十七 茂吉
切り離された転げる首を見送り――ようやく身体が緩んだ。
「――強かった」
血を拭うことも出来ずに転げて大の字になる。
断崖に切り取られた雲一つない空に呟く。
腕は痺れ、足は軋み、帷子の下の腹は震えが止まらないでいた。
そよぐ風に揺られ草木が身体を撫ぜる。
このまま寝てしまおうか――と中々立ち上がることが出来ない。
「――ォォ!」
耳を震わす音。
風が強まったかと思ったが。
「ォォォォォオオッォォオッッッ!」
声が青空を駆け抜ける。
「巨鳥か?」
断崖から石を剥がし、木々を揺らす、空を揺らすように劈く濁った叫び。
山々に響き、次々発せられる声が残響となり、音の出所が分からない。
「カ、カ、カツシロォォォォォオォォオオォォッ!!」
身体を起こし、上下左右に首を振る――と、目の前が爆発した。
木の幹が炸裂、枝が吹きあがり、葉が舞い踊る。
気が付いた時には頬を枝が掠めていく。それほどの衝撃だった。
「んなっ――上から――?!」
上――としか考えられない。
だが、断崖は鎌倉の大仏三つ分の高さがあるだろう。
「岩か――いや、ならあの声は――!?」
頭の整理が付かない。
足を動かすことも忘れ、その場から去ることが出来なかった。
「ウォォォォォォォン!」
爆発した木の上げた土煙から声、否遠吠え。
まるで狼のような吠え方――童が真似たような下手な吠え声。声を上げ過ぎて濁ったような声の人間。
だがしかし、それでも新之丞は動けないでいた
人が落ちたにしてはこの高さは高すぎる。
人が落ちたにしてはこの衝撃は大きすぎる。
人であるならばこれでは死んでなければおかしい。
であるなら何か、人の声を叫ぶ者は人かはたまた――
「――何奴?」
その問いに応えるように晴れて行く土煙。
現れたのは、薄汚れた布をほっかむりをした野良仕事終わりの農夫、ただの人間にしか見えない。
――だが違う。
目が怪物。濁り切った目は焦点が合ってない。人の目であるならば、それはどこも見ていない。
口が畜生。尖った牙のような歯をのぞかせ、よだれを垂らし続ける。
血が人外。流れ出た血はドス黒く、汚物を詰めこんだズタ袋に穴が空いたよう。
ならばこれは化生、とてもこの世の者とは思えぬ怪異だ。
「首ガ、アアア! オデがオデが――オオオォォォ」
地獄の底から響くような声。耳を直接殴られたような衝撃があった。
吐き気を齎し、平衡を失わせる。ただ、声を上げられただけで手を付かねばならなかった。
だが、そんなことよりも衝撃を受けたのは、目の前の光景。
「カ、カツシロ、カツシロォォォウォレロォォォレロォォッ!!」
臓腑の底から伸びてきたような長い舌。克士郎の首をぐるり取り囲みながら、しゃぶりつき舐め回す。
――地獄かここは
現世に現れた餓鬼。目を背けざるを得ない光景に、目が離せないでいた。
「アウアウアウアァァ!! オ、オデが、斬るハズだったのにぃぃぃ!! オマオマオ前!! オ前のセイがぁぁぁぁっ!!」
目を背けられない地獄の中で、異様に長いくすんだ手足が鞭のようにしなった。
何をしているのか、理解の外の化物の行動が分かったのは肩に痛みが走ってから。
どんと当たる重み、どすんと落ちる。
「く、首――?!」
克士郎であったものだった。
黄色がかった唾液で塗れた克士郎の首。鼻に付く鉄の錆びた匂いと、どこか甘くそれでいて鼻が曲がるような嫌な臭い。
茂吉――克士郎が呼んだ名の化物の悪臭が纏わりついた。
「エフエフ、オマオマオ前の首も細くてイイナァ、白くてイイナぁぁ!!」
どこも見ていないはずの目と視線が絡む。
否、絡んで話すことが出来ない。蛇に睨まれた蛙と同様に。
「ヨコセェェェェ!!」
声は聞こえていたが、意味は分からない。
未だ頭は回っていなかった。
茂吉が何者かも、何がしたいかも、どう動くのかも――分からない。
