009:試練
翌朝、集落の奥へと案内された。
密林の最深部。木々の密度が増し、蔓が天蓋を何重にも編んでいる。
わずかな木漏れ日は、葉の隙間から落ちる細い糸のようだった。
巨木が円形に並んでいる。
どの幹も太い。百年や二百年ではない。はるか昔から、ここに立っているのだろう。
巨木の内に入った瞬間、雰囲気が変わった。
頭の奥にあった靄が晴れていくような、清々しい感覚を覚える。
地面には、円形の陣が刻まれていた。淡く緑色に発光している。
族長が先を歩く。シエラ族の戦士たちは、円陣の外縁に並んで立っている。
ヒルデの姿もあった。
ランズローは、いない。聖域の入口で、足を止めている。
巨木の外側にいて、中に入ろうとしない。斧を地面に立てて、腕を組んでいる。
いつものぼんやりした顔だが、何だか躊躇しているようにも見える。
不思議に思ったが、今は試練に集中すべきだ。
族長が、円陣の中心で立ち止まった。ひざまずき、祈りを捧げ始める。
シエラ族の言語。何を言っているかは分からないが、歌のような響きだ。
しばらくして、空から光が降りてきた。
ゆっくりと。つまり、光ではない。その中から、鷲が姿を現した。
大きい。翼を広げると、円陣の全形を覆いそうだ。
動物でない。魔物に近いような気がしたが、禍々しさは無く、むしろ神々しい。
聖獣。そう呼ぶべき存在が、目の前にいる。
族長が一歩退いて、道を空けた。
翼の一枚一枚が光を帯びている。風もないのに、羽毛が揺れている。
聖獣の瞳が、私を捉える。金色の瞳。視線が触れ合った瞬間、世界が消えた。
巨木も、紋様も、族長も、ヒルデも、その存在が消え去った。
何もない、白い空間。上も下も分からない。ただ、浮いているような感覚。
夢か幻か。そんな空間の中で、突如として、浮き上がってくるものがあった。
闘技場。バニエルが立っている。
剣が光り、スキルカード【轟炎葬】が発動する。
地面が赤く染まり、熱波が肌を叩く。形見の鉄の剣が溶ける。
痛みも蘇る。炎に灼かれる皮膚。
そして、ラドリックの顔。見下した笑み。
「哀れだな、リンカ」
叔父に見下されたまま、廃坑に落下した。
暗闇。岩肌に叩きつけられる衝撃。骨が軋む音。
白骨化した遺体。追いかけてくる巨大熊。
痛みと感情も伴って、次々と記憶が再生されていく。
夜。私室。窓から月明かりが差している。
私の後ろに、母が座っている。髪を梳いている。
鋼銀色の髪。私と同じ色。母の手が櫛を通す。
剣ダコだらけの手で、優しく梳いてくれる。
「私の髪に、そっくりね」
「ほんと?」
「ええ、ほんと。枝毛が多いところまで、似なくても良いのにね」
クスクスと母が笑う。私も、つられて笑う。
母に髪を梳いてもらうのが、毎晩の楽しみだった。
記憶が途切れる。
今度は、珍しく父ジェラルドがいた日の食卓。
フォーラのお得意料理が振る舞われているが、その中にハズレの魔物肉が紛れ込んでいた。
あいつは、昔から変わっていない。見事に引き当てた父が、激しくむせている。
母と私は、ケラケラと笑っていた。
苦痛も、喪失も、温かさも。人生の断片が、目の前を通り過ぎては消えていく。
記憶を見せられている。いや、違う。読まれている。
私の中身を一枚一枚めくられている。
ラドリックへの怒り。母と父を喪った悲しみ。
今度は勝つ。勝ってシルベリアを取り戻す。
母と父と一緒に過ごした、あの思い出の地に、必ず帰る。
記憶の奔流が止まった。白い空間が割れる。
木漏れ日に、風の音。地面の感触。どうやら、元の場所に戻ってきたらしい。
目の前に、聖獣がいた。金色の瞳は、穏やかな色をたたえている。
周囲で、ざわめきが起きた。シエラ族の戦士たちが動揺している。
