十八 剛抜刀術
草を踏み、枝を降り、けたたましい叫び声が迫る。
地獄の臭いを振りまく、人ならざる異形を――眼下に捉えた。
「――!」
掴んだ枝を離し、中空に踊り出る。
落ちていく中、刀を握り直し、ほっかむりに狙いを定めると――首が回った。
「ウヘアァッ」
まるで待っていたかのように、頭が不自然に回り、何も映していないような瞳が、あべこべに動いて、新之丞を捉えた。
慌てた新之丞を見透かしたように異様に大きく、目元まで口が開いて笑う。
「ちぃっ!」
笑みのような緩い顔の茂吉の身体はぐいと真横に折れたように曲がる。
だが一向に身体は落ちない、一向に刀は進まない、一向に刻が過ぎない。
もはや刀は止められないというのに。
もはや茂吉の身体は軌道の外。
となれば刻は素早く刻まれ――刃は空を斬り、新之丞の身体は真横に飛んでいく。
「ぐぉふっ、な、何――が」
見えない。何が起きたかもわからない。
刀が空を斬ったら、脇腹で何かが破裂。次の瞬間地に伏していた。
バラバラになりそうな、息が止まりそうな痛みが全身を駆け巡る。
「エフエフエフ、風もないのにそんなゆゆゆ揺れ方しない。登ったのが丸分かりだ。浅知恵って言うんだろ。エフエフ、おまおまおまえさては頭が悪い」
破裂した音のした右脇を抑えると、痛みが顔を歪めさす。ぬるりと手が滑る感触、全身に汗が吹き出すような激痛。
――深い――か
その疑問に答えたのはクルクルと回されていた茂吉の鎌。刃の先端二寸ほど赤黒い脂汚れに気が遠くなる。
鎌で刺された。尖った先が脇腹に、帷子ごとだ。帷子がへこんで肉に食い込む感触もある。化生としか言えぬ膂力に寒気が走った。
「エフエフエフ、首首を、首を、エフエフ。オマオマオ前の首をヲォォォ!!」
尋常ならざる怪物が、異常としか言えぬ咆哮を口から吐く。
山は木々は震えざわめく。陽もまるで茂吉から逃げるように、俄かに傾き始める。
死臭が、新之丞の右脇から死臭が沸いた。
「ココ、怖いカ?」
「お主は山中の仲間であるのか」
「ナナ何、一瞬ダ。首を断てば、イイ一瞬で逝ける。ココ怖くない。怖くないヨ!」
「――ああ」
話にならない、何も見えない。根を掴むどころか、何もとっかかりがない。狐憑きを見たことも会ったこともないが、恐らくこんな問答になるのだろう。
ならば口働きが効くわけがない。
もはや足働きも出来ない。
通用する物が残されていない。
いや最初からかもしれない。
あの高さを落下して無事。化物じみた身体能力と、口働きが通じぬ知性。足働きで負ける体力――山で出会っては行けないモノだったのだろう。
「エフエフエフ、マダ立つのか。オマオマオ前じゃオデには勝てなぁぁい! ワ技もチチ力も、アアア頭もオデがウウエ上ウエェェ!」
だとて、諦めるわけには行かない。
「であろうな。身に着けた技は通じず、作り上げたこの身体すらも上回られ。挙句に足も体力までもだ。確かに考えれば考えるほど、お主には勝てぬ――」
言うことを利かない身体を叱咤し、足に力を込めて刀を杖にして立ち上がる。
逃げたくなる心を鞭打ち、怪物に正対し、目に力を込めた。
刃はまだやれる。荒波も飛沫も欠けは無く、赤い空を力強く跳ね返す。
「――煤宮ではな」
ざわざわと風が吹いて来る。
かつての記憶を、奥底から運ぶような温い風。
夏の風が、存在しないはずの技を呼び起こした。
「エフエフエフ。ナ何だ。刀をしまって。ねねね年貢の納め時って言うんだ! オデしっとるで! エフエフエフ」
息を落ち着かせて刀を納める。
化物を前にして、礼と美意識を感じさせる姿にて立つ。
「――来い」
ゆるりと腰を落とす。
更に息を深く、吸って、吐いて、ゆっくりと心ごと落ち着ける。
でなければ成ることはない。
師は武芸百般。あらゆる武芸を、様々な道場に通い修めた。
『完全に使えるわけではない』
その師をしてこう言わしめる技。教えるのも躊躇うほど。
理は分かる。誰でも簡単に。
だが要訣は掴めない。今でもだ。
『煤宮にあってはならぬ技』『ただ破壊するだけの技』『生き残るためにない』と言われた。一撃で師の腕を痺れさせた技。
使えないかもしれない。
だがこの化物に煤宮は通じない。
肉体でも負け、足でも体力でも勝てぬ相手。少なくとも新之丞の煤宮は通じない。
だからやるしかない。これ以外ない。これしかないのだ。
煤宮ではない、この技を使うしか生き残る術はない。
「エフエフ――」
新之丞の様子に何かを感じたか、獲物を品定めする猛獣のように静まった。
新之丞を遠巻きに回る足音だけが響く。
――早く、早く来い
新之丞の血は流れ続けていた。右脇から腹、腿を伝り、足の先から流れ出て行く。
それでも茂吉は前に出ない。
獲物の傷を見定めているように右往左往。一歩たりとも近づいてこない。
「――」
何か言おうか悩んで、止めた。
通じる気がしない。通じたとして、技に障る。
血が抜け切るのが先か、首を欲する化け物の本能が耐えきれなくなるのが先か。天運に任せ、抜刀術の構えにて待った。
「ンフ、エフッ?」
遠慮のない足音が地を噛みならす中、耳を澄ませ。むせ返る死臭の中、鼻を鳴らし。
赤い夕の光の眩しさでも、目を凝らす。
轟と音が鳴った。
遠くから木々のざわめきが近づいてくる。風が、山を降りて、登り、沢を渡って吹き荒ぶ。
蝉を羽ばたかせて、枝を折らんばかりの強い風――身を立てるのも難しい。対峙する二人には絶好の機。
勝ったのは新之丞の理性であった。
「キシャーーーッ!」
強風に紛れた咆哮が耳に入れば、同時に目を開く。映るは地獄の悪鬼が如く形相。
抜刀術――後の先の極みとも言える技、常ならば肝要なのは速度。
だがこの抜刀術はそこに力を必要とする。
早さと力、相反する要素の同時達成を条件とする。
――少し遠いか?
頭に過ぎる考えを余所に、足、手は勝手に動いて、刃を走らせ――新之丞は自然と化け物じみた獣のような咆哮を上げていた。
「っっおおぁああぁっ!」
化生の本能が声に怯えたのか、技の威力が見えたのか、もはや逃げられぬと悟ったからか両手の鎌を守勢に回す。
幾ら刀とて刃は切れぬ。その道理で茂吉は受けに回った。
だが、これはその理すらぶち破る一撃。
一寸の狂いもなく、刃を立て、風を切り裂く抜き打ち、全身の力で叩き込む。
――剛抜刀術
技成れば鋼刃をも断つ。
父が編み出した技である。
「出来た――」
はたして剛抜刀術は成り、化け物の両腕ごと鎌は破壊された。
余った勢いそのままに刃は化け物の首筋を通り抜ければ――喉の奥から潰れた虫のような音を立て、立ち上る黒い血飛沫と、ドス黒い死臭の中。
「アーーア、ヒュン」
どこか間抜けな表情で、どこか間抜けな声を上げて茂吉は果てた。