異様に長い手を両肩が外れたように、肩まで背に隠す。膝を曲げて、ほとんど後ろに倒れ込む姿はまるで蜘蛛だな――と呆然と考えていた。
再び両手が振られたのも、そこに鎌が握られていたのも、見えていたが理解はしていなかった。
ただ、新之丞に染み付いた反射が身体を動かす。
『あらゆる武器を受けられねばならん』
師と兄弟子を相手に受け続けた鍛錬がすんでのところで生かしてくれた。
「鎌かっ」
草を刈るための道具。鎖と分銅を付けて武器し、武芸へ昇華したものがある。だが茂吉という怪物は両手に備え、異様に長い手を鎖のように揺らしていた。
腕を折りたたみ、蟷螂のように構えて、しならせ攻撃してくる。
――どちらかと言えば鞭か。
先端よりも、内側が危険である。
故に鎌の内側、手の先端に居れば受けは余裕。
しかも克士郎と違い、起こりが大きく、前への勢いも足らない。
新之丞の受けは出来る――はずだった。
「シャアアアア!」
だが、虫の如き硬質な動きは、新之丞の埒外だった。
長すぎる手と、奇怪すぎる動きに距離を見誤った。
「ク、首ィィィッ!!」
双方から鎌、下がるは間に合わぬ。
足腰の力を抜いて、がくりと身体を落とす。
と、風が頭頂を撫ぜる。髪が数本舞った。
「ちっ」
避けこそしたが、この避け方は腰の重心を下にずらす。
つまり、立て直すのに時間が掛かる。
手を使って背後に飛び退くも、もう距離は取れない。
「イ、イ、イタダキォォマァァァスゥゥ!」
獣か蛇か蟷螂か、どんな声も当てはまらないであろうこの世の物とは思えない声で叫び続けた。
鎌を振り、手を内で交差させると鎌を反転。手を戻しながら斬りつけてくる。
縦に横に下に斜めに、ありとあらゆる角度から、いつまでもいつまでも斬りつけてくる。
「っっ!」
息つく暇もない。
声を上げながら、唾を飛ばしながら、風を巻き上げ、鎌を振り回す。
「アァァァァァァアアァァァッ!!」
左手の鎌は右手の刀で、右手の鎌は仕込んだ鉄甲で捌く。
獣のように虫のように直線的に、人に非ざる角度からの攻撃を捌く。
何も考えずに躱して、捌けて続けていた。
獣のように遮二無二、蟷螂のように直線的――つまり獣にも虫にも慣れている、煤宮には容易い。
だが、茂吉は獣でも虫でもなく――化生であると忘れていた。
「ぐおっ」
腹に衝撃。背に痛撃。背後の木の幹にぶち当たる。
先刻の位置から三間は飛ばされただろう。その威力たるや帷子を突き抜けて、胃の臓腑が灼けるよう。鉄の球でも落とされたような威力だった。
不気味に笑う茂吉の顔の前のわらじの底のような足の裏が、その攻撃が蹴りであったと教えた。
「つっ――だが、ち、重畳――っ」
込みあがる酸味は、取れた距離の分で我慢が出来る。
これだけ距離があるならば、足働きの出番だ。
「エフエフエフ! 追い掛けっこ!」
振り返り、木々の間を駆ける。
最初から逃げておくべきだった――そう思っても後の祭り。後悔先に立たず。
頭を空にして森を掛けた。もはや誘導を考える頭もなく。ただ逃走。
――だが、追いつかれていた。
「キャッキャッ! マ待て待テェェ!」
足働きで負ける。
幾ら連戦に次ぐ連戦といえど、野山で走り負ける鍛え方はしていない。
「マ待って待っテ!」
だが、幾ら手足を回しても振り切れない。どころか声が近づく。
この暑気の中、燃え上がるような身体に、氷のような冷気が走る。
「ヤ、ヤッタ! ヤ、ヤ、ヤッタァ!!」
何が何やら分からないで駆けた。
時折背に感じる風を受けながら、汗と冷や汗を垂らしながら。
――チクリッ
と、風が吹き。
「キャッキャッ!」
と、茂吉が童のような笑い声を上げ。
――チクリッ
と、また風が痛みを伴って吹く。
――まさか
風が吹く度に声が上がって距離が開く。
嫌な予感がした。
首筋に手を当ててしまう。
――髪が?!
