十九 思い出
山の陽はつるべ落としのように、少し翳ればすぐに落ちてしまう。
薄暗い山林の道はすぐ見えなくなった。茂吉の死体を後にして。来た道――と思われる、血の臭いのする方へと歩く。
「はぁはぁふぅ」
足取り重く、ふらふらとしながら、右脇腹を抑えながら暗くなってきた道を歩いていた。
濃い死臭の崖下。小さき克士郎、大きな力士を横目に歩いた。
「――まだ。まだだ」
辺りは暗くても茹だる熱気の中、血の失われ続ける中、汗すら出なくなる中を乾く喉を癒すのも、血を止めるのも忘れるほどに呆然と、それでも仇の元へ。
しかし足は付いてこない。
新之丞は何かにつんのめって地に伏せた。
「っっっ!」
腹に鋭い痛み、打たれた場所か――と重い身体を地面から引き剥がすように転げて仰向けになる。
腹の下からころんと転がった印籠。
印籠から緩んだ紐に付いた小さく尖った嘴の木彫りの鳥の根付が刺さっていた。
「このっ」
苛立ちを覚えたのは一瞬だった。
右脇の痛みと、耳に響く言葉が手を止めさせる。
『痛い内は生きている。ずっと痛ければ死ぬがのう』
師の笑い声――この素朴な印籠を渡された時のことを思い出す。
加えて腰の大小、緑の衣服に鎖帷子。これら一式、つまり旅支度。しかも仇討ちの旅の用意である。
「なら――中身は――あった」
印籠の紐を緩め三つに分かつ。
真ん中の段に覗く白く光る貝殻。戦い避けられぬ旅に不可欠な血止めである。
『これは凄いぞ。なんと常陸の国の妙薬――ガマの油じゃ』
新之丞でも聞いたことはあった薬。もっとも使うのは初めて。どう使うかも知らない。
ただ、痛みにせっつかれるように上をはだけた。
「ぐっ、止まらぬはずだ」
右脇の突かれた傷口は、ひしゃげた帷子が食い込み傷が閉じるのを防いでいた。
刻一刻と流れ出る血。止めるためには帷子を脱がねばならない。
「くそっ」
帷子は前の合わせ金具で止めているだけで簡易に着脱できる。が、乾いた血が付き取りづらい。挙句新之丞の捻じ曲がった左指は細かく動かせない。この手の作業には不向き。
悪戦苦闘しながらようやく金具を外すと、剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。右脇の傷に埋まった金属ごとであるから「ぐあ」と声が出た。
「――よし――後は」
荒れた息を落ち着かせる間もなく、震える指で黒い軟膏を拭いとって――気合いを付けてガマの油を傷に塗り込んだ。
「く――?」
覚悟をようした割りに不思議と痛みはなく、また沁みもしなかった。
”良薬口に苦し”なら”良薬傷に痛し”ではないのか。と傷口を何度も確認する。
「大丈夫――大丈夫だ。ガマの油だ。血くらいすぐに止まる」
師の用意したもの。効果を疑うべくもない。
『大丈夫』と念じながら脇を抑えて、近くの木の幹に身体を預けた。
――これからどうするか
既に満身創痍。右脇もそうだが、克士郎に差し出した左腹も痛む。足とてもう幾らも走れぬやもしれない。
まだ、鉄太もいる。最低二人は残っている。
しかも、山中は茂吉より強いはず――でなければあの化生は首を取るだろう。
「そもそも――ここ――も安全か――どうか」
まだ送りこんでくるか。
山のざわめきは”違う”と言っているが。今はあまり自信がない。
居場所は分かった。生きているのも分かった。
――一度退いて体勢を整える。それが煤宮だろうか――
脳裏に過ぎるは弱々しい考えばかり。
克士郎も茂吉も十回立ち会えば五と言わず、三回程度しか勝てぬであろう。
それほどの相手、強気になれようはずもなく。
「どう――する――か――」
月明りを眺めていたはずが、気付けば夢の中だった。
夢には、幾度となく思い起こした師の顔があった。
なんとか笑おうとして無理にひん曲がった眉の長谷野。
あの夏の夜の後、道場の中で見た顔だ。
蛆と血。滑る暑気とむせ返る死臭の中で。哀しみにくれた、やるかたない顔であったが間違いなく光だった。
『おお――』
悲痛な声、汗だらけだというのに温かい大きな手が妙に心地よかった。
この頃のことはあまり覚えていない。
次に覚えているのは弔いの時だ。親類縁者が集まった。総勢二十人は超えたろう。多いのか少ないのかは分からない。それがすべてかも知らない。
新之丞は一人残されたからだ。
坂上の祖父は借銭で首が回らなくなり、娘と名を父に売り払った男。
父方の当主は大叔父。親族相手でも利なくては動かぬ大叔父。親族相手に高利を吹っ掛けるほどの、ドケチ。
この二人の当主が、父母の弔いで新之丞に言い放つ。
『でかくなって家督だなんだとわめかれちゃ適わねぇな』
『七年しか持たぬとはな――やはり新助。目が曇ったわ』
祖父は早々と戻って来た士分をまた売りたい。
家督を継ぐと主張しかねない子供は邪魔。
大叔父は金を出した身。なのに士分をよこせと言っても貰えない。
新之丞を育てたとて家督を奪う正統性にならない。
双方共に『要らない』と捨てて帰った。
当主が言えば残りも従うざるを得ない。
投げて寄越した一文銭六枚だけが親族としての関係となった。
『おお――なんという』
再び師になる人の顔が曇った。
新之丞は様子を身に来た父の師である長谷野によって拾われた。
