010:出立
背中が地面に張りついている。
息が止まらない。肺が勝手に動いている。吸っても吸っても、足りない。
空を仰いだ。
巨木の天蓋から零れ落ちた日差しが、汗に塗れた顔を照らしている。
指一本動かしたくなかった。慣れない動きを続けたせいで、体中の筋肉が悲鳴を上げている。
「今日で最後だ」
ヒルデの声が、頭上から降ってきた。
見上げると、木の枝に片足をかけて、こちらを見下ろしている。
息一つ乱れていない。
数日間、ヒルデの指導を受けていた。
族長の許しを得て、聖獣の試練で得た力を、身体に馴染ませるための訓練だった。
「最初に会った時は、シルベリアの名を騙る者だと思った」
ヒルデが口を開いた。
そうだった。そこで、彼女と矛を交えたのだ。
「最近、密林に入ってくる者が増えている」
「……父の代からか」
「ああ、交易を始めてからだ」
交易の負の側面。未開と蔑んでいるシエラ族の地にも、金になるものがある。
そう知れ渡ってしまったということだ。
「シルベリアの名を騙る者か……」
利益のために嘘をつく人間は、どこにでもいる。無くすことはできない。
「私が、領主に戻ったら、しっかり取り締まる」
「頼む。シルベリアの米は旨いからな。交易は続けたい」
ヒルデが微笑んだ。
それから、しばらく、沈黙が続いた。
密林の風が、頭上の葉を揺する。遠くで何かの実が落ちる音がした。
「なぜ、負けた」
叔父ラドリックのこと。代理決闘者バニエルのこと。
【自動障壁】などのスキルカード、そして黒級の【轟炎葬】を使ったこと。
族長のいる場では、結果だけ簡潔に話したが、ここでは、戦いの経過を詳しく語った。
「なら、次は勝てるな」
ヒルデの目が、真っ直ぐにこちらを見ている。
そのための訓練。今度は、【轟炎葬】を撃たれたとしても、対処できる自信がある。
「勝つ」
口から出たのは、それだけだった。
ヒルデの表情は変わらなかった。
だが、立ち上がる時に、こちらに手を差し出した。
掴む。ヒルデの固い掌が、私に力を与えてくれているような気がした。
***
翌朝、集落の外れで騒ぎが起きていた。
シエラ族の戦士たちの声が聞こえてくる。
警戒ではない。困惑といった雰囲気を感じる。
「侵入者か」
ヒルデが駆けつけていた。
昨日、密林に入ってくる者が増えたと聞いたばかりだ。
私も続く。ランズローも、のそりと立ち上がって後を追ってきた。
戦士たちの槍の先に、女が一人。
頭から爪先まで、暗色の布で覆っている。
泥にまみれているが、傷は負っていない。
その女が、私の方を見た。
「……見つけた」
聞き覚えのある声。
こんな場所まで、単独で到達できる者は、一人しか心当たりがない。
「ベルタか」
「お嬢様、生きていらっしゃいましたか」
昔から変わらない呼び方。どこか慇懃無礼でありながら、敬意と親愛も混じっている声。
何度も何度も、床に叩きつけられた稽古の記憶が蘇る。
「よく、ここを見つけたな」
「馬車を見つけるところまでは簡単でしたが……。その後は、苦労しました」
ベルタにしては珍しい愚痴。
坑道と密林。古武術・黒影流の遣い手であっても、容易な場所ではなかったということか。
「お嬢様、シルベリア領が大変です」
ベルタの報告は、簡潔だった。
ラドリックが領地を私物化している。
領民への臨時徴収。連日の宴による散財。従わない者の解雇。
父が築いたシルベリアの統治体制が、日ごとに解体されている。
「ガント殿が、皆をまとめています。お嬢様の帰還を待っております」
騎士団長ガント。あの男なら、無言で屋敷を出ただろう。
他の騎士も一緒だろうか。といっても、シルベリアの騎士は三人しかいない。
それぞれに従士が一人付いているが、たった六人の騎士団だ。
領地の警備は、主に衛兵隊が担っていて、こちらは五十人ほどいる。
拳を握った。
待っている人たちがいる。ガントが、家臣たちが、領民たちが――。
「行くぞ、師匠」
ランズローを見た。
大きな影が、斧を肩に担いでいる。
「……ああ」
いつもの一言。だが、石棺の前で、弟子入りを受けた時とは、少し違う気がした。
「行くのか」
ヒルデが、集落の入口に立っていた。
槍を地面に突き立て、腕を組んでいる。
別れの挨拶。いや、戦いに赴く者を、見送りに来てくれたのだ。
「勝てよ、リンカ」
「ああ、また来るよ、ヒルデ」
ヒルデが小さく頷いた。
風が吹いた。木々の天蓋を揺らし、銀の髪を攫っていく。
シルベリアへ、帰る。