触るはずの髪がない。垂れた結び目の直下から先に何もない。背の中ほどにまでもあった髪が、首元で斬られている。
戻した手を見ると、汗に混じった赤い――血に濡れている。
――次はっ
後頭部から喉まで通るような痒みを感じた。
「ツ次、ツーギ! キャキャキャ!!」
明快な殺意。
遊んでいるかのような声が近づいて来る。
新之丞の足は限界を超え、呼吸は乱れた。
飛ぶように坂を駆け下り、やぶに突っ込み、倒木を飛び越え、木の間を縫うように少しでも引き離せるように足を回し続けても――
「マ待て、待てマテマテ!!」
子供のように無邪気で、邪気の塊のような顔を歪めた姿が見える気がした。
――逃げ切れない
もはや選択肢は一つ。
斬るのみ。
だが、体力、肉体で負けている。今は心でも負けている。
「なら――っ!」
新之丞は歩を緩めた。
「ウヘヘヘヘェェ、ア、諦メタノカァァ」
振り返ることなく、足を緩め。
首を差し出すように直立。
目を瞑り――耳と鼻に全神経を集中する。
あの強すぎる死臭を超えた悪臭で距離が。無邪気に声を上げて機が分かる――ことに賭けた。
「首首首首!! ジャア首ダァァァ!!」
匂いが近づき、風が触れる直前――飛び出す。
「ムムム、マ、マダヤルノ! 待ッテ! 待ッテ!」
無論、すぐ茂吉に追いつかれるだろう。
だが、ほんの少し距離が稼げれば良かった。
――あそこまで、あそこまでっ
目は一点を見つめて走った。
そこは森、遠くからでも分かるほど大きな木の群生した場所。長く張った枝と茂る深緑は新之丞の着物が溶け込み。太い幹はすっぽり覆い隠すほど。そこに入るまでの距離があれば良かったのだ。
「エフエフ、マダママダマダァァ!」
「あああああっ!」
胸を打つ心の臓が弾けて爆ぜようと、喉が張り付き張り裂けようとも足を手を限界を超えて自らの身体がどうなろうとも考えずに走った。
「よしっ」
後ろは遠い。悪臭はまだ彼方。
新之丞は臭いを確認しながら、森を見ていた。
もっとも太く、もっとも枝振りの良い木を探して。
「あれだ――っ!」
自らの身体を超える太さ、自らの身を支える枝。期待通りの木の前に走り込み――
刀を口に咥える。
空いた両手は袖へと一度引っ込め、抜き出すと両手に巻かれた金属の帯。帯には爪が三本付く。掌側から伸びた爪――手掌鉤と呼ばれる道具である。
新之丞は木に飛びつき、爪を掛け、足で突っ張り、幹を駆け登る。
「――来い」
口働きと足働きとは逃げるだけでない。
必殺もまた副次の効果に過ぎない。
本来の働きとは――地の利を取ること。
騙し賺し欺いて逃げて良い。正々堂々、尋常に、武士道なぞ犬に食わせればいい。
尋常に勝てぬなら勝てる位置に立つ。
それが煤宮の戦いである。