言葉は聞き取れない。だが、声の調子でわかる。
族長の目も、丸くなっていた。
「……苦しまなかったのか」
ヒルデだった。
あの冷静な女戦士も、驚きの表情を浮かべている。
「……何のことだ?」
訊いた。本当にわからなかった。
ヒルデの目が揺れる。
「記憶を見せられただろう」
「見せられたが、それがどうかしたか?」
ヒルデが言葉に詰まる。
沈黙。何と言ったら良いのか、お互いに困っているような状態になった。
「負けたら悔しいし、親しい人の死は悲しい。ただ、起きてしまったことは、仕方がないだろう?」
私の口からは、月並みの言葉しか出てこなかった。
すると、族長が助け舟を出してくれた。
「わかったぞ、ヒルデ。この娘には、妄想がないのだ」
「妄想が、ない?」
「そうじゃ。まさに記憶を見せられただけ。試練が、試練になっておらんのだ」
ヒルデは、得心したという風に頷いているが、私には、さっぱり分からなかった。
そんな私を見かねて、ヒルデが話し始めた。
「帝国の密猟者が、聖域まで侵入したことがある。勇者がいたんだ。部下が迎撃したが、私は少し遅れた。間に合ったが、遅れた」
冷静なヒルデの声。苦い記憶だが、すでに感情の整理がついている。そんな様子だった。
「あの時、一瞬だけ考えた。間に合わなかったら、どうなっていたかと……」
ヒルデが、周囲の部下たちを見回す。
それから、私の方へと戻ってきた。
「聖獣は、もしもの場面を見せた。部下が男たちに組み伏せられて……」
言葉が途切れる。続きは言う必要がなかった。
「起きていないことだ。だが、私は考えた。少しだけ頭を過った」
ヒルデの後を引き継いで、族長が言う。
「過去の記憶だけならば、耐えられる者は多い。だが、聖獣が見せる記憶は、それだけではない。もしあの時、本当は誰かが、そういった想像も記憶として再生する」
横で、ヒルデが頷いている。
他の戦乙女は、俯いて身震いしていた。
「恐れ、悲しみ、怒り。想像であっても、感情を伴えば、事実として扱われる。我々は、それを妄想と呼んで、想像と区別している。聖獣にとっての記憶とは、妄想も含むのだ」
私は、ようやく理解した。
記憶の再生。あれは、試練の半分でしかなかったのだ。
本当の苦痛は、事実ではなく、妄想ということらしい。
聖獣が動いた。巨大な嘴が降りてくる。人の頭を、丸ごと咥えられる大きさだ。
嘴が、私の額に触れた。
目の前に、忽然と羽毛が現れる。ヒラリヒラリと、空中を漂ってから、私の手の上に乗った。
「聖獣が認めた」
族長が厳かに言った。
「お前の魂は、清い」
聖獣が翼を広げると、金色の光が聖域を満たした。
巨木の天蓋を突き抜けて、光の柱が空に向かって伸びていく。
羽毛が舞う。何枚も、何十枚も。光を纏った白い羽毛が、雪のように降り注ぐ。
戦士たちが膝をついた。族長も頭を垂れた。
光が収束していく。聖獣の姿も、光とともに、徐々に空へと溶けていった。
振り注いでいたはずの羽毛も、すべて消え、私の手の上の一枚だけが残った。
誰も言葉を発さず、聖域を出た。
巨木の円環を抜けると、密林の湿った空気が戻ってくる。
ランズローが、同じ場所で待っていた。
巨木の円環から一歩も中に入った形跡がない。地面に、足跡すらなかった。
「終わったのか」
「……そうらしい」
手の中の羽毛を見た。淡く光っている。
聖獣の残滓。これが何なのかは、まだ分からない。
「行くか」
ランズローが、斧を担いで歩き出す。
後ろを歩く。木漏れ日のせいか、ランズローの背中が、少し寂しそうに感じられた。
族長は、私の魂を「清い」と言った。聖獣が、この男の魂を読んだら、何が見えるのだろう。




