十一 沢にて
初めての人斬り――その感触は思ったよりも軽かった。
それだけ見事に首の筋を断ったということではあるが、それゆえに新之丞が実感を伴ったのは血を拭うために川岸に膝を付いた時である。
「――うっ」
夏の緑を映した水面に鮮烈な赤が目に飛び込む。
ようやく、錆びた鉄のようでありながら生臭い匂いに包まれていたに気付いた。
振り返れば、鉄治の身体は前のめり、力無くだらしなく半ば埋もれるように河原に倒れている。
仇討ちを志した時より、こうすることは覚悟してた。そのはずだった。
だが、今、その手応えが重みを持てば、胃の臓腑は灼けるように熱い。
「大丈夫だ――」
言葉とは裏腹に水面に映る顔は大丈夫のそれではなかった。
水を掬い、情けない顔を洗い流す。流そうとするも、落ち着くことはなく。
何度も何度も「大丈夫」と念仏のように唱えては、荒々しく顔を擦る。
もはや顔から血が出そうな勢いで。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫――」
ざわざわざわざわと森が鳴る。
揺れていた水面も波打ち、映った顔は更にひん曲がった。
皺が寄り、頬がこけ、口角は上がった笑顔にも引きつった苦悶にも――どこか、かつてみたような相貌へと。
「うわあっ」
幼子のように驚いて、喝を入れられたように、背筋を伸びる。
「――わ、分かっております――分かっております」
そうして水面に喝を入れられた顔は、見る見る険しくなっていく。人を斬るに相応しい修羅の面に覆われた。
「逃がすものか」
獲物を狙う眼光が睨みつけたのは鉄太の走り去った向こう、踏み固めた跡がある。
獣道というにはしっかりとした大きさ、かなりの頻度で通っているのが分かる。
ちらと目を横に逸らせば――大きな水桶が二つ。
「そうだ敵は――山の上。地の利は向こうか」
更に敵は複数。既に攻め入ったのもバレていると考えるべき。
煤宮でなくとも、前に出る場面ではない。
「むしろ重畳――」
新之丞の口角は上がり。
「ここまで利があれば、逃げることはなかろう」
躊躇なく山頂へ続くであろう道に足を踏み入れた。
揺れる枝葉の下、むせ返る緑の匂いに、血を忘れる頃。蝉が一斉に飛び立った。
「――ぉぃ!」
葉の擦れる音に紛れて聞こえる――人の声。
蝉に遅れて、新之丞も我に返ったように身体を木に隠す。
「おおおいっ!」
声が大きくなるにつれ、地面が震え、木肌まで揺れ――圧倒的な何かの気配に唾を飲みこんだ。
「鉄治ぃぃぃ! 返事せぇぇいっ!」
道を転げる勢いで降りて来たのは巨漢の男。
「――力士かっ?」
わざわざ居場所を知らせるように走って来る姿、木の幹から力士の顔を伺う。浮かぶ焦燥に嘘を感じこそしないが、罠を考えるに十分な状況だ。
鉄治と対峙してから時が経ちすぎている。助けに来たにしては遅すぎる。
「おおぉぉい!」
更に地の震えが大きくなる。
新之丞は木の幹に全身を隠して、刀を掴んだ。
――どうだろうと、一刀で伏せば同じこと。
巨体に負けぬように右手を力ませる。
背中で近づきつつある声を感じつつ待った。
「鉄治! 鉄治ぃぃぃっ!」
足指で、地の震えを捉えて待つ。
その最高潮――脇目に巨体の影――機である。
「――ぬぉおっぁぁぁっ!」
新之丞は声を上げ、身体を回し反転しながら木の幹から躍り出る。
巨躯の相手、腹では殺せない。
抜いた刃は斜め上へと――逆袈裟気味に頭を狙う。
「なんぞぉっ!!」
だが想像を超える上に頭が乗っていた。坂道の上、そんな条件だとしても新之丞の倍近い――首を狙った刃が、胸にも届いていない。
