか出来なかった。
「下らんっ! 武士の、男の面目も捨てたお主と同じにするなっ」
「そうだな。自業自得だ。己の業は己で得るもの。お主のは違う。父の業であろう。その業に身を焼かれる必要はない」
「だからだ。その業に巻き込んだ者を討たねば止まぬのだ!」
「止む。命まで取らずとも良い」
「話を聞いていたのか。止むわけがなかろうっ!」
「討った証が立てば止む。仇討ちとは武家の面目。それを立てれば良い。刀と耳の一つでもあればそれで面目は立つ。身供の命を掛けて貰って来る。それでどうか!」
またしても地に頭を擦りつける。
本気でそうするつもりの目。この男が言うならば武家の面目は立つのだろう。武士の魂たる刀を奪い、身体の一部でもあれば。
皆、喜んで迎えるだろう――だが。
「ふざけるな――そこまでして。何故生かす」
「其方こそ。そこまでして死を望むのか」
「何も――知らぬ分際で何を言う。最初に殺したのは奴だっ!」
「だとて、殺さねど立つ瀬はあると言うておる。身供とて子すらあの男の子だった。それでも我慢出来たのだ。其方も――」
「そのために山に籠れと? すべてを捨てて山に籠り修行し――平静を保てるだと? 違うな。お前はただ諦めただけだ! ただ心に何も映さなくなっただけだろうが! 俺は、そんなもの御免被る! 俺は討つ! 仇を討たねばならん!」
「無理だ――分かるであろうに。何故分からんっ!」
懇願にも見えた。分厚い額の下の細い目には、月映す潤みすら。
「――お前に何が分かる? 仇を討たずに進むことを止めたお前に――進む俺の何が分かるというのだ」
「勝てぬと言っておるのだ。克士郎や茂吉相手に満身創痍の腕では――然全殿はおろか身供にすら勝てぬ。命を捨てるな。仇は討てぬ! 面目を拾って帰るがいい!」
「驕るなよ――すべてを諦めた者に負ける道理などありはしない」
「っ! ここまで言うても分からぬというのか。どうしても死にたいというのか!」
新之丞の右手はついに迷いを捨て、止まることなく打刀を掴んだ。
「――相分かった」
ゆるりと立ち上がる。どこか情けなくすらあった兄弟子を彷彿とさせていた優し気な又左。
出っ張った額に皺が走り、猛々《たけだけ》しい将のような面構え。数多の戦を乗り越えた本物の武威を纏う――鬼の形相と化した。
「又左と渾名される身供の槍――其方の凶刃、届かぬと知れぃっ!」
押しつぶさんばかりの大きな圧力。
再び穂先は闇へ隠れた。




