十二 足働き
河原の石を蹴とばして新之丞は走った。
木々の隙間を縫うように、枝で顔を打ち、袖を引っかけて走る。
刀は逆手に、左手は鞘に当てて身体の均衡を保ち足を動かす。
「ふっふっはっ」
いつも通り、二度吸って、一度吐いく。かつて覚えた呼吸で走る。
見知らぬ山を、陽に向かって上った。
張り出た根を飛び越え、繁々《しげしげ》と育つ草むらにも怯むことなく突っ込む。
見知らぬ山であろうと、新之丞の足は修行にて鍛えられている。
――足働き
煤宮にて習った二つ目の技である。
逃げるための走り、走りを止めぬための呼吸。そして、どんな大男だろうが倒す技足り得ると。兄弟子は言った。
それまでただ地味で辛い走るだけ――逃げるだけの修行だと思っていた足働きの、その真価を知ったのは夏の山だった。
「待って、兄弟子――し、新之丞っ」
背後から聞こえた伝助の声。新之丞は振り向くことなく前の兄弟子、松原平七の背を追い掛けていた。
「休んでて良いぞーゆっくり付いて来ーい。新之丞も無理はするなよ。今日は日差しも強いし、今までと違って山は足元も悪いからな」
松原は細く神経質そうな顔に似合わず軽快な声。振り向いた顔は限界まで柔和に崩して――余裕の表情で炎天下の山の中を走っていく。
となれば新之丞も「まだ、まだっ!」と追い掛けざるを得ない。既に息は苦しくあったが足を止められなかった。
「やるなーよーし!」
松原は時に、いや往々《おうおう》にして新之丞たちを子供扱いする。
元服前であるし、年齢差も十ある。当然なのだが、それでも気に食わない。
『子供だから』
そう言われて修行に手加減を感じることも多数ある。生ぬるい修行もそのせいかと思えば反骨心も芽生えようというもの。
「ふっふっっ!」
「ほら、新之丞。呼吸呼吸。ふっふっはっだぞ。ふっふっはっ」
松原に並ぼうと足を早めれば、その分足が早まり差は変わらない。それどころか、指導までされる。
となれば新之丞の気性は足に限界を超えることを選んだ。
「ふっふっふっはっ、ふっふっはっはっ」
声を上げ、手を振り、足を回す。水の中で、もがく犬のようにだ。
松原は変わらず悠然と動く。長い手足は余裕で、軽やかに感じる走り。
だからこそ、新之丞はもっと早く手足を回した。
「おーい無理するな」
心配する兄弟子の声も足を動かす糧にして。
走り走って、口は空気を求めて上へ向いた。
息の限界となっても、足は止められない。止めたくない。
「うおおおぁぁぁあぁぁっっ」
もう整えるのは諦めて吠えた。
ただ一瞬”兄弟子に追いつきたい”という一心で、到達する。
無の境地とでもいうのであろうか。
そんな武人の極地のような場所。
苦しさを忘れ、ふわふわと浮いたような感覚。
足働きをしているとそこに辿り着く。
新之丞はけして得意ではなかった。
だが、この何も考えられない状態が良かった。
今では百回やっても伝助には負ける気がしない。兄弟子にももしや――と内心では思っていた。その自信をぽっきりと折られた。
その思いが、自らの身体の悲鳴をかき消してしまった。
「あ――れ?」
手足の重さすらなくなり浮いたようなというより、浮いている。
目や耳は何も捉えることは出来ず――
「――おい――おい」
気付けば目の前は真っ白――否、日差しで目が眩んだ。
「――しろい?」
「おーい、新之丞大丈夫か?」
「倒れるまで走るなよな。危なっかしい」
白い輝きの中から現れたのは松原と伝助の二つの顔。
兼ねてより似ていると思っていた二人の顔が並んでいた。ただこうして近くで二つ揃ってみてもいまいち似ていない。
どこか表情の作り方――惚けたようにも抜けたようにも見える、人の良さそうな顔をいつもしている。まるで福の神のようであると。
ようやく解けた疑問。新之丞の顔もつられて口角が上がった。
「兄弟子、こいつ頭打ったんじゃないすか?」
「しっかり背から落ちたよ。まだ頭がぼうっとしているだけだ。ほーら新之丞水だ。飲め。それで少し木陰で休もう」
背を支えられて起こされ、竹筒を渡された。
水を飲むが足はまだ力が入らず、立ち上がれそうにない。
「俺にも水ぅ」
伝助も限界なのだろう隣でだらしなく転がる。
松原はまだまだ余裕なのか。立ち上がって、いつものように講義を始めた。
「二人とも身体は大事ないか?」
「はいっ」
「よろしい。初めての山での足働きであるからな。先刻のような無理は良くないぞ」
「――はい」
「ほら肩を落とすな。せっかくの技の修行。お主らは」
「技?」
「師匠からは逃げ足を鍛えるためと聞きました」
深く頷き、二人の前を左右に歩く。まるで寺子屋の指南役のよう。
これは松原が解説を始める前の癖のようなもの。新之丞は正座に座り直すと遅れて伝助も正座。
それを見てまた深く頷いてから話始めた。
「うむ、勿論それが大前提だ。生き残れなければ煤宮でない。走る力が勝っていれば必ず生きて帰れるからな。その為に走っているわけだ。が、それではつまらない。だろう? 伝助」
「うっ、まあ、そりゃあ、いい加減敵をぶった倒したいってのはあります。走ってばかりってのは――なぁ?」
好きな修行ではある。が、伝助に同意した。
「だが、だからこそ足働きを鍛えると良い」
「はぁ?」
「足働きは技でもある。相手を倒すための、まさに必殺の働きをすることがある」
「必殺ですか?」
「そうだ。どんな大男だろうが、どれだけ強かろうが関係ない。絶対に相手を殺せる技足りうる。もっとも煤宮らしい最強の技とも言えよう――知りたいか?」
「是非、教えてください!」
必殺という言葉の響きだけでも魅力的な年頃の二人は即座に食いついた。
生き残るための術――煤宮の教えではあるが、修行を始めて早三年。未だ攻撃のための技は知らない。木剣を握るのすら、月に一度あるかないか。正直詰まらない地道な修行か、人に恨みを買う修行ばかりかで飽きていた。
であるから正座を崩して松原に勢い飛びつきそうになるのも必然。
「はーっはっは。お前らくらいの歳ならそうだよな。相手を殺す技が欲しいよなー。
でも駄目だぞ。煤宮たるもの、まず相手を害す技を欲してはならん」
「えー、そんなー冗談でもひでぇよ兄弟子」
「嘘――なんて」
「んー? 嘘は言うてない。こと剣術においてこの松原、冗談も嘘も言わん」
松原の柔和な表情が一転。厳しい真面目な目つき。
剣術に対する松原の熱意は本物だ。
何しろ潰す予定の道場に一人弟子入りした男。
師によれば「侍の家系、役にも付けただろう」と評されるほど。どこにだって誰にだって師事出来ただろう。だというのに、寺子屋を開き、町医者の手伝いをして道場を切り盛りをしていた。新之丞が来るまでたった一人、火の消えた道場をだ。
「足働きには必殺はある」
新之丞も伝助も松原が”必ず”と言うのであるから事実と信じられた。
ただ、方法は分からず、不思議そうな、不満そうな顔を二つ並べただろう。
そんな弟弟子たちに「出来るかどうかは別だ。難しいぞ」と目を細めて答えた。