それでも常人ならば臓腑に至る深さだったが、分厚い腹では筋にすら届かない。
「あああんっ?! その細っこい刀で――ヌシャ河原で何をしていたぁっ!?」
「さてなぁ?」
出来うる限りの下衆な表情で惚けて見せた。
強がりであったが、新之丞が煤宮を取り戻す効果はあった。
足は勝手に坂を飛び降りるように大きく後退していた。
頭上には風――破裂したような音で、隠れていた木が弾けた。
「鉄治はどうしたぁぁぁ!!」
力士の手にあった片刃の斧が、一撃で幹を半分ほども寸断。
深々と刺さった斧を、いとも簡単に引き抜き。
「答えんかぁぁ!!」
暴風――遮二無二振るわれた斧が音を立て目の前を通り過ぎる。
身体から来る圧力と、肉を盾にした突進力と、一発当れば終わりの威力に、反撃の隙は見えない。
枝を叩き居り、幹を打ち割り、葉を喰い破りながらも腕は回転し続ける。
だが、届かない。新之丞は半歩外に居た。
既に術中、口働きの必要もない。
斬撃の届かぬ位置に立つだけで良かった。
「どうした! どうしたぁぁっ!」
だが、七尺はあろうかという人の埒外にある肉体を持つ力士であれば、斧には重量など毛ほどもないのかのよう。
十、二十と降らせても微塵も斧先は鈍らない。疲弊するのはどちらが先か――根をあげたのは術中に嵌めたはずの新之丞であった。
「待て! 逃げるかぁ」
転げるように、いや実際足を滑らせ坂を二転三転として河原に落ちる。
追い掛けるように転げて来る力士は地を爆発させながら河原に着地。
ここからが本番。足場が良くなれば――と新之丞は構え直す。
力士は咆哮を上げ――明後日の方向へと駆けだした。
「おおおおお! おお、おおっっ!」
そこは川近くの血だまり。倒れた鉄治の元へ。
「お、おおお、何ということじゃ。すまぬ。すまぬ――水汲みなぞ押し付けたから、ワシャが阿呆みたいに飲まねば。いやヌシャの言う通り桶くらい持ってやれば」
血に汚れるのも構わず大刀の下のもはや動かぬ小男を抱き寄せ吠えた。
「ヌシャ何者ぞ! 鉄治の父の手の者か! 何故に放って置かぬ。何故にまだ追ってくる。仕置きは十分受けたはずぞ。何故に斬るまでする必要があったっ!」
「――知らぬ」
「知らぬ? 知らぬで斬ったというんか! 知らぬで?!」
「ああ、そうだ。と言っても先に喧嘩を売――」
「だまりゃぁぁっ!! もうよい! もうよいじゃろう! 限界じゃ! ワシャは、もう限界じゃああ! ヌシャが何者でも、ワシャがここにおられんようになっても、仇は討つ! 地獄に落とにゃぁ気が済まんっっ!」
力士は憤怒の形相で鉄治を置いて代わりに側にあった刀を手に取る。大きく重すぎ落とすようにしか振れなかった異形の大刀は、力士の大きすぎる手を借りて軽やかに宙を舞った。
刃長四尺はあろうかという大太刀と呼ぶべき大きさの刀は、身の丈七尺はあろうかという大男のために誂えられたのだと思えた。
「鉄治ぃ、借りるぞ。力を貸せ巖鉄丸。主の仇を供に討とうぞ!」
まるで仁王――鬼の形相で大刀を片手で扱う様は金剛力士像のようにすら見えた。
重い斧を軽々《かるがる》と振りぬく剛腕と幾ら振るっても疲れぬ膂力を持つ男。
それが新之丞より長い得物を持つ。
自らより大きく強く、そして遠くまで届く。
彼我の戦力差は月とすっぽん、得物を持った侍と牙を持たぬ農民ほどもあろう。
ならばこそ。
ならばこその煤宮。
力無き民が力ある侍に抗するための生存術であれば。
この時の、この手合いのための技、まさに必殺というべき技がある。
「来い!」
声を張り上げ、力士を睨みつけ――
背を向けて逃げ出した。