とはいえ長谷野も妻を失くした一人やもめ。道場の先行きは暗澹たる状況では引き取り育てることは難しい。
『ふむ、娘のところに行くか?』
荻野新宿の街道沿いの小間物屋『天水屋』。長谷野の二人居る娘の上の方が、嫁いだ家に預けられた。
主の喜助は名の通りの何でも笑って喜ぶ男、この時も喜んで二つ返事。
天水屋には既に三人も子供がいるのにも関わらずだ。
もっとも長男は元服を済ませて商いの手伝いで行商。家には滅多に帰って来ない。次男は昨年に奉公に出て行った。
とはいえ新之丞は身内に陰惨な事件のあった子である。不吉と捉えられても仕方のない身。長谷野とて遠慮がちだった。
『本当に良いのか?』
『うちの子は一人になっちゃってねぇ。遊び相手が欲しかったんですよ』
『しかし――遊べるものか』
『あんなことがあったんですから――当然ですよ』
『なーにすぐ笑わせて見せますよ。はっはっは。あ、笑っちゃ悪いか?』
そう言って主の喜助と妻のくらは二人揃って喜んだ。
何も気にせず、普通の子、しかも実子同然に寝床も食事の膳も同様に並べる。
だが新之丞はそれを受け入れなかった。
武家の子の意地だったのか。今はでは分からない。
『ほら遠慮しなくていいのよ』
とにかく奉公人である、丁稚であると、頭を振って拒絶していた。
土間で寝起きし、食事も座敷に上がらず摂った。出来得る限りの手伝いも申し出て水汲みや簡単な使いをして過ごそうとした。
そんな新之丞をも放っておかなったのが娘のかやである。
自分より下の子が出来ると聞いて初日から新之丞に付き纏った。
『はじめまして、私かや。あんたはなんていうの? なん歳?』
右手の指五本を開いて見せればわざとらしく『おない歳なんだ』と喜んで見せた。
更にかやが三か月先に生まれたと分かるとお姉さんぶった。女子の方が大きくある年頃であるのに、この時のけして大きくない新之丞より背が小さいのにも関わらず。
お姉さんぶって新之丞の世話を夫妻に変わって焼いた。
『上がって食べるの』
『寝るのはこっち、もうゴザ引いたもん』
などしつこく新之丞を誘い続けた。
さらに新之丞の水汲みや、近隣への使いにも人知れず――ばればれであったが――後を付いて来る。
それは新之丞を守るように。恐らく兄たちにして貰っていたように。
そんな天水屋に慣れようとしていた、心許そうとし始めていた時期――新之丞は毎夜夢をみるようになっていた。
悪夢だった。
いつも夢は暗闇から始まる。右も左も天地も分からない。陽の光も月の灯りも届かない。
何も見えない。一寸先は闇――であるのにしゃれこうべが見える。
二つの骨、雌雄の頭骨が一つづつ足元に現れて始まる。
顎がカタカタとなるとずいと新之丞の顔を目掛けて登ってくる。
足元で踊るようにカタカタと揺らぎながら登ってくる。
ずるりと暗黒から頸椎を引きずり出しながら登ってくるのだ。
後ろに走ろうとしても振り向けない。
足を後ろに退こうとしても進まない。
慌てふためき、振り払おうとしても逃げられない。
恐れ、慄き、叫び声を上げようとしても声は出ない。
ずるり、ずるりと音がして。
肩、肋骨、骨盤まで現れて。
膝、腿、腰と這いずる。
カタカタカタカタ震えながら。
懸命に振り払おうとしても払えない。
水の中のように身体は重く、鈍く、動けない。
二体の骨はやがて腕を取り出す。
手の指が生まれ、新之丞の腹を引っかきながら登ってくる。
不思議と痛みはない。
ただ痛いほどの焦燥感と怖いほどの熱感で、声にならぬ叫び声を上げる。
カタカタカタカタと顎を鳴らして登ってくる。
ざわざわざわざわと全身の骨を揺らしながら登ってくる。
カタカタカタカタと何か言葉を発しようと顎を開け閉め。
ざわざわざわざわとやかましくて聞こえない。
どんどんどんどん近づくしゃれこうべに呑まれる。
毎夜夢は苛んだ。身を削り、追い詰められていく。それでも昼は普通に振る舞っていたのだが。
ある夜から目覚めると、目の前にはかやの顔があった。頭にはかやの手があり、かやはいつも同じように囁いた。
『大丈夫』
新之丞は耳に触る風の心地良さで目を開いた。
顔を左右に振ると森の中。近くに沢があるのか、水気を運ぶ清涼な風が心地いい。
見上げれば優しく光る丸い月が一つ。まるで目があったように明るく見えた。
「――一体どれくらい」
頭を振ると、いやに冴えている。寝る前の重苦しさがない。それは身体も同じ。手をやると右脇に滑りがない。
「効いてくれたか――」
手にも足にも力は戻っている。
頭も回る、故に煤宮に立ち戻った答えが浮かんだ。
夜の敵陣になど、居るべきでないのは煤宮でなくとも当たり前だ。
体力が戻って来てるとはいえ、怪我が治ったわけでもない。満身創痍に変わりない。帷子ももはや使い物にならぬであろう。左手の仕込み鉄もいつの間にか脱落している。
「行くか」
新之丞は膝を立て、はだけていた上を戻して衣紋を繕い、印籠も付け直し、刀も差し直し、目を川下に向け立ち上がる。
山から風が吹き降ろし、木々がざわめいた。
ざわと、枝葉が擦れる。流れた雲は月を覆い隠す。
左手が腰の物に当たって震えた。
「――分かっております」
山の上にあるはずの根城を睨みつけると――川を上った。




