十三 為右衛門
あの夏とは違い新之丞の元気は未だ十分ある。
足を早め過ぎずかといって緩め過ぎず、背後に大刀の空気を感じる距離を取り続けて走り続ける。
「ま、待たんかいっ!」
力士もまだ余力はある。唸りを上げて追いかけてくる。
捕まれば一撃で胴が寸断されるであろう強烈な風斬り音を上げていた。
『必殺には条件がある』
兄弟子の言葉を思い出しながら、絶妙な位置を取りながら走った。
背に、頭に風を感じる、届きかねない位置を走る。
「鉄治の仇ぃぃぃっ!」
『一つ、相手に追わせること。これは口働きを使うことになろう』
達成済みだ。
口働きも要らなかった。最初から怒り心頭。
山賊同士の繋がりが斯くも深いものとは思いもよらなかった。
「死ねぇっ!!」
近すぎる声に、ギョッとして一歩飛びあがって――背中に手応えがあった。
ばらばらと音、背の袋が斬られて荷物が散らばる。
――まずい。荷物に
血の気が引く。足でも掛けられたら終わる。
逃げ切ってしまってはまずい。
『一つ、逃げ切ってはならぬ。追い続けさせるのだ』
新之丞が走るのは殺すため。逃げては殺せない。
「待ちぇぇいぇぇぇっ!」
背後の声に安堵しつつ、草むらに突っ込む。
ばりばりと音を立てて腕から飛び込み、蜘蛛の巣を払って草むらから出ると。今度は倒木が待ち受ける。
――どうする?
飛び越える――いや、ない。力士が追って来れない。
潜るも駄目。
新之丞は左右を見渡し、耳を澄ますと左から水の流れる音。
「どうぅぅるりゃぁぁぁっ!」
右を選択し、横に飛び退くと倒木が弾け飛ぶ。
緊張感のせいか、必殺に近づいているからか、自然と口角が上がった。
『一つ、疲弊させよ。食糧、水、または血がないと直良し』
兄弟子の声を頼りに行く場所を選択していく。
水場から離れ、木の実のなさそうな竹林を目掛け、倒木は斬らせ、岩は割らせて。
陽の当たる道、躓かないように気を遣う。
諦めないように、届きそうな位置に居続ける。余裕をないように見せるために時には足をもつれさせ、息を大げさに吐いても見せる。
「はっふっ」
ただし、既に足働きの呼吸すら必要なくなっていた――頃合いだ。
「そろそろか」
顔を向ければ力士の顔は赤い。
力無く、だらしなく、喘ぐように口を開閉させる。滝のように流れているはずの汗はほとんど出ていない――乾いていた。
陽の光は既に頂点を超えている。
果たして水桶はいつから空だったのか。
いつから水を飲めていないのか。
もはや問うまでもない。
「ま――待てい――て――つ――か、た――」
新之丞はもはや歩いていた。
喘ぐ為右衛門を誘導するように崖の下で止まった。
――いい場所だ
朝から差した陽の光によって熱気が渦を巻いたように籠る場所で振り返る。
もはや演技の必要なく、悠然と構えてじっと力士に目を向けた。
「ひっひっ――ひゅー」
青い顔。つまり機が到来した合図だ。
あと一押し。
あと一押しで、大刀すら持てぬようになり、膝を付き、目から光も消える。
『最後に限界を超えさせろ』
新之丞は刀を構えた。
虚ろなる目に映るように、わざと大きく上段に振りかぶってから正眼に構えた。
「どうした?」
動きが弱い。
遠くなる耳に聞こえるように大きく声を張り上げて仕上げに掛かる。
「鉄治とやらが地獄で待ってるぞ」
「―――――――ぁぁっっっ!」
新之丞を一瞬捉えた目。
力を取り戻し「何をっ!」と言葉を紡ぎ、足を踏み込み――だがそこまで。
「ぐ、ひゅー――ぐっ――ひゅーひゅー」
口の端から、泡を吐き、喉の奥が潰れたように掠れた音だけが漏れる。しまいには膝から崩れ落ちる。
放って置いても茹で死ぬ状態だ。
『さすらば”必殺”である』
兄弟子の言葉を胸に、新之丞は喉を一息に突いた。
「ふっ、ふふっ――これが――」
沈んだ力士が生んだ振動のせいか、必殺の一撃、命を断つ感触のせいか、膝が笑い身体が震えた。
「煤宮か――」
たたらを踏むように足は下がり、腰は勝手に地に沈んだ。
今更恐怖が襲い来て、身体が震えた。
大刀を持った力士の威はけして相手してはならぬ物のそれ。
自らの武では立ち行かない、初めて命のやり取り足りうる敵だった。
天を仰ぎ、垂れて来る汗も拭わず師と兄弟子と修行の日々に感謝していた。
――パチ、パチ、パチ
風にざわめく葉の擦れに手の叩く音が乗って届く。
「中々やるではないか」
声が耳に入ってようやく、気付いた。
警戒も出来ず、立ち上がることも出来ずに、主を探す。
木立の影から、赤黒の着物がゆらりと現れた。
役者のようでありながら腰には大小二本の刀――敵である。




